第1話 婚約破棄の夜
「アイリス・クローデル。今この場をもって、お前との婚約を破棄する」
王宮の大広間に、ユベール王太子殿下の声が響き渡った。
楽団の演奏がぴたりと止まり、きらびやかな夜会の空気が一瞬で凍りつく。
(……ああ、やっぱり)
驚きよりも先に、そんな言葉が胸に落ちた。
殿下の隣には、淡い桃色のドレスをまとった義妹のレオノーラが寄り添っている。
亜麻色の髪を揺らし、大きな瞳を潤ませて、まるで怯える小鳥のように殿下の腕にすがっていた。
「理由をお聞きしても、よろしいでしょうか」
声が震えないように、私はドレスの裾をそっと握りしめた。
「理由だと? 決まっているだろう。お前には魔力がない。貴族の娘でありながら、灯りひとつ点せない役立たずだ」
周囲から、くすくすと笑い声が漏れる。
「それに比べてレオノーラは、光の魔法を使いこなす才女だ。未来の王妃にふさわしいのは、どちらか明白だろう」
「お姉さま、ごめんなさい……。わたし、殿下のお気持ちを止められなくて」
レオノーラが目を伏せる。
けれどその唇の端が、ほんのわずかに持ち上がっているのを、私は見逃さなかった。
(止めるつもりなんて、最初からなかったくせに)
心の中でだけ、そっとつぶやく。
声に出したところで、信じてくれる人はここにはいない。
それは、もう何年も前から分かっていることだった。
私の母は、平民の薬師だった。
流行り病で倒れた父を看病したのがきっかけで、二人は結ばれたのだという。
母は魔力を持たなかった。
けれど母の作る薬はよく効いて、母が屋敷にいたころは、使用人たちが病に倒れることもほとんどなかった。
前国王陛下が重い病にかかったときも、母の薬で持ちなおしたと聞いている。
その恩に報いるため、陛下は幼い私とユベール殿下の婚約を決められた。
それが、私と殿下の婚約の始まりだった。
母が亡くなったのは、私が八歳のときだ。
喪が明けるのも待たずに、父は新しい妻を迎えた。
それが継母のマルグリットで、その連れ子が、一つ年下のレオノーラだった。
この国では、貴族は生まれつき魔力を持つのが当たり前とされている。
魔力のない私は、それだけで「出来損ない」だった。
部屋は日の当たらない北の隅に移され、ドレスはレオノーラのお下がりばかりになった。
食事は家族と同じ席では許されず、使用人たちと一緒に台所の隅でとった。
継母は、私が何をしても眉をひそめた。
レオノーラは、私の持ち物を「お姉さまには似合わないから」と言って、ひとつずつ取り上げていった。
母の形見の髪飾りも、誕生日に殿下から贈られたブローチも。
そして今夜、とうとう婚約者まで。
(それでも、殿下との婚約がある限りは、まだ大丈夫だって思っていた)
前国王陛下が亡くなられてから、殿下が私に冷たくなっていったことには気づいていた。
それでも、いつか分かってもらえると信じていたのだ。
――その結果が、これだった。
「……承知いたしました。殿下のご意思に従います」
深く頭を下げると、殿下は鼻で笑った。
「物わかりだけはいいな。せいぜい家の片隅で大人しくしていろ」
拍手が起こった。
私の婚約破棄を祝う拍手ではなく、殿下とレオノーラの新しい婚約を祝う拍手だ。
華やかな音楽が、ふたたび流れはじめる。
誰も、私のほうを見てはいなかった。
ついさっきまで王太子の婚約者だった娘のことなど、もうこの場の誰にとっても、どうでもいいのだろう。
(泣いちゃだめ)
ここで泣けば、レオノーラをもっと喜ばせるだけだ。
私は背筋を伸ばし、ゆっくりと大広間をあとにした。
扉が閉まる直前、楽しげな笑い声が背中に届く。
それがレオノーラの声だと分かっても、私は振り返らなかった。




