13 雨も晴れると虹をかける
(……四月だからって、油断した……)
四月も下旬に差し掛かろうとしていた頃、春は買い出しに出かけた帰り道、雨に降られてびしょ濡れになっていた。
家の玄関前に無事に辿り着いたが、雨音を響かせる空が休むのは暫く先だと見てわかるほどだ。
春は適当に服を絞ってから、ドアを開けて家の中に入った時だった。
「おかえりなさい」
「え、あ? ……ただい、ま。珍しいね、お出迎え、なんて?」
玄関には緋奈が立っており、手にはタオルを持っている。
手際よく春の手から買い物袋を取った緋奈は、持っていたタオルを春に手渡してきた。
「私がお使いを頼んでしまったの。だから、風邪をひかれでもしたら目も当てられないからよ」
「別に気にしなくてもいいのに。このくらいなら、自然乾燥で――」
「頭のネジを緩ませる暇があるのなら、シャワーでも浴びて、お風呂で体を温めたらどう?」
どうやら緋奈は雨が降るのを考慮していたのか、お風呂のお湯を張って待っていてくれたようだ。
最寄りのスーパーに買い物に行ったとはいえ、家から徒歩二十分ほど離れているのだから、田舎よりであることを考慮されたのだろう。
春はとりあえず、渡されたタオルでガサツながら髪を拭いた。
玄関なので垂れる水滴をそこまで気にする必要は無いはずだが、緋奈は呆れ混じりのため息を吐いている。
「……いい髪質なのに、もったいない」
緋奈の戯言に対して、傾ける耳は存在しない。
それでもふと心のどこかで、思うことはあるのだ。
(……こういうのは、夫婦、なのかな……)
言葉にこそ出さないが、春は幼い頃に両親を亡くしたのもあり、家族を本当の意味では知らないのだ。
目の前にいる緋奈に至っては、緋奈の父親こそ組織的な一面こそ大きいと春は知っているが、緋奈と緋奈の母親の事をよく話していた程に仲睦まじい家族関係であるのは分かっている。
家族。夫婦。そんな曖昧な言葉に、春の心は揺らぐどころか、興味を沸かすことはできないのだ。
春はただ、自分の目指す紳士になりたい、中身のない想いだけが宙を舞っているから……。
下手をすれば、木から落ちた葉の音一つで掻き消えてしまってもおかしくないほどに、偽物という嘘の味を覚えている。
「鳥羽さんのご厚意に甘えて、お風呂を使わせてもらうよ」
「ええ。買い物、ありがとう」
「ご飯を用意してくれるから、僕の方が何倍も感謝してる。ありがとう、鳥羽さん」
春は感謝をして、浴室へと向かった。
すれ違いざま、緋奈がどこか弾んだように鼻を鳴らしたことに、春はついぞ気づかなかった。
暫くしてお風呂から出ると、春はリビングの明かりに導かれるように歩いて行った。
私服とはいえ、緋奈に見られるのは未だに慣れたものではない。
緋奈と同じように、休日や学校終わりは適当なシャツやズボンを着ているのだから、お洒落の『お』の字もないも同然だ。
春はそこまで気にしていないが、緋奈に指摘してしまった以上、少しばかりは気になっているのも事実である。
廊下に鳴り響く雨音は、何を求めているのだろうか。
湯上りで湿ったままの髪を携えて、リビングに入った時だった。
「……鳥羽さん、その手に持っているものは?」
「見たら分かるでしょう?」
緋奈は椅子に座って待っていたのか、春が入るなり視線を向けてきている。
その手には、ドライヤーを携えて。
緋奈との距離感はどことなく近いが、髪を乾かしてもらう、という関係になった覚えはなかった。
緋奈が春に送る、些細な試練の可能性だってある。
下手をすれば、ドライヤーをこちらに向けてきた瞬間、飛び道具が発射されてもおかしくないのだから。
春は軽く身構えつつも、緋奈に視線を送っておく。
「ドライヤーなのは分かるよ? でもね、何をする気かなって。人で実験、なんて柄じゃないよね?」
「はあ。知能まで温めて流してきたの? ほら、その溶けた脳みそを働かせて、此処にお座りしなさい」
「犬じゃねえよ」
悪態をつきこそしたが、春は緋奈が指さした方を見た。
そこには普段春がご飯を食べる時に座っている椅子があり、緋奈は淡々と準備を済ませるようにドライヤーの線をコンセントに差し込んでいた。
春は髪を乾かしきれていない以前に、しっかりと拭き切れていない。
緋奈がそれを見越してドライヤーの準備をしているのであれば、春のお風呂上りの髪について散々言いたいことがあったのだろう。
「どうして準備をしてるのかな?」
