第17話 番の誓い
最終話になります。
帝都に戻る前に、どうしても寄りたい場所があった。
国境の森の、母の小屋だ。
ルーヴェン様と二人きりで、森の小道を歩く。
バロンとハンスは、森の入り口で待ってくれていた。
「ここで、あなたを見つけたんです」
癒し草の群生地で、私は足を止めた。
あの日、錆びた罠にかかっていた銀色の子狼。
牙をむいて唸っていたのに、最後には私の腕の中で、ぐったりと頭をもたせかけてきた。
「覚えている」
ルーヴェン様が、私の隣に並んだ。
「お前は、素手で罠をこじ開けた。指から血が出ていたのに、少しも離そうとしなかった」
「あのときは、必死でしたから」
「俺は、あのとき思った」
ルーヴェン様の声が、少しだけ低くなる。
「この娘のためなら、何だってしようと」
私は、ルーヴェン様を見上げた。
木漏れ日が、銀色の髪をきらきらと照らしている。
(初めて会ったときから、ずっと)
この人は、私を見ていてくれたのだ。
小屋は、出ていったときのままだった。
扉を開けると、乾いた薬草の香りが私たちを迎えてくれる。
窓辺の乳鉢。
暖炉の前の、小さな寝床。
ルゥのために作った、古い毛布の山。
「……懐かしいな」
ルーヴェン様が、寝台の端に腰を下ろした。
大きな体には、やっぱり窮屈そうだった。
「この寝台で、毎晩お前と眠った」
「い、言わないでください……」
顔が熱くなる。
ルーヴェン様は、くすりと笑った。
それから、ふっと真面目な顔になった。
「アイリス」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「あの日、この小屋で、俺はお前に求婚した」
「……はい」
「お前は、考える時間が欲しいと言った。俺は待つと言った」
ルーヴェン様が、立ち上がる。
私の前まで歩いてきて、そして――ゆっくりと、片膝をついた。
皇帝陛下が。
この、小さな森の小屋で。
「待つのは、得意なつもりだった。だが、そろそろ限界らしい」
金色の瞳が、まっすぐに私を見上げる。
「アイリス。俺の番として、妃として、生涯そばにいてくれないか」
胸が、いっぱいだった。
言いたいことは、たくさんあった。
あなたが子狼だったころ、毎日が楽しかったこと。
満月の夜、あなたを失うのが怖くて、泣き叫んだこと。
人の姿のあなたに、どんどん惹かれていったこと。
嫉妬して子狼になってしまうあなたが、愛おしくてたまらなかったこと。
でも、全部を言葉にするのは、きっと無理だ。
だから私は、いちばん大切なことだけを言うことにした。
「……ルーヴェン様」
声が、震える。
「私、ずっと、誰にも必要とされていないと思っていました。私には、帰る場所なんてないんだって」
「アイリス」
「でも、あなたが見つけてくれました。森の中でひとりぼっちだった私を」
涙が、ぽろりとこぼれた。
「だから、今度は私から言わせてください」
私は、ルーヴェン様の大きな手を、両手で包みこんだ。
あの満月の夜、冷たくなっていくルゥにそうしたように。
「ルーヴェン様が、好きです。ずっと、一緒にいてください」
ルーヴェン様の目が、大きく見開かれた。
そして――。
ぽんっ。
「…………え?」
私の両手の中にあったはずの大きな手が、消えていた。
かわりに、膝の上に、ふわふわの銀色の子狼が乗っていた。
金色の瞳を、まんまるに見開いて。
「ル、ルーヴェン様……?」
「……キュウ」
子狼は、自分の前脚を見下ろして、それからがっくりと頭を垂れた。
(嬉しすぎて、子狼になっちゃったの……!?)
