09 蕎麦の楽園は此処に顕在した
その日の夜、食事が罰として無しになるかと思っていたが、幸いなことに緋奈はきっちりと用意してくれるようだ。
春は料理ができるのを待ちつつ、リビングのテーブルで日課のノートを広げていた。
キッチンから丸見えであるダイニングテーブルとは違い、ソファで挟んだテーブルの上なら内容まで見えることはないだろう。
キッチンでは緋奈が、慣れた手つきでこねたものを切り、粉をつけては沸騰した鍋の水に入れている。
(見慣れたとはいえ、まだ一週間弱か)
緋奈はノーマルな赤いエプロンをつけ、キッチンに立ち、料理を作っている。
髪はポニーテールのままではあるが、料理前には調整の為かヘアゴムを口に加えて束ねなおしていたので、多少の変化はあるようだ。
ノートに書いてある情報だけでも、緋奈の料理姿に大きな変化こそないと示しているが、作られる料理において同じものはなかった。
情報を書き込んでいるノートを誰かに見せるつもりはないが、ここまで緋奈の事を書くとは春自身が思いもよらなかった。
これが本当の自分の気持ちなのか、と疑問を覚えてしまう程に。
「……なにか言いたいの?」
「ただ見てただけだ」
「あら、そう。前にも言ったことだけど、新婚夫婦じゃないの、勘違いしないことよ。旦那気取りほど、しょうもない男はいないの」
「嫌みか。それとも、男に恨みでもあるんか」
別に、と淡白に返事をする緋奈は、鍋と向き合っていた。
緋奈の器用な段取りから作られていくそれは、料理というよりかは芸術、起承転結がスムーズに行われる物語のようだ。
料理は科学と称される時もあるが、緋奈にかかれば綴るものではないのかと錯覚を覚えそうになる。
そんな思ったことすらもノートに書きこんで、ギミック仕掛けのロックをしてノートを閉じた。
「今日の晩御飯は、蕎麦」
「蕎麦か」
「嫌だったかしら? もしかして、苦手? 私の知っている限り、あなたにアレルギーは無くて、苦手なものが辛いものくらいの筈だけど?」
「よくもまあ、調べていることで。真面目かよ」
時間になれば、ダイニングテーブルには蕎麦が並んでいる。
四月という時季を気にしていないのか、さっぱりとした涼しさを醸し出す、ざる蕎麦だ。
盛られた器が本格的過ぎて怖さすら覚えそうだが、視線は既に蕎麦の艶やかさに魅了されている。
蕎麦は照明に照らされて、一本一本が光沢を帯びるだけでなく、ハリのあるコシを目で理解させてきた。
普通であれば気にしないような汁の入った器すら、透き通るような黒光りを見せつつも、口に入れていないのにコクのある心地よい香りを奏でているのだ。
見るだけで楽しめる、緋奈が作ってくれた蕎麦はまさに食事のサプライズだ。
食べていない状態でここまで感想を引き立ててくるのだから、食欲をそそるどころか、貫いていてもおかしくない。
「まあ、うどんが好きとか口にするのなら、あなたをうどんのように千切ってもいいのよ。うどんなんて、ただ太いだけで、弾力でお腹を誤魔化しているだけよ」
「お、おう。僕の前で言うのは構わないけど、絶対にやめてね? ……蕎麦過激派かな?」
「お菓子の戦争みたいな、おままご――」
「だからやめろよ!」
外で先ほどの発言を口にしようものなら、うどん派の勧誘ダンスが迫りくるだろう。
春は苦笑いしながらも、椅子に腰を掛けた。
緋奈も理解してなのか、相向かいの椅子に腰をかけている。
先ほどまでは少し離れた位置から見ていた蕎麦が、目の前で今か今かと待ち構えているように見えてしまう。
緋奈が粉から作ったと知っていても、特別感を覚えるのは技量あってのものだろう。見たのは粉だが、その粉の前である種から作ってそうなのが、緋奈の本気度から窺えるのだが。
実際、緋奈の料理はここ一週間食べてきたが、どれも美味しく、緋奈の料理無しでは生きていけないと思わされるほどに春は魅了されている。
ましてやここまで力を入れているのは見たことが無かったからこそ、より新鮮な気分を味わっているのだ。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます。……本当に、見ていて気持ちがいい」
緋奈は春を見ながら小さく呟いていたが、春の耳には届いていなかった。
蕎麦を早く食べたい、そんな気持ちが春は強かったのだから。
「あっ、ご、ごめん。がっつきすぎて聞いてなかった」
「いいの。召し上がれ」
「うん。改めて、いただきます。まずは、蕎麦単体を、と」
器の上に載ったざるに盛られた蕎麦を、箸で掬う。
箸先からも伝わる、コシとハリのある弾力に、風味を閉じ込めて輝く艶やかさ。
何度見ても楽しめると感じさせてくる。それほどまでに洗練された蕎麦を、春は見たことが無かった。
掬った蕎麦に汁をつけないで、口へと運ぶ。
口に含んだ刹那、春は目を見開いた。
(う、うますぎる。……汁をつけてないのに、蕎麦独特の風味に口の中を駆け巡る弾力、そして喉を通っても確かな存在感を見せる口中香!)
