第12話 嫉妬すると子狼になる皇帝陛下
皇宮で暮らしはじめて、十日が過ぎた。
私に与えられたのは、皇帝陛下の私室のすぐ隣にある、日当たりのいい部屋だった。
「お、隣ですか……?」
「何かあったとき、すぐに駆けつけられる」
ルーヴェン様は、当然のような顔でそう言った。
薬師として来たはずなのに、部屋には大きな寝台と、ふかふかの絨毯と、色とりどりのドレスが用意されていた。
(これ、どう見ても薬師の部屋じゃないわよね……)
それでも私は、毎朝、皇宮の薬草園へ通うことにした。
何もせずに部屋にいるのは、どうにも落ち着かなかったのだ。
薬草園は広く、帝国中から集められた珍しい薬草が育てられていた。
「アイリスさん、おはようございます!」
声をかけてきたのは、宮廷薬師見習いのノアだった。
白くて長い耳をぴょこぴょこと揺らす、兎獣人の少年だ。
年は私より二つ下で、人懐っこくて、薬草のことになると目を輝かせる。
「おはよう、ノア。昨日の熱冷まし、効いたかしら」
「はい! 料理長の熱、一晩ですっかり下がったそうです。アイリスさんの調合、本当にすごいです!」
「大げさよ。母に教わった通りに作っただけ」
「いいえ、すごいです! 僕、アイリスさんの弟子になりたいくらいです!」
まっすぐな尊敬の眼差しに、くすぐったい気持ちになる。
屋敷では、誰かに褒められることなんてなかったから。
(ここに来てよかった)
人間だと陰口を叩く人も、まだいる。
それでも、ノアのように笑いかけてくれる人もいるのだ。
その日の午後、ノアと一緒に珍しい薬草の株分けをしていたときのことだった。
「アイリスさん、土がついてますよ」
「え、どこ?」
「ほっぺたです。ほら、ここ」
ノアが手を伸ばして、私の頬をハンカチでぬぐってくれる。
「ありがとう、ノア」
「どういたしまして!」
にこにこと笑い合った、そのとき。
背後で、ぴしりと空気が凍った。
振り返ると、薬草園の入り口にルーヴェン様が立っていた。
公務の合間に様子を見に来てくれたのだろう。
けれどその金色の瞳は、ハンカチを持つノアの手に、まっすぐ注がれていた。
「へ、陛下……っ!」
ノアが真っ青になって、その場にひれ伏す。
ルーヴェン様は、無言のままこちらへ歩いてくる。
一歩ごとに、まわりの温度が下がっていく気がした。
(ど、どうしよう。すごく怒ってる……?)
「ルーヴェン様、あの、ノアは土を拭いてくれただけで……」
「……分かっている」
低い声だった。
分かっているという声には、まったく聞こえなかった。
ルーヴェン様が、私の目の前で足を止める。
そして、何か言おうと口を開いた――その瞬間。
ぽんっ。
軽い音とともに、ルーヴェン様の姿が消えた。
「…………え?」
さっきまでルーヴェン様が立っていた場所には。
銀色の毛並みに、金色の瞳の子狼が、ちょこんと座っていた。
「ル、ルゥ……!?」
子狼は、自分の前脚を見下ろして固まっている。
それから、ゆっくりと顔を上げて私を見た。
その顔には、はっきりと「しまった」と書いてあった。
「キュ……」
「へ、陛下が、陛下が子狼に……っ!?」
ノアが腰を抜かして叫ぶ。
騒ぎを聞きつけて、バロンが駆けこんできた。
「何事ですか! ……あっ」
子狼を見るなり、バロンは額を押さえて天を仰いだ。
「やはり、こうなりましたか……」
「バロンさん、これ、どういうことですか!? 呪いは解けたはずじゃ……」
「呪い自体は、確かに解けております」
バロンは、言いにくそうに咳払いをした。
「ですが、呪いの名残で、陛下ご自身の獣化の力が不安定になっているようでして。宮廷魔術師長の見立てでは、お気持ちが大きく揺れると、一時的に獣の姿に戻ってしまわれるのだとか」
「お気持ちが、大きく……」
