03 生きて助けることに理由は必要か
その日の夜、春は自室でデスクに広げたノートと向き合っていた。
今日の出来事が書き連ねている中に、名字ではなく緋奈の名前を書いたページが存在している。
持っている黒いペンを丁寧に滑らせながら、彼女のこと、今日の事を細かく書き出していく。
人間の覚えていられる範囲を思えば、日記程度でつけるにしては文字が多い方だろう。
「……明日、今日の失敗を活かしたいな」
一人呟く言葉。
部屋には必要最低限の家具、ベッドとデスクと椅子、タンスだけなのもあってか、声が反響して耳を撫でてくる。
一人部屋にしては広めなのもあり、持て余した生活感が露呈してしまう。
ノートに文字を書き終わり、夜ご飯も食べ終わっているので、お風呂の時間を待とうとした――その時だった。
「なっ! おいおい、まじか」
春はペンを落とさないように強く握った。
刹那、窓が黒いシャッターに覆われたかと思えば、部屋内が水で満たされ始めたのだ。
毎秒の話を超える速度で水量は増え、呑み込まんとばかりの水は既に腰位まで迫ってきている。
手が水に触れた瞬間、春は違和感を覚えた。
「……水か。いや、この水なにか――」
考える間もなく、水は体を天井へと押し上げるように、部屋の中を水で満たしたのだ。
春は寸前のところまで天井へと顔を近づけていたのもあり、十分な空気を吸ってから水中へと身を移すことに成功した。
成功したとはいえ、春が水中で息を止められるのは三分くらいが限度だ。
(……さっきまでついてた電気が機能してない。でもよかった。ドアはこの下。……鳥羽さんを救ってから、考えるか)
この状況は間違いなく、緋奈が予測していた今日の試練だろう。
始まりが夜、ましてや気を抜きかけている時間なのは、考えた者の性格や育ちが良い証拠だろう。
緋奈も万が一に備えている可能性は十分にあるが、春は自分の目指す紳士像を信じて、まずは緋奈の安全を考えたのだ。
春は手始めに、ドアの前へと平泳ぎで移動し、手放さないようにしていたペンを剣に見立てて握った。
刹那、ノックボタンが周りの水を吸い込み始め、ペン先から極端に圧縮された水が吐き出される。
春の持つペンは特別で、日常における紳士の道具だ。
これ一つで大概のことはこなせるし、人に向けなければ怪しまれることはないだろう。
水だけでウォーターカッターへと変化したペン先を振り、迷わず正面のドアを精巧に切り裂いた。
(……廊下も水。……青白い光が差し込んでいるのか)
部屋だけでなく、まさかの廊下にも水を張るという二重仕掛け。
仮にドアを引こうが押そうが、これが調整された水であることを踏まえれば、均等にならない水圧の影響で開くことはまずないと言い切れる。
迷ったら斬る、をここまで体現できるのも滅多にないだろう。
何度か水の試練を受けさせられたことはあるが、ここまで用意周到なのは初めてだ。
とはいえ微かな明かりがあるおかげで、春は廊下の構造を瞬時に把握できた。
月明かりは差し込んでこそいるが、シャッターによって一階への道は塞がれている。
夜の影響もあってか、少しの間なのにも関わらず、上も下も分からない海中の中に放り込まれている気分になりそうだ。
体感一分間行動したのもあって、春は急いで緋奈の部屋を目指した。
水中では思うように動けないからこそ、体を横に回転させながらスクリューの要領で泳いでいく。
(確認を取らないとドアを壊すわけにはいかない。だけど、今回は仕方ない)
春自身、緋奈に言われた言葉を今日だけでも全て覚えている。
それは緋奈を思っているからというよりも、信頼したい、その気持ちが彼女に対しては高かったからだ。
わずかにブレた気持ちを静め、正面のドアの蝶番を切り裂いてから、上下半分でドアを絶った。
緋奈の部屋に入ると、春はホッとした気持ちがあった。
(よかった。まあ、鳥羽さんは分かってたみたいだし、当然か)
部屋に入ると、緋奈は横長に小さなカプセルを口に加え、部屋の真ん中で浮かんでいた。
小さな気泡が見えるあたり、組織規模で作られているリブリーザーだろう。
幸い、緋奈の部屋は電気が機能しているようで、水中でも視認できるほどには明るい。
水中でも冷静な緋奈を見ると、安心するべきか、どうして動かなかったのか疑問に思うべきか、謎が多いのも事実だ。
とはいえ、緋奈もこちらの存在に気づいたようで、手が微かに震えたのを見るに驚きはあるらしい。
そして思考する間もなく、緋奈が春に見えるように手を動かした。
(あれは、ハンドサイン)
緋奈は水中で会話できないのもあってか、ハンドサインでメッセージを送ってきている。
教えられていたとはいえ、今まで組織用のハンドサインを使う考えは頭になかったが、この時だけは簡易的でも助かるものだ。
『木藤くん、どうしてここに』
『鳥羽さんが心配だった。それに、これは試練だから、見捨てる気はない』
『馬鹿なの。あなた、水中呼吸器すらつけてない。自分の命を優先して』
緋奈の云う通り、春はここに至るまで息継ぎをする個所を一切見ていない。
だからこそ、限界である三分は既に近い、もしくは超えている。
超えていそうだが、緋奈の無事を確認できただけでも安心だ。
仲間を簡単に見捨てることの方が、優れた判断ではない。
