第3話 罠にかかった銀色の子狼
翌朝、私は窓から差し込む光で目を覚ました。
鳥のさえずりが聞こえる。
屋敷では、継母や侍女たちの嫌味で一日が始まっていたのに。
(静かな朝って、こんなに気持ちがいいものだったのね)
体を起こして、大きく伸びをする。
泣きはらした目は少し重いけれど、心は昨日よりずっと軽かった。
「よし。まずはお掃除から!」
袖をまくり、私は小屋の中を片づけ始めた。
床を掃き、棚の埃を払い、古い瓶をひとつずつ洗っていく。
中には、母の字で薬草の名前が書かれた札が残っているものもあった。
「月光草、眠り苔、銀葉……。お母さま、こんなにたくさん集めていたのね」
母の字をなぞるたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
昼過ぎには、ようやく人が住める程度に片づいた。
ハンスがくれたパンとチーズで簡単な昼食を済ませ、私は籠を手に外へ出た。
「食べられる木の実と、使えそうな薬草を探さないと」
蓄えはそう多くない。
この森で生きていくなら、自分の手で食べるものを見つけなければならなかった。
森の中は、思っていたよりもずっと穏やかだった。
木漏れ日がきらきらと揺れ、足もとには小さな花が咲いている。
(魔物が出るなんて噂、本当なのかしら)
そう思いながら歩いていると、少し開けた場所に、見覚えのある薬草が群生していた。
「わあ、癒し草がこんなに……!」
思わず駆け寄って、しゃがみこむ。
傷の治りを早くしてくれる薬草だ。
母に教わった通り、根を傷つけないように丁寧に摘んでいく。
そのときだった。
「……キュウ……」
どこからか、か細い鳴き声が聞こえた。
私は手を止め、耳を澄ます。
「キュ……ゥ……」
(動物の声? それも、とても弱っている)
声のするほうへ、そっと茂みをかき分ける。
そこにいたのは、一匹の子狼だった。
朝日を溶かしたような、銀色の毛並み。
大きさは、私が両腕で抱えられるくらいだろうか。
けれどその美しい毛並みは泥と血で汚れ、右の後ろ脚には、錆びついた鉄の罠が深く食い込んでいた。
「……ひどい」
息をのむ私に気づいたのか、子狼が顔を上げる。
金色の瞳だった。
まるで夕焼けを閉じこめたような、澄んだ金色。
「グルル……ッ」
子狼は牙をむき、低くうなった。
けれどその声には力がなく、体は小刻みに震えている。
(怖いのね。……当たり前だわ。こんなに痛い思いをしているんだもの)
私は籠を地面に置き、ゆっくりとしゃがんだ。
「大丈夫。何もしないわ。その罠を外したいだけなの」
言葉が通じるとは思っていない。
それでも、できるだけ柔らかい声で話しかけた。
「少しだけ、触らせてね」
手を伸ばすと、子狼はびくりと身をこわばらせた。
牙が、私の指先のすぐそばで光る。
(噛まれるかもしれない)
それでも、手を引っこめる気にはなれなかった。
このまま放っておけば、この子はきっと死んでしまう。
「痛いよね。でも、もうすぐ楽にしてあげるから」
罠のばね部分に両手をかけ、力いっぱい押し広げる。
錆びた鉄が軋み、手のひらに食いこんだ。
「……っ、もう少し……!」
ぎぎ、と鈍い音がして、ようやく罠が開いた。
子狼の脚が、するりと抜ける。
「外れた……!」
ほっと息をついたとたん、手のひらがじんじんと痛んだ。
見ると、皮がめくれて血がにじんでいる。
(このくらい、平気)
それよりも、子狼の傷のほうがずっと深い。
子狼は逃げようとして、けれど脚に力が入らず、その場に崩れ落ちた。
「無理に動いちゃだめ」
私はさっき摘んだ癒し草を手に取り、両手ですりつぶした。
青い香りが広がる。
「少しだけ沁みるけど、我慢してね」
傷口にそっと薬草を当てると、子狼の体がびくりと跳ねた。
けれど、さっきのようにうなりはしなかった。
金色の瞳が、じっと私を見上げている。
(……不思議な目)
ただの獣とは思えない、何かを考えているような目だった。
ハンカチを裂いて脚に巻きつけ、きゅっと結ぶ。
「はい、できた。応急手当てだけど、何もしないよりはずっといいはずよ」
子狼は、巻かれたハンカチと私の顔を、交互に見つめていた。
「さて、と……」
私は困って、空を見上げた。
日はもう、だいぶ傾いている。
この子をここに置いていけば、夜のあいだに他の獣に襲われるかもしれない。
かといって、小屋に連れて帰っても、私にちゃんと世話ができるだろうか。
(でも)
震える小さな体を見下ろして、私は決めた。
「ねえ。よかったら、私のおうちに来ない?」
子狼の耳が、ぴくりと動く。
「狭くて、何もないところだけど。少なくとも、ここよりは安全だと思うの」
もちろん、返事はない。
私はそっと両腕を差し入れ、子狼を抱き上げた。
思ったより軽い。
それに、とても冷たかった。
「……っ」
子狼が身をよじる。
けれど、すぐに力尽きたように、私の胸にぐったりと頭をもたせかけた。
「大丈夫。大丈夫よ」
背中をそっと撫でると、銀色の毛が指のあいだをすべっていく。
泥で汚れていても、驚くほどなめらかな手触りだった。
(あたたかくしてあげなくちゃ)
私は片手で籠を持ち、もう片方の腕で子狼をしっかり抱えて、来た道を引き返した。
腕の中の小さな命が、かすかに震えている。
その重みが、なぜだか少しだけ、私の心を支えてくれる気がした。
ひとりきりだと思っていた森の中で。
私は初めて、守りたいと思うものに出会ったのだ。




