第16話 衰えていく祖国と、後悔する家族
ひと月後、私はルーヴェン様と一緒に、エルセリア王国との国境の村を訪れていた。
帝国から送った救護の一団が、どれほど役に立っているか、自分の目で確かめたかったのだ。
村の空気は、思っていたよりもずっと重かった。
畑の作物は黒ずみ、ところどころに紫色の靄が淀んでいる。
瘴気だまりだ。
(こんなにひどくなっていたなんて)
私は村の中央にある瘴気だまりの前にしゃがみこみ、両手をかざした。
白い光が溢れ、紫の靄を包みこむ。
靄はゆっくりと薄れ、やがて澄んだ空気に溶けて消えていった。
「おお……!」
見守っていた村人たちから、どよめきが上がる。
「瘴気が、消えた……!」
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
村人たちが、次々と私の前にひざまずく。
私は慌てて手を振った。
「そ、そんな、頭を上げてください!」
「いいえ。帝国の聖女さまが来てくださらなかったら、この村はとっくに……」
一人のおばあさんが、私の手を握って涙ぐんだ。
「王都からは、何の助けも来やしなかった。税だけは、いつも通り取り立てていったくせにね」
おばあさんの言葉に、村人たちが一斉に頷いた。
救護所で手当てを手伝っていると、懐かしい声が聞こえた。
「お嬢さま……! アイリスお嬢さま!」
振り返ると、腰の曲がった老人が、杖をつきながらこちらへ歩いてくるところだった。
「ハンス!」
私は駆け寄って、その皺だらけの手を握った。
伯爵家の庭師だったハンスは、少し痩せてはいたけれど、元気そうだった。
「どうしてここに?」
「伯爵家は、もう庭師を雇っておく余裕もないそうで。暇を出されて、この村の娘のところに身を寄せておったのです」
ハンスは、目に涙を浮かべて私を見上げた。
「お嬢さまが、帝国で幸せにしておいでだと聞いて……わしは、それだけで十分です」
「ハンス……」
私は、そばに立つルーヴェン様を見上げた。
ルーヴェン様は、私が何か言う前に頷いた。
「帝国の皇宮には、広い薬草園がある。腕のいい庭師が足りなくて困っていたところだ」
「……え?」
「来てくれるか、ハンス殿」
ハンスは、ぽかんと口を開けて、それから深々と頭を下げた。
その肩が震えているのを見て、私も泣きそうになった。
ハンスや村人たちから、エルセリアの今の様子を聞いた。
瘴気は王都の周辺でもっともひどく、貴族たちは次々と領地へ逃げ出しているという。
そして、帝国の救護団が民を救っていることは、あっという間に国中に広まった。
「それに比べて、王家は何をしているのか、と。今じゃ、王都の民までそう言っております」
ハンスは、声をひそめて続けた。
「ユベール殿下は、王太子の位を取り上げられたそうです。お嬢さまを手放したのは殿下の責任だと、陛下がお怒りになって」
「そんな……」
「次の王太子には、まだお小さい第二王子殿下が立たれるとか」
レオノーラとの婚約も、白紙に戻されたらしい。
瘴気を祓えなかったばかりか、真っ先に寝こんで何の役にも立たなかったレオノーラを、王家はもう妃として迎えるつもりはないという。
「それで、伯爵家は」
おそるおそる尋ねると、ハンスは苦い顔をした。
「領地の大半が瘴気にやられて、ほとんど作物が取れんようになりました。陛下のご不興を買って、爵位も子爵に落とされたとか。奥さまは、実家に帰ってしまわれたそうです」
「……そう」
私は、膝の上で手を握りしめた。
ざまあみろ、とは思えなかった。
かといって、かわいそうだとも思えなかった。
ただ、ずっと遠い国の話を聞いているような気がした。
その日の夕方、救護所の前に、一台の古びた馬車が止まった。
降りてきたのは、父だった。
謁見の間で会ったときよりも、さらに老けこんで見える。
上着の袖口はすり切れ、靴は泥で汚れていた。
そしてその後ろから、もう一人。
「お姉さま……っ!」
レオノーラだった。
亜麻色の髪はぼさぼさに乱れ、頬はげっそりとこけている。
あれほど華やかだった義妹の面影は、どこにもなかった。
「お姉さま、お願い、助けて!」
レオノーラは、私に駆け寄ろうとした。
その前に、ルーヴェン様が無言で立ちはだかる。
レオノーラは、びくりと足を止めた。
「わ、わたし、何もかも失ったの。殿下には捨てられて、お母さまは出ていって、みんながわたしを役立たずって……!」
レオノーラの目から、ぼろぼろと涙がこぼれる。
「お姉さまのせいよ……! お姉さまが、勝手にいなくなったりするから!」
その言葉に、私はかえって冷静になった。
(この子は、最後まで変わらないのね)
「レオノーラ。私は、勝手にいなくなったんじゃないわ。あなたたちに、追い出されたのよ」
「そ、それは……っ」
「役立たずと呼ばれる気持ちが、少しは分かった?」
レオノーラが、言葉を失って立ち尽くした。
私は、それ以上何も言わなかった。
言う必要もなかった。
父は、少し離れたところから、じっと私を見ていた。
やがて、ゆっくりと歩み寄ってくる。
ルーヴェン様が身構えたけれど、私はその腕にそっと触れて止めた。
「……アイリス」
父が、私の名前を呼んだ。
こんなに静かな声で名前を呼ばれたのは、母が亡くなってから初めてかもしれない。
「お前に、話しておきたいことがある」
父は、地面に目を落としたまま言った。
「あの日、書斎で……お前の目が、あの女にそっくりだと言った」
「……はい」
「あれは、本当のことだ。お前の目は、エレナに……お前の母親に、よく似ている」
父が、母の名前を口にするのを、私は初めて聞いた。
「エレナが死んでから、あの目を見るのが怖かった。私が、エレナの大切にしていたものを、何ひとつ守れなかったと責められているようで」
父の声が、かすかに震えた。
「だから、お前から目をそらした。マルグリットとレオノーラが、お前に何をしていても、見ないふりをした」
「…………」
「すまなかった」
父は、深く頭を下げた。
伯爵家の当主だった人が、泥だらけの地面に向かって。
私は、しばらく黙ってその姿を見つめていた。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
けれど、その痛みは、もう昔のように私を押しつぶしはしなかった。
「顔を上げてください、お父さま」
父が、ゆっくりと顔を上げる。
「謝ってくださって、ありがとうございます。でも、私はもう、あの家には戻りません」
「……ああ。分かっている」
父は、寂しそうに笑った。
「お前には、もう帰る場所があるのだな」
私は、隣に立つルーヴェン様を見上げた。
金色の瞳が、静かに私を見守っている。
「はい」
私は、父に向かってはっきりと頷いた。
「さようなら、お父さま。どうか、お元気で」
父は、それ以上何も言わなかった。
泣きじゃくるレオノーラの肩を抱いて、古びた馬車へと戻っていく。
その背中は、驚くほど小さく見えた。
馬車が見えなくなるまで、私はその場に立っていた。
そっと、大きな手が私の手を包む。
「よかったのか」
「はい」
私は、ルーヴェン様の手を握り返した。
涙は、出なかった。
ただ、ずっと重かった荷物を、ようやく下ろせたような気がした。