ましてや緋奈に至って言えば、春よりも準備周到だからこそ、この先も手を貸してもらう必要が出てくるだろう。
出会って一日も経っていないが、春にとっては対等に話せる、それだけで信用する価値はあったのだ。
とはいえ現状、急がなければいけないと分かっているからこそ、冷静でいられるようにしている。
緋奈のポニーテールは水中に浮かんでこそいるが、後ろのベッドや紙類はその場に留まったままだ。
緋奈を見ていたことにより、春はその不可解な点に気が付いた。
『この水は、人体にのみ害する水。呼吸器の一つでもあれば、簡単に対処はできるの』
『それだと尚更、この水を対処しないとまずいだろ。鳥羽さんの肌が駄目になるじゃないか』
『自分の心配をすることよ。あなた、もう息が持たないでしょう?』
緋奈が察した通り、春の口からは既に小さな気泡が溢れ始めている。
今ここで、緋奈のリブリーザーを奪い取れば簡単に空気は確保できるだろう。
男だからこそ、異性から奪うのは容易いと、春でも容易に理解できる。だからと言って、それでこの試練が解決するわけでもない。
(……本格的にやばいな。見てきた中で、考えろ、巡らせろ。鳥羽さんも救える、方法を)
緋奈の部屋に至っては電気が機能しているが、春の部屋と同じく窓がシャッターで塞がれている。
持っているペンでシャッターは切れなくとも、床程度なら切れるだろう。だがそれは対策され、二階と一階の間にシャッター同等の板を設置している可能性が高い。
出てきた廊下に関して言えば、一階への道は同じく塞がっていた。
唯一、廊下に備えられている窓から月明かりが差し込んでいた程度だ。
(そうか、廊下だ)
『鳥羽さん、僕についてきて』
『どうして?』
『説明は後。悪いけど、手を掴ませてもらうよ』
春は考えたからこそ、緋奈にすぐさま接近して手を取り、廊下へと切り返して泳ぎ始めた。
緋奈が軽いおかげか、水の抵抗をそこまで受けなかったのは幸いだろう。
水の抵抗よりも、人体に近しい服は流石に水を吸い始めているようで、だんだんと重くなっている。
服が張り付くのは焦りのようにも感じられるが、問題は酸素の方だろう。
春は既に、溢れた息から水を呑み込み始めていた。
下手すれば溺死しかねないが、一分程度なら吸い込んだ水で呼吸をできるように鍛えていたのが功を奏している。
呼吸方法を最終手段にしたとはいえ、水を少量でも吸い込んでいるので肺が息苦しさを覚えているが。
廊下に出ると、正面の窓は月明かりを吸い込んでいる。
暗い水中の中とはいえ、目が慣れてきた証拠だろう。
青白い明かりが水中を照らし、廊下の形をくっきりと理解させてくるのだ。
春は窓に近づき、ペンの先を殴るように窓へと突き刺した。
(頼む、割れてくれ!)
満たされた水で割れない窓なら、物理的に割るしか方法はない、と春は読んでペン先を使って窓を殴ることにしたのだ。
緋奈は何をしているのかといった様子でこそあるが、春から目を逸らすことはなかった。
意識が溺れかけそうになった時、窓にはヒビが生えて、小さな亀裂が外へと水を抜き始めたのだ。無論、強化硝子だからこそ、大雑把に割れるようにはなっていなかったらしい。
水が抜け始めているのと同時に……春は最後の息を吐き出してしまった。
(でも、これで、鳥羽さんを救えるなら……)
視界が気泡で溺れていく中で、春が微笑んだ時だった。
(……え?)
不意に浮いたリブリーザーから、そっと近づく影が見えた。
朦朧とし始めた意識の中、眼前まで迫ったのは緋奈だ。
緋奈はリブリーザーを口から外すなり、春へと近づき、小さな両手を頬に添えてきている。
そして目を瞑ってから、ゆっくりと唇を合わせてきた。
唇に触れる柔らかな感触の中、送られてくる体温を帯びた息。
合わさった唇が、呼吸を、鼓動を再加速させてくる。
(どうして?)
春は驚きを隠せなかった。
緋奈は人工呼吸をするように、その唇を春の口へと近づけて酸素を分け与えてきたのだから。
春は確かに溺れかけていた、が違う意味でも溺れそうになっている。
徐々に減っていく水位は、緋奈から分け与えられた酸素の時間で十二分なほどに助かったのだ。
緋奈の唇が離れたのは、完全に水が抜けた時だった。
水が抜けきるのには感覚として一分もかからなかったが、春にとっては何よりも長い時間そのものと言える。
体が上向きだったからこそ、唇が離れると同時に、緋奈の前髪から落ちてくる水滴が眩しかった。
「……えっと、鳥羽、さん?」
動揺を隠すこともせず、その名を呼んだ。
春が上半身を起き上がらせると、緋奈はわずかだが、顔に安心した様子を浮かべている。
春自身、水を呑み込みすぎたのもあってか、体は未だに重いままだ。それでも、緋奈が安心していることが嬉しいと思えてしまう。
「か、勘違いしないこと。私は、あなたが助けようとしてくれたから、その、えっと、恩を返したかった……初めてなの、その、唇を重ねたの、キスをしたの……」
「……僕も初めてだよ。えっと、鳥羽さんが無事でよかった」
「本当に、馬鹿よ、あなたは。……あ、ありがとう」
そう言って落ちていたリブリーザーを拾いつつ、横に座って手を重ねてくる緋奈は、照れ隠しでもしているのだろうか。
お互いの間には、しばらく沈黙が続いたが、水から二人で無事に抜けられたという安心感で満たされているのは云うまでもないだろう。