咀嚼しただけでも、蕎麦は噛み応えから味を脳に伝えたかと思えば、何度も味わいたいと思わせてきたのだ。
風味こそ蕎麦特有の麦感だが、汁をつけていないとはいえ、ここまで強く主張してくる蕎麦に出会ったことはない。
春は味わいを噛みしめつつ、続くように蕎麦を掬い、今度は汁に半分だけ付けた。
汁に半分濡れても艶やかさが溢れだし続ける蕎麦。
春は迷わず、口の中に誘った。
(……な、なんだよ、これ。今、何回噛んだ? 汁のコクある風味を感じたかと思えば、蕎麦の風味が爽やかな風が通ったように調和して、口の中でワルツを踊っているのか?)
汁に濡れていなかった上部は先ほどと同じ食感だったが、続く汁を誘った下部はしっとりと柔らかくも蕎麦と言える硬さある食感を書き込んできたのだ。
独特な風味を包み込むコクのある汁に、食べたのに続く口中香で最後までたっぷりと奏でるハーモニー。
まさしく、蕎麦による楽園でありながら、汁という側近が程よく助言をすることで更なる太陽の煌めきを繋いでいる。
春は思わず目を閉じ、呑み込んだはずの蕎麦を思い出したかのように、また呑み込んだ。
体内で反響していると言ってもいいほどに、春を取り囲むは蕎麦の楽園。いや、王国と言っても過言ではないだろう。
「……もう少し、味わわせて」
緋奈が見ていることを思い出したが、春は最後の工程を試さずにはいられなかった。
春が無邪気な子どものように夢中になっているのを見てか、緋奈はゆったりと微笑んでいる。
「蕎麦は逃げないから、慌てなくてもいいのに」
本来なら蕎麦でやるべきではないと理解しているが、春は掬った蕎麦を、汁に全て浸かるように入れたのだ。
基本的に、ざる蕎麦などを食べる際は汁に全てつけるのは不本意である。
本来の味もあるが、熱い汁に入っている蕎麦などとは違い、ざる蕎麦などの汁は味が濃くなっているからだ。
そのため汁独特の辛みを感じ、本来の味を理解できないという懸念点がある。
それでも蕎麦を汁に全て浸けたのは、信頼できるからだ。
(やっぱりか。蕎麦の味が強いからこそ、この汁も調整されている。なのに、蕎麦はただ、汁のコーティングを纏っただけで元の味を損なっていない、まさに旨みのオンパレード、バーゲンセールさながらの奮闘)
汁の美味しさもさることながら、蕎麦一本一本が上品に洗練されており、お互いがお互いのためにある関係だと主張してくるのだ。
汁の辛みは蕎麦が吸い、蕎麦はその栄養を蓄えた繊維を口の中でほどけさせつつも、損なわない風味と弾力で全てを調和させている。
汁本来の旨みは、全てを浸けなければ味わえなかった。そう言い切ってもいいほどに、食べ方に至るまでの全てが完璧だと言わざるを得ない。
春は味わった三度目を、確かに呑み込んだ。
「鳥羽さん、この蕎麦、汁、すごくおいしいよ。極上で上品なのに、それでいて芯のある強さ、広がる世界が好きを思わせてくる」
「無理に紳士らしく云わなくていいの。木藤くんを見ていれば伝わってきたから」
「そうか?」
「……こんなに美味しい、って素直に体現しているのだから、当然、じゃないのかしら……」
緋奈は自分で言って照れているのか、頬をうっすらと赤くしていた。
そして誤魔化すように蕎麦を口にする緋奈も、その赤くした頬をとろけさせているのだが。
「……僕も、料理を作れるようにならないとか」
「どうして?」
「ほら、一人で作ってもらう労力をかけさせて、苦労だ――」
「労力や苦労とは思ってない。むしろ、掃除をしてくれる、気遣ってくれる、それだけで十分よ」
「……そうなんだ」
「ええ。私はまだ、木藤くんが目指したい紳士の意味が分からない。でも、あなたが望むなら」
「望むなら?」
緋奈は持っていた箸を静かに置いてから、こちらを見つめてきた。
透き通るような茶色の瞳に、まっすぐ反射する春の姿が映っている。
「今後は木藤くんを紳士として、私が鍛えてあげてもいい」
「え、いいのか! 淑女である鳥羽さんに鍛えてもらえるなら、ぜひともお願いしたいところだ!」
「お、拝むのはやめること。これでもお父様の背を見ているのだから、姿勢や所作は当然のことよ」
馬鹿なことをやってないで、と軽く頬を膨らませる緋奈だが、悪い気はしないのだろう。
緋奈は胸に片手を添えてから、ゆったりと微笑んだ。
春は初めて見た、緋奈の確かな微笑みに、思わず息を呑み込んでいた。
呑み込む息は熱いのに、嫌な気持ちがしないのは不可解でありながら、悪い気はしないのだ。
「ほら、片付けもあるのだから、マナーに気をつけて食べるの」
テーブルマナーや食べ方を一通り覚えている春にとっては造作もなかったが、緋奈に褒められたのもあって恥ずかしさが込み上げてくる。
改めて見直した関係は、今思えば緋奈を知らないからこそ、近づくための口実だったのかもしれない、と春は食べている時に深く思うのだった。




