10 紅茶と鏡は紳士の必需品?
レッスンその一。
美味しい紅茶を作ること。
朝ご飯を食べ終えた春は、緋奈に紳士として鍛えてもらう一歩として、紅茶を作るように命令されていた。
命令ではなく、指示の方が正しいだろう。
春は料理を上手くできない。だからこそ、紳士の基本として、美味しい紅茶を作るように言われたのだろう。
確かに料理は不器用だが、カップ麺を作っていたのが功を奏したのか、お湯の加減はもはや神業に等しいほどに正確だ。
(……相変わらずというか、律儀だな)
学校に行く前なのもあってか、緋奈は制服姿でダイニングテーブルの椅子に座っている。
長袖ブラウスの上からブレザー、そして長めのスカート。
ハイソックスで素足を隠しているのは、緋奈がある程度は周りの視線を理解しているからだろう。
実際、去年の夏は男の眼がだいぶ集まったようで、緋奈が困っていたのは春ですら知っているくらいなのだから。
律儀に正されている首元の水色スカーフは、学校指定でも緋奈によく似あっているものだ。
春をちょこちょこ横目で確認しつつ、手元の本に目を通しているのは、強者の余裕すらも思わせてくる。
凛とした高嶺の花であるのに、こうして目の前に降り立っている。だからこそ、組織とか試練とか関係なく、春は自分の運がことごとく良いのか悪いのか分からなくなってしまう。
沸騰したお湯を、茶葉が暴れないようにティーポットへと注ぐ。
透明なティーポットがじんわりと赤茶色、紅茶色に染まっていくのは新鮮な気持ちだ。
茶葉が落ちついたところで、春は用意した二つのティーカップに出来上がった紅茶を注いだ。
「おまたせ」
「待っていない。ありがとう」
感謝するのは律儀だな、と春は思いつつ、テーブルの上にティーカップを置いた。
緋奈は持っていた本を閉じて、ティーカップの中を軽く覗いている。
揺らぐ赤色の海は透き通るようでありながら、底は少し黒く染まっており、淹れたての湯気だけが香りを漂わせている。
軽く香りを仰ぐ緋奈の横顔が、淑女のように見えるほど凛としていた。
見慣れたはずの透き通るような茶色の瞳ですら、プロそのもの、と言えるほどに見違えていたのだから。
だけど春は、言葉にせず見守った。
「……ふぅ」
緋奈は少し息を吹きかけてから、口をつけた。
ほんの少し香りを楽しみ、ゆっくりと口にするその姿は、選定していると言っても過言ではないだろう。
緋奈と出会ってから、評価されなかった日はない程に見て聞いてきたからこそ、自然と気づけるのかもしれない。
ティーカップが口から離れると、春の姿が瞳に反射している。
「初めてにしては上出来。でも、少し苦みが強すぎるのは、淹れ方の問題かしら。この茶葉なら、もう二、三度ほど温度を下げても大丈夫」
「お褒めいる言葉だよ。……精進します」
「ふふ、最初はこんなものよ。……」
緋奈は何を思ったのか、ティーカップをテーブルに置いたかと思えば、春をじっと見ている。
春もこの後は同じく学校なのもあり、既に制服姿だ。
春の制服はスーツ風のブレザーという、緋奈に渡された制服から変わりはない。
それなのに見てくる緋奈にこそばゆさを覚えそうになり、春がそっと目を逸らした時だった。
「木藤くん、ちょっといい」
「……?」
緋奈はそう言って立ち上がり、手招きでついてくるように促している。
春は理解が追い付かないまま緋奈の後を辿った。
リビングに備え付けられている全身が映るほどに大きな鏡の前で、緋奈は立ち止まっている。
最初に来た時はなかったのだが、緋奈が取り寄せていたらしい。
緋奈曰く、確認を怠る者は傲慢にしてあらず、とのことだ。
つまり、ありのままの容姿はしっかりとせよ、という意味で春は捉えている。
緋奈が春を引っ張り、鏡の前に立たせた時だった。
「あなたには何が見える?」
「……何もわかっていない、呆れている僕」
春は正直、自分を鏡で見るのは苦手だ。
苦手というよりも、自分は自分だ、という自負があるからだろう。
自分以上の者が居なければ、自分以下の者は存在しない、それ程までに自分としての個を持てる幸せを知っているからだ。
春が背筋を正して立ちすくんでいると、緋奈は淡々と口にした。
「私には、立ち姿は菩薩。求める明日を願う、勇敢で、まじめな少年の姿が見える」
