第13話 二度と離さないと決めた日(ルーヴェン視点)
「千年に一人、と申し上げても、大げさではございません」
宮廷魔術師長のエーリヒは、白い梟の羽を震わせながら言った。
執務室には、俺とバロン、そしてエーリヒの三人だけ。
アイリスの力について、詳しく調べさせていた結果を聞くためだった。
「アイリス様のお力は、魔力とはまったく別のものです。魔力の測定具では、反応しないのも当然でしょう」
「人間の国では、魔力がないと蔑まれていたそうだ」
「愚かなことです」
エーリヒは、珍しく強い口調で言った。
「浄化の力を持つ者は、そこにいるだけで周囲の瘴気を清めます。おそらく、アイリス様の母君も、弱いながら同じ力をお持ちだったのでしょう。母君の薬がよく効いたというのも、そのためかと」
「つまり」
「アイリス様が暮らしていた土地は、知らず知らずのうちに、ずっと守られていたのです」
俺は、机の上の報告書に目を落とした。
アイリスの祖国、エルセリア王国について、バロンに調べさせたものだ。
ここひと月ほどで、王都の周辺に瘴気だまりが次々と現れていること。
作物の育ちが悪くなり、魔物の目撃が急に増えていること。
そしてそれが始まった時期が、ちょうどアイリスが王都を追われたころと重なっていること。
「……あの国は、自分たちが何を捨てたのか、まだ分かっていないらしいな」
「いずれ、気づくでしょう」
バロンが、低い声で言った。
「気づいたところで、もう遅いですが」
俺は報告書を伏せた。
あの国のことは、あとでいい。
今は、それよりも先に片づけなければならないことがある。
「例の呪術師の件は」
「は。昨夜、ようやく口を割りました」
バロンが、一枚の紙を差し出す。
峠道で俺を襲った黒い外套の男たち。
その生き残りを、バロンは帝都の裏町で捕らえていた。
「陛下に呪いをかけるよう命じたのは、やはりガイウス殿下でした。報酬の受け渡しに使われた割符も押さえてあります」
「それだけでは、叔父上は言い逃れるだろうな」
「おそらく。呪術師の証言など信用できぬ、と」
叔父は、そういう男だ。
穏やかな顔で、決して尻尾をつかませない。
俺が帰還してからも、叔父は何事もなかったかのように俺を気遣い、政務を手伝っている。
宮廷の古参たちは、今でも叔父を信頼しきっている。
「……それと、陛下。もうひとつ、気になることが」
バロンが、ためらうように言った。
「呪術師が言うには、ガイウス殿下は最近、新しい呪具を作らせたそうです。それも、陛下にかけたものとは別の」
「別の?」
「呪いを解いた者を、狙うためのものだと」
一瞬で、全身の血が凍りついた。
呪いを解いた者。
それが誰を指すのか、考えるまでもなかった。
その夜、俺は眠らなかった。
アイリスの部屋の前に椅子を置き、扉の横の壁にもたれて、ただじっと待った。
バロンは「私が見張りますので」と何度も言ったが、聞かなかった。
扉の向こうからは、アイリスの穏やかな寝息が聞こえる。
獣人の耳には、壁一枚など何の意味もない。
(森の小屋では、毎晩この寝息を聞いていた)
あのころは、すぐそばで、彼女のぬくもりを感じながら眠っていた。
今は、扉一枚を隔てている。
それがもどかしくて、けれど同時に、安堵してもいた。
人の姿で彼女の寝台にもぐりこめば、今度こそ嫌われるだろう。
いや、アイリスなら、真っ赤になって箒を振り回すかもしれない。
想像して、少しだけ笑った。
――そのときだった。
かすかな音がした。
アイリスの部屋の、窓のほうからだ。
俺は音を立てずに立ち上がり、扉を開けた。
月明かりの差しこむ部屋の中。
窓辺に、黒い影がうずくまっていた。
影の手には、黒い靄をまとった小さな水晶が握られている。
その水晶を、眠るアイリスへ向けて掲げようとして――。
影が、気配に気づいて振り返った。
その瞬間には、俺の手はもう、影の喉をつかんでいた。
「……っ、が……!」
床に叩きつける。
水晶が手から転がり落ち、絨毯の上で鈍く光った。
「誰の命令だ」
自分の声とは思えないほど、低い声が出た。
影の男は、震えながら口をつぐむ。
答えなくても、分かっていた。
この水晶にまとわりつく、黒い靄。
峠道で俺の首に巻きついた蔦と、同じ気配だった。
「……ん……ルーヴェン、様……?」
寝台の上で、アイリスが目をこすりながら身を起こした。
物音で目が覚めたのだろう。
床に押さえつけられた男と、俺の顔を見比べて、若葉色の瞳が大きく見開かれる。
「何が……」
「大丈夫だ。何でもない」
駆けつけた衛兵に男を引き渡し、俺はアイリスのそばへ歩み寄った。
震える肩に、そっと自分の外套をかける。
「怖い思いをさせた。すまない」
「私は、大丈夫です。でも、ルーヴェン様……手が」
言われて、初めて気づいた。
男の喉をつかんだ右手が、かすかに震えていた。
怒りでではない。
恐怖で、だ。
もし、俺が扉の前にいなかったら。
もし、あと一瞬、気づくのが遅れていたら。
あの黒い水晶が、アイリスに向けられていたら。
「……っ」
気づけば、アイリスを強く抱きしめていた。
「ルーヴェン様……?」
「頼む。少しだけ、このままでいさせてくれ」
腕の中の体は、細くて、温かかった。
森の小屋で、毎晩俺を抱いて眠ってくれた体だ。
満月の夜、俺のために泣いてくれた体だ。
アイリスは、しばらく驚いたように固まっていた。
けれどやがて、おずおずと、俺の背中に手を回してくれた。
子狼のころ、彼女がいつもそうしてくれたように。
小さな手が、ゆっくりと背中を撫でる。
「大丈夫ですよ。私は、ここにいます」
その声に、胸の奥が焼けるように熱くなった。
アイリスが再び眠りについたあと、俺は執務室に戻った。
机の上には、絨毯から拾い上げた黒い水晶が置かれている。
「バロン」
「は」
「三日後の御前会議に、すべての重臣を集めろ。叔父上もだ」
「……決着を、つけられるのですね」
「ああ」
水晶の中で、黒い靄がゆらりとうごめいた。
これまでは、確たる証拠をそろえてから、と考えていた。
叔父を慕う古参たちを、納得させてからでなければ、と。
だが、もう待てない。
叔父は、俺の番に手を出そうとした。
それだけで、十分すぎるほどの理由だった。
(叔父上。あなたは、決して触れてはならないものに触れた)
窓の外には、細い月が浮かんでいる。
あの満月の夜から、まだひと月も経っていない。
あの夜、俺は誓った。
もう二度と、この手を離さないと。
けれど今夜、本当の意味で分かった。
あれは、誓いなどという生ぬるいものではない。
彼女を失うかもしれないと思った瞬間、世界のすべてが色を失った。
あの恐怖を、二度と味わうつもりはない。
アイリスを傷つけようとする者は、誰であろうと許さない。
たとえそれが、血を分けた叔父であっても。




