第4話 「ルゥ」という名前
小屋に戻ると、私はまず暖炉に火を起こした。
古い毛布を何枚も重ねて、暖炉のそばに小さな寝床を作る。
そこに子狼をそっと寝かせると、私は桶にぬるま湯を張った。
「汚れを落とすわね。傷にさわらないように、そっとやるから」
布を湯に浸して、泥に汚れた毛並みを丁寧に拭いていく。
最初は身をこわばらせていた子狼も、しばらくすると目を細め、されるがままになった。
(いい子ね)
汚れが落ちるたびに、銀色の毛並みがあらわになっていく。
暖炉の火に照らされて、まるで月の光を織りこんだように輝いていた。
「……綺麗」
思わず、ため息がこぼれる。
けれどそのとき、私は子狼の首もとに、奇妙な模様があることに気づいた。
黒い、痣のような模様。
蔦が絡まり合ったような形で、首をぐるりと一周している。
「これ、何かしら。汚れ……じゃないわよね」
指先でそっと触れると、子狼がぴくりと震えた。
「ごめんなさい、痛かった?」
慌てて手を離す。
子狼は痛がる様子もなく、ただじっと私を見つめていた。
金色の瞳が、どこか驚いたように見開かれている。
(気のせいかしら。今、模様が少しだけ薄くなったような……)
もう一度よく見てみたけれど、暖炉の明かりではよく分からなかった。
「まあ、いいわ。きっと生まれつきの模様なのね」
私は気にしないことにして、子狼の体をふわふわの毛布で包みこんだ。
それから数日、私はつきっきりで子狼の世話をした。
毎朝、新しい癒し草で薬を作り、傷口に塗りなおす。
スープを冷ましてから、少しずつ口もとに運ぶ。
最初は警戒して口をつけなかった子狼も、三日目には自分から皿に顔を寄せるようになった。
「えらいわ。ちゃんと食べられたわね」
頭を撫でると、子狼はふいっと顔をそむける。
けれど、尻尾がほんの少しだけ揺れていた。
(照れてる……? 狼も、照れたりするのかしら)
そう思うと、なんだかおかしくて、くすりと笑ってしまう。
それに驚いたことに、子狼の傷は信じられないほどの早さで治っていった。
罠の傷は骨に届くほど深かったはずなのに、五日もすると、ほとんど塞がってしまったのだ。
「すごいわ。あなた、とっても強い子なのね」
子狼は少し首をかしげて、それから私の手のひらに鼻先を寄せた。
罠を外したときにできた、私の手の傷。
もうかさぶたになっているそこを、子狼はぺろりと舐めた。
「ふふ、くすぐったい。……心配してくれてるの?」
子狼は答えるかわりに、もう一度、丁寧に私の手を舐めた。
まるで、ありがとうと言っているみたいに。
胸の奥が、ぎゅっとなった。
(誰かに、こんなふうに気づかってもらうの、いつぶりだろう)
ある晩、私は暖炉の前で子狼と並んで座っていた。
すっかり元気になった子狼は、私の膝に前脚を乗せて、ぱちぱちと燃える火を眺めている。
「ねえ。そろそろ、あなたに名前をつけてもいいかしら」
子狼の耳が、ぴんと立った。
「いつまでも『あなた』って呼ぶのも、なんだか寂しいでしょう?」
私は顎に指を当てて考える。
銀色の毛並み。
金色の瞳。
月の光のような、綺麗な子。
「……ルゥ」
ふと、その響きが口からこぼれた。
「ルゥ、はどうかしら。月の光みたいに綺麗だから。昔、お母さまが読んでくれた絵本に出てくる、月の精の名前なの」
子狼は、じっと私の顔を見つめていた。
ずいぶん長いあいだ、まばたきもせずに。
(もしかして、気に入らなかった……?)
「い、嫌なら別の名前を考えるわ。たとえば、えっと、シルバーとか、ギンとか……」
そう言いかけたとき。
子狼が、こくりと小さく頷いた。
「え?」
もう一度、こくり。
それから、私の膝にぽすんと顎を乗せて、目を閉じた。
「……ルゥで、いいの?」
尻尾が、ぱたり、ぱたりと床を叩く。
私は思わず、両手で口もとを押さえた。
「ルゥ」
呼ぶと、片耳だけがこちらを向く。
「ルゥ」
今度は、薄く目を開けて私を見上げる。
「ふふ……ルゥ。あなたは今日から、ルゥよ」
銀色の頭を撫でると、ルゥは気持ちよさそうに目を細めた。
(なんて賢い子なんだろう。まるで、私の言葉が全部分かっているみたい)
そんなことはあるはずがないのに。
それでも私は、なんだか嬉しくなって、ルゥに話しかけ続けた。
母のこと。
薬草のこと。
この森で、これからどうやって暮らしていこうと思っているか。
ルゥは一度も目をそらさずに、私の話を聞いてくれた。
――このとき、ルゥの首に巻きついた黒い模様が、またほんの少し薄くなっていたことに。
私はまだ、気づいていなかった。