私は、足もとの子狼を見下ろした。
子狼は、ぷいっと顔をそむけた。
さっき、ノアが私の頬を拭いたときの、あの凍りつくような空気。
(それって、つまり)
「……やきもち?」
子狼の耳が、ぴくっと跳ねた。
森の小屋で、トマスに唸ったときとまったく同じ反応だった。
「ふ……っ」
こらえきれずに、笑いがこぼれる。
「ふふっ、あははっ!」
「キュウ!」
抗議するように鳴く子狼を、私は思わず抱き上げた。
ふわふわの毛並みが、腕いっぱいに広がる。
(ああ、ルゥだ)
この十日間、ずっと恋しかった感触だった。
「ルゥ、久しぶりね!」
ぎゅうっと抱きしめて、首もとに顔をうずめる。
ふかふかで、あたたかくて、日だまりの匂いがした。
腕の中で、子狼がじたばたと前脚を動かす。
けれど、本気で逃げようとはしない。
その証拠に、尻尾はぶんぶんと揺れていた。
「あ、あの、アイリス様……」
バロンが、なぜか遠い目をして言った。
「お忘れかもしれませんが、それは皇帝陛下です」
「……あ」
私は、腕の中の子狼と目を合わせた。
金色の瞳が、じっと私を見上げている。
さっきまで、その瞳の持ち主は、銀髪の背の高い男の人の姿をしていたわけで。
私は今、その人に頬ずりをして、首もとに顔をうずめていたわけで。
「…………っ!!」
かあっと、顔が燃えるように熱くなった。
けれど、どうしてか、腕を離すことはできなかった。
子狼の姿は、半刻ほどで元に戻った。
戻る瞬間、ルーヴェン様は気を利かせたバロンの手で、私の部屋に運びこまれていた。
獣化の力そのものはルーヴェン様のものなので、衣服ごと元の姿に戻れるらしい。
(それは、本当によかった……)
森の小屋の朝のようなことになったら、今度こそ心臓が止まってしまう。
「……情けないところを見せた」
人の姿に戻ったルーヴェン様は、長椅子に深く腰かけ、片手で顔を覆っていた。
耳の先まで、ほんのりと赤い。
「あの兎の少年に、他意がないことは分かっていた。分かっていたんだが……お前に触れているのを見たら、頭に血が上った」
「ルーヴェン様」
「皇帝が、薬師見習いの少年に嫉妬するなど。笑ってくれていい」
私は、長椅子のそばにしゃがみこんだ。
顔を覆う指の隙間から、金色の瞳がのぞく。
「笑いません。……少し、嬉しかったので」
「嬉しい?」
「はい。ルゥのときも、トマスさんに唸っていたでしょう? あのときも、私、本当は嬉しかったんです」
誰かに、こんなふうに大切にされること。
誰かに、取られたくないと思ってもらえること。
それは、生まれて初めてのことだった。
「それに、子狼のルゥにまた会えて、嬉しかったです」
ルーヴェン様が、ゆっくりと顔から手を離した。
それから、少しだけ拗ねたように眉を寄せる。
「……子狼のほうがいいのか」
「え?」
「さっきのお前は、子狼の俺にはあんなに頬ずりをしていた。人の姿の俺には、目も合わせてくれないのに」
「そ、それは……!」
だって、人の姿のルーヴェン様に頬ずりなんて、できるはずがない。
想像しただけで、顔から火が出そうだった。
「それは、その……人の姿のルーヴェン様は、近くにいるだけで、心臓がうるさくなるので……」
小さな声でそう言うと、ルーヴェン様が固まった。
それから――ぽんっ。
軽い音とともに、目の前の長椅子に、銀色の子狼が現れた。
「…………」
「…………キュ」
「ルーヴェン様……今のは、どのお気持ちで……?」
子狼は答えず、長椅子の上で丸くなって、ふわふわの尻尾で顔を隠してしまった。
その尻尾の先が、ぱたぱたと嬉しそうに揺れている。
私は、もう一度笑ってしまった。
笑いながら、胸の奥が甘く、少しだけ苦しくなるのを感じていた。
(どうしよう)
この人のことが、どんどん好きになっていく。