「求める明日……そっか、そう見えてるのか……うん」
緋奈の言葉は『温かい』の一言に限る。
どこか温かく、それでいて見てくれている、と実感するからだ。
緋奈は春の評価が下落以上に下落こそしているようだが、それは見ているからこそ言えたものであると証明している。
身長は春の方が高いのもあってか、緋奈は少し背伸びをするように腕を伸ばし、襟に手を添えた。
「たまには自分を見るのも悪くないでしょう?」
「ずっと鏡を見ている姫君には敵わないかな」
「魅せると見せるは意味が違うの。ほら、これで美しい」
緋奈は襟を直してくれたようで、よろけていた襟はラインに沿って見栄えが良くなっている。
一目で理解できるのは、淑女だからというよりも、緋奈の見る目が正確なおかげだろう。もしくは男と違う、女性視点の賜物というべきか。
どちらかと言えばどちらでもなく、緋奈は両方が備わっているとしか言いようが無いのだが。
「そういえば、これを返していなかったの」
「これ……」
緋奈が手渡してきたのは、黒いペンだ。
ペン先こそ質感が変わっているが、持ち手から外観まで、春が最初に使っていた黒いペンそのものである。
あの日、窓でペン先を駄目にして以降、緋奈がずっと預かってくれていたものだ。だからこそ、今返されるとは思いもしなかったのだ。
「このペン、古すぎて同じ部品はお父様経由でも手に入らなかったの。だから、ペン先だけは最新のを取り入れて新調させてもらったわ」
「よく直せることで」
ペンを握ってみた感じ、以前使っていた使い心地と大差なく、すぐにでも手に馴染む感覚がやってくる。
感心していた時「これくらいなら……」と言って頬を赤くしている緋奈に、春は首を傾げるしかなかった。
「ついでに言っておくと、口金やクリップを回す動作でも機能を追加できるようにしたの」
「いや、ペンもそうだけど、それをできる鳥羽さんオーバーテクノロジーを手にしすぎじゃないか?」
「これでも、カスタムくらいならできるから……」
「その、くらい、が常人を超えてんだよ」
「それと、内蔵してあった情報は元のまま、内臓部品だけは全て最新に変えてあるの。あの部品は古い分、木藤くんの扱いだと負荷が大きすぎたから」
「随分と大盤振る舞いなことで。じゃなくて、なに、何なの? 頼んだら何でも出てきそうだな」
驚きのあまり口走ったが、緋奈はきょとんとした様子で春を見ている。
「何でも、は難しいけど、組織的に必要なものであれば出来るから」
「うーん……鳥羽さんは自身のだけで留めておいてくれると助かるかな」
緋奈のことを侮ったつもりはなかったが、技術力だけは下に見すぎていただろう。
春がポケットにペンを入れていると、緋奈はそれを横目にテーブルで待っていたティーカップを取りに戻っている。
緋奈は残りを飲み干してから、春を見て微笑んだ。
「後でスーツくらいは用意した方がよさそうね」
「ご冗談を」
春は確かに紳士を目指しているが、スーツを着た試しは未だになかった。
着る機会が無いというよりかは、試練とかで着ても耐えきれるものが無いから敬遠しているだけなのだが。
時計を見ると、そろそろ登校する時間を指そうとしていた。
春は改めて身支度を整えてから、壁に置いてあった傘を手に持った。
「今日は風が強そうだから持っておくか」
「普通なら、風が強い日に傘を差すものじゃないわよ?」
「内風が起きそうだから」
「傘で空でも飛ぶつもり? さすがにロケットエンジンを持ち手に付けるほど、安全面を考慮しないものを作るのは……」
ツッコミを入れているのか、ツッコミを入れる気が無いのか定かではない緋奈はさておいても、春が傘を手放す道理はないのだが。
「じゃあ、僕は少しした――」
「良い機会ね。一緒に登校しましょうか」
「……は?」
「表向きはクラスメイト。別に、見られたところで問題にならないの」
「いやいや! 鳥羽さん学校だと、美少女、容姿端麗、男の理想、の三拍子が揃っている程に有名だろうが」
「木藤くんもそういう目で?」
「いや、別に?」
「なら、問題ないの。行きましょう」
春は半ば強引的に、緋奈と一緒に登校することになるのだった。
勿論、学校に近づいた瞬間に視線が集まったのは語るまでもないだろう。