一世一代の求婚の、いちばん大事な瞬間に。
「ふ……っ」
こらえきれなかった。
「ふふっ、あははっ!」
笑いながら、涙がぽろぽろとこぼれる。
子狼は、拗ねたように「キュウ!」と鳴いて、私の胸に顔をうずめた。
その尻尾が、これ以上ないくらい、ぶんぶんと揺れている。
「もう……ルゥったら」
私は、銀色の小さな体を、ぎゅうっと抱きしめた。
あたたかい。
ふわふわで、日だまりの匂いがする。
初めてこの子を抱き上げた日と、同じ匂いだった。
「大好きよ、ルゥ。……大好きです、ルーヴェン様」
腕の中で、子狼がぴたりと動きを止めた。
それから、私の頬を、そっと一度だけ舐めた。
まるで、俺もだ、と言っているみたいに。
ひと月後、帝都の大聖堂で、皇帝陛下の婚礼が執り行われた。
純白のドレスに身を包んだ私の隣には、銀の礼装をまとったルーヴェン様が立っている。
大聖堂を埋めつくす参列者の中には、バロンの泣き顔と、ハンスの笑顔と、耳をぴょこぴょこ揺らすノアの姿があった。
獣人の婚礼では、番の誓いを交わす。
互いの手を重ね、生涯ただ一人の伴侶として、相手を選ぶ誓いだ。
「ルーヴェン・ガルディアは、アイリスを生涯ただ一人の番とし、命あるかぎり、その手を離さないと誓う」
低く、よく通る声が、大聖堂に響く。
私は、重ねた手に、そっと力をこめた。
「アイリスは、ルーヴェン・ガルディアを生涯ただ一人の番とし、命あるかぎり、そのそばにいることを誓います」
その瞬間、私たちの重ねた手から、白い光がふわりと溢れた。
浄化の光ではない。
もっと柔らかくて、温かい光。
大聖堂のステンドグラスを通して、七色にきらめいていく。
参列者たちから、感嘆の声が上がった。
「番の誓いが、祝福されております……!」
宮廷魔術師長のエーリヒ様が、震える声でつぶやいた。
ルーヴェン様が、私を見下ろして微笑む。
その金色の瞳が、うっすらと潤んでいるのが分かった。
「アイリス」
「はい」
「ようやく、お前を俺の妃と呼べる」
そう言って、ルーヴェン様はそっと私に口づけた。
大聖堂が、割れんばかりの歓声に包まれた。
その夜。
皇妃の寝室で、私は寝台に腰かけていた。
今日から、ここがルーヴェン様と私の部屋になる。
(ど、どうしよう。緊張する……)
扉が開いて、ルーヴェン様が入ってきた。
礼装を解いた白いシャツ姿で、銀の髪を下ろしている。
その姿があまりにも綺麗で、私は思わず目をそらした。
「アイリス」
ルーヴェン様が、私の隣に腰を下ろす。
寝台が、ぎしりと沈んだ。
大きな手が、私の頬にそっと触れる。
顔を上げると、金色の瞳が、すぐ近くにあった。
「やっと、二人きりだ」
「は、はい……」
「森の小屋では、毎晩同じ寝台で眠っていた。だが、こうして人の姿でお前の隣にいるのは、初めてだな」
低い声が、耳もとで甘く響く。
心臓が、壊れそうなくらいにうるさい。
ルーヴェン様の顔が、ゆっくりと近づいてきて――。
ぽんっ。
「…………」
「…………キュ」
寝台の上に、銀色の子狼がちょこんと座っていた。
私は、両手で顔を覆って、肩を震わせた。
「ルーヴェン様……今のは……」
「キュウ……」
子狼は、ばつが悪そうに耳を伏せている。
けれど、その尻尾は、隠しようもなくぱたぱたと揺れていた。
(きっと、これからもずっと、こうなんだわ)
嬉しいとき。
照れたとき。
嫉妬したとき。
この人は、いつだってふわふわの子狼になって、私の腕の中に飛びこんでくるのだろう。
「ふふっ」
私は、銀色の小さな体を抱き上げて、ぎゅっと胸に抱いた。
ふわふわの毛並みに、頬を寄せる。
森の小屋で過ごした、あの夜と同じように。
「おやすみなさい、ルゥ」
子狼は、満足そうに目を細めて、私の胸もとで丸くなった。
窓の外には、あの夜と同じ、まあるい満月が浮かんでいる。
ひとりぼっちだった森の中で、私は銀色の子狼を拾った。
その子狼は、呪われた皇帝陛下で。
今では、私の大切な旦那様だ。
――森で拾った子狼は、今夜も私の腕の中で、甘えん坊のまま眠っている。
(完)
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