第10話 番としての求婚と、帝都へ
「つ、がい……?」
私は、ルーヴェン様の言葉をそのまま繰り返した。
番。
聞いたことはある。
獣人には、生涯でただ一人、魂で結ばれる相手がいるのだと。
(でも、それって……)
「獣人にとって、番は唯一無二の伴侶だ」
ルーヴェン様は、私の手を取ったまま、静かに言った。
「番に出会えるのは、ほんの一握りの者だけだ。出会えたなら、その者は生涯、番だけを愛する」
「しょ、生涯……」
「ああ。俺にとって、それはお前だ」
金色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。
冗談を言っている顔ではなかった。
「アイリス。俺の妃になってくれ」
頭が、真っ白になった。
(妃……? 皇帝陛下の……?)
ついこの間まで、私は伯爵家で使用人と一緒に台所の隅で食事をしていた。
婚約を破棄されて、家を追い出されて。
父には、病死したことにすると言われた娘だ。
「……無理です」
気づけば、そう口にしていた。
ルーヴェン様の眉が、わずかに寄る。
「理由を聞いても?」
「だって、私は魔力もないし、家からも捨てられて……。そんな私が、皇帝陛下の妃だなんて」
「魔力など関係ない。それに、お前には浄化の力がある」
「それでも、です。私は人間で、陛下は獣人の皇帝で。……釣り合うはずがありません」
言いながら、胸がちくりと痛んだ。
(本当は、少しだけ、嬉しかったのに)
誰かに必要とされること。
誰かに、こんなにまっすぐな目で見つめられること。
それは、私がずっと欲しかったものだ。
でも、だからこそ怖かった。
もし手を伸ばして、また失ったら。
今度こそ、立ち直れない気がした。
「……すみません。少し、考える時間をください」
うつむく私の手を、ルーヴェン様はしばらく黙って握っていた。
「……分かった。待とう」
ルーヴェン様は、静かに頷いた。
「だが、諦めるつもりはない」
(……ずるい)
そんなにまっすぐに言われたら、何も言い返せなかった。
そのときだった。
ばあん、と大きな音を立てて、小屋の扉が開け放たれた。
「陛下ああああっ!!」
飛びこんできたのは、見上げるほど大きな男の人だった。
焦げ茶色の髪の間から、丸い熊の耳がのぞいている。
鎧はあちこち泥だらけで、何日も森を駆けまわっていたことが一目で分かった。
「バロン」
ルーヴェン様が、その人の名前を呼ぶ。
熊の獣人は、ルーヴェン様の姿を見るなり、その場にがくりと膝をついた。
「ご、ご無事で……っ! 昨夜、森の奥から凄まじい光が上がったのを見て、もしやと……!」
大きな肩が、ぶるぶると震えている。
「ずっとお探ししておりました……! 帝都では、陛下は崩御されたと……っ」
「そうだろうな。叔父上なら、そう言うだろう」
ルーヴェン様の声が、すっと冷たくなる。
それから、ふと思い出したように付け加えた。
「心配をかけた。よく探してくれた」
「陛下……っ!」
涙ぐんで顔を上げたバロンは、そこでようやく、ルーヴェン様の格好に気づいたらしい。
胸もとがはだけた、小さすぎるシャツ。
袖は肘までしか届いていない。
「……陛下。その、お召し物は」
「借りた」
「借り……」
バロンの視線が、ゆっくりと私のほうへ移る。
それから、ルーヴェン様が握ったままの私の手へ。
「……陛下。こちらのご令嬢は」
「俺の番だ」
「はあっ!?」
熊の耳が、ぴんと逆立った。
バロンの話によると、帝国では今、ガイウス様が摂政として政を握っているらしい。
ルーヴェン様の葬儀を急ぎ、近く新たな皇帝として即位するつもりなのだという。
「一刻も早く帝都へお戻りください。陛下のお姿を見せれば、ガイウス殿下の企みはすぐに崩れます」
「分かっている」
ルーヴェン様は頷き、それから私を振り返った。
「アイリス。一緒に来てくれ」
「え……」
「返事は急がない。妃にならなくてもいい。だが、ここにお前をひとりで残していくことはできない」
「でも、私なんかが行っても、足手まといに……」
「お前が来ないなら、俺も行かない」
「陛下!?」
バロンが悲鳴を上げた。
ルーヴェン様は、それを気にも留めずに続ける。
「叔父上は、またあの呪いを使うかもしれない。呪いを解けるのは、お前だけだ」
それは、確かにそうなのかもしれない。
(それに)
私は、昨夜のことを思い出していた。
氷のように冷たくなっていくルゥの体。
ゆっくりと閉じていく、金色の瞳。
あんな思いは、もう二度としたくなかった。
この人が、また誰かに傷つけられるかもしれないのに。
私だけ、この森で待っていることなんてできない。
「……分かりました」
私は顔を上げた。
「妃のお話は、まだお返事できません。でも、薬師として、陛下のおそばにいさせてください」
ルーヴェン様の瞳が、ほんの少し見開かれた。
それから、ゆるやかに細められる。
「ああ。今は、それでいい」
出発は、その日の昼と決まった。
荷物は多くない。
母の乳鉢と、薬草の札が入った箱と、ハンスがくれた種。
それだけを鞄に詰めて、私は小屋の中をぐるりと見渡した。
半月と少し。
短いあいだだったけれど、ここで暮らした日々は、きっと一生忘れない。
(お母さま。行ってきます)
乳鉢の縁をそっと撫でて、私は扉を閉めた。
外では、バロンが用意した馬が待っていた。
ルーヴェン様はバロンの予備の服に着替えていて、ようやく皇帝陛下らしい姿になっている。
黒い外套に、銀の髪がよく映えていた。
(……どうしよう。直視できない)
ルゥだと分かっていても、こんなに綺麗な人が隣にいると、心臓がうるさくて仕方がない。
「アイリス、こちらへ」
「え、私は歩いて……きゃっ!?」
答えるより先に、ひょいと抱き上げられた。
そのまま、ルーヴェン様の前に横向きに座らされる。
背中に、広い胸が触れた。
「へ、陛下! 自分で乗れますから!」
「森の道は荒れている。落ちたら危ない」
「でも、この格好は……っ」
「子狼のとき、お前は毎日俺を抱いて歩いた」
耳もとで、低い声がささやいた。
「今度は、俺の番だ」
かあっと、顔が熱くなる。
後ろで、バロンがなぜか空を仰いでいた。
「……陛下が、あんなお顔をなさるとは」
そのつぶやきは、聞かなかったことにした。
馬が、ゆっくりと歩き出す。
国境の森の向こうに、まだ見たことのない獣人たちの国が待っている。
私は、手綱を握るルーヴェン様の腕の中で、そっと前を見つめた。




