第2話 森の小屋へ
屋敷に戻ると、北の隅にある私の部屋の扉が開け放たれていた。
中は、からっぽだった。
寝台も、小さな机も、母の本を並べていた棚も。
何ひとつ残っていない。
「……え?」
立ち尽くしていると、廊下の向こうから執事長が歩いてきた。
「お嬢さま。旦那さまが書斎でお待ちです」
「待って。私の部屋は、どうして」
「……旦那さまから、お聞きください」
執事長は、私と目を合わせようとしなかった。
(私が婚約破棄されることを、最初から知っていたんだわ)
そうでなければ、夜会のあいだにここまで片づけられるはずがない。
私は唇を噛んで、父の書斎へ向かった。
扉を叩くと、短く「入れ」と声がした。
父は机に向かい、書類にペンを走らせていた。
私が入っても、顔を上げようともしない。
「お父さま。部屋が……」
「座る必要はない。すぐに済む」
ペンの音だけが、静かな書斎に響く。
「王家から正式な通達が来る前に、お前を王都から出す。婚約を破棄された娘が屋敷にいては、クローデル家の恥になるからな」
「……どこへ、行けと」
「国境の森に、あの女の小屋があっただろう」
あの女。
父は母のことを、いつからかそう呼ぶようになっていた。
「お前の母親が、薬草だの何だのを育てていた小屋だ。いずれ取り壊すつもりだったが、お前が住むなら手間が省ける」
「森の、小屋……」
あそこは、魔物が出るという噂のある森だ。
貴族の娘がひとりで暮らす場所ではない。
それは父も、分かっているはずなのに。
「荷物はもう荷馬車に積ませてある。明朝、日の出とともに発て」
「お父さま。私は、いつまでそこに」
「戻ってくる必要はない」
ペンの音が止まった。
「今後、人前でクローデルの名を名乗るな。お前は病で療養中、ということにしておく。いずれ、そのまま病死したと届け出ればいい」
息が、止まった。
(病死……?)
生きているのに、いなかったことにされる。
それが、父の答えだった。
そのとき、父がようやく顔を上げた。
私と目が合う。
ほんの一瞬、父の顔に何かがよぎった気がした。
「……その目。あの女にそっくりだ」
吐き捨てるようにそう言って、父はまた書類に視線を落とした。
「話は終わりだ。下がれ」
私は、しばらく動けなかった。
けれど父は、もう二度と顔を上げなかった。
「……今まで、お世話になりました」
深く頭を下げて、書斎を出る。
扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
涙は、出なかった。
ただ胸の奥が、冷たく、からっぽになっていくのを感じていた。
翌朝、屋敷の裏口に用意されていたのは、古びた荷馬車が一台だけだった。
見送りに来てくれたのは、昔から私に優しくしてくれた老いた庭師のハンスだけ。
「お嬢さま、これを。少しですが、日持ちのする食べ物と、薬草の種です」
「ハンス……ありがとう。あなたには、いつも助けてもらってばかりね」
「何をおっしゃいます。亡くなられた奥さまとお嬢さまが手当てしてくださったおかげで、わしの腰はこうして動いておるんです」
皺だらけの手が、私の手をそっと包む。
その温かさに、泣きそうになった。
(この家で、私の名前を呼んでくれるのは、もうハンスだけかもしれない)
荷馬車が動き出す。
振り返ると、二階の窓辺にレオノーラの姿が見えた。
こちらに向かって、ひらひらと手を振っている。
私はそれに応えず、前を向いた。
国境の森に着いたのは、日が傾き始めたころだった。
御者は小屋の前で荷物を下ろすと、逃げるように帰っていった。
蔦に覆われた石造りの小さな家。
扉を開けると、埃っぽい空気と一緒に、かすかに乾いた薬草の香りがした。
窓辺には、母が使っていたらしい乳鉢がそのまま置かれている。
(懐かしい匂い)
幼いころ、母の膝の上で嗅いだ匂いだった。
「お母さま。私、ここで暮らすことになりました」
返事はない。
それでも、誰かに話しかけずにはいられなかった。
「魔力がないって、また言われちゃった。……お父さまには、いなかったことにされるみたい。でも、もういいの。誰かの顔色をうかがわずに済むなら、ここのほうがずっと楽かもしれない」
言いながら、ぽたりと涙が落ちた。
(あれ……昨日は、ちっとも泣けなかったのに)
ひとりきりの小屋で、私は声を殺して泣いた。
婚約破棄よりも、父の冷たい言葉よりも。
本当は、誰にも必要とされていないことが、いちばん苦しかった。
泣き疲れて顔を上げると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
森の奥から、遠吠えのような音がかすかに聞こえる。
「……明日から、頑張らなくちゃ」
私は涙をぬぐい、母の残した毛布にくるまって目を閉じた。
この森で、自分の運命が大きく変わることになるなんて。
このときの私は、まだ何も知らなかった。