「言ったはず。風邪をひかれても困ると。それに最低限、ペアとしての務めを果たしているだけ」
「あのさ、もしかして雫に何か言われたのか?」
変な入れ知恵をするとすれば、雫くらいしかいないだろう。
緋奈は友達関係であれば春よりも多いのは目に見えているが、友好的に話しているのは雫くらいしか思い当たらないのだから。
表情一つ変えずに首を横に振る緋奈は、春が勘ぐるよりも違う考えをしているのだろう。
緋奈の視線が段々と、文句を言ってないで座る、と言いたげな目になっているので春はおとなしく座ることにした。
その際、自分で乾かすことを緋奈に抗議してみたが、断固拒否されたのは言うまでもないだろう。
春が椅子に座ると、緋奈は後ろに立ってドライヤーの電源をつけていた。
「木藤くん、熱かったり、痛かったりしたら遠慮なく言ってね」
「うん」
緋奈はドライヤーの温度がよくなったのか、ゆっくりと温風を当ててくる。
温風だけでなく、小さな手が髪という草むらをかき分けるように、優しく触れてきたのだ。
緋奈の滑らかな指使いは、温風の温かさも相まって、春は心地よさを覚えてしまう。
今までがずさん過ぎたのもあるが、紳士を目指す上では、ある程度の容姿も勉強をするべきだと常々思わされる。
地肌をしっかりと乾かしつつも、髪の水分をほどほどに残している緋奈の手さばきは、慣れない春からすれば神業としか言いようがない。
それでも理解できるのは、この地道な努力もあるからこそ、緋奈の髪が艶めきやキューティクルが引き締まった良質な髪を保てるということだ。
髪を流しているならまだしも、ポニーテールはヘアゴム等を含めても摩擦が増えるので、維持をするにも繊細さは十二分に必要と言えるだろう。
春は異性が髪にこだわる理由など気にも留めていなかったが、緋奈であれば少しくらいは理解したい気持ちが芽生えつつあった。
緋奈に髪を乾かされている中、春は心地よくなりつつも、一つだけ疑問をこぼしていた。
「……幼い頃なら、両親がタオルで髪を拭いたり、髪を乾かしたりしてくれたのかな……」
春は知らなかった。
幼い頃、と一言で表現してしまえば曖昧そのものだ。
緋奈の手がぴたりと止まり、静まり返ったのが分かった。
それでも当たる温風の音だけは、リビングにこだましている。
「触れても大丈夫なのかしら?」
「てっきり、鳥羽さんはそこまで調べきっていると思ってた」
「言ったはず。木藤くんの過去は抹消、出生も家族も、調べようがないほどに消えていたのよ」
「そうだった。迂闊だった」
緋奈にはコマンダーから関係の話をされた際、少しだけ話をしたのだ。
話と言っても、組織の存在の有無、うわべ面の話だけだが。
「お詫びと言ったらアレだけど……僕はね、幼い頃……まだ物心がつき始めて間もない頃かな」
本来なら口にする必要はない、試練と称されたこの場では規約違反である。
それでも緋奈には、自分を隠すつもりはないと、少ないけれども口にしておきたいと春は思ったのだ。
春はただ遠くを見つめて、言葉を口にした。
降る雨が弱まっていることを、この目で理解しながら。
「……紳士を目指すキッカケになった。幼い頃、両親を追いかけていた頃」
「ええ」
「目の前で両親を……訳あって、亡くなるのを目撃したよ。あれは不運な事故だし、下手をすれば僕だって、この場にはいなかった」
「多くを言わなくてもいいわよ。ある程度は、分かるから」
思い出しながら、思い出しながら口にしているせいか、気づけば声が震えていたのだろう。
だからこそ緋奈はそれを悟り、優しくうなずいてくれているのだ。
「うん。ありがとう。でね、目の前で両親が死んでいる中、僕は一人の紳士の後ろ姿に目を奪われたんだ。言うなれば、幼い子が医者に救われて医者を目指すように、救急隊に家族を救われて救急隊を目指すように……その時の僕は、その衝動に近かったんだと思う」
紳士を目指すキッカケと口にしたが、それはあくまで理由にしか過ぎないだろう。
自分が守られたように、自分も誰かを守りたいという、幼き日の好奇心と、偶然の出会いが生んだ産物で春は運よくこの場に居るのだから。
仮にその時、目の前にいた紳士も悪であれば、春は記憶を抹消される、もしくは家族共々消去されていただろう。
春は淡々と話をしたが、緋奈が驚く様子は一切なかった。
「……その時に、私のお父様と?」
春はただ、頷いた。
あの日に出会った紳士は紛れもなく、ネノプロジェクトで働く緋奈の父親だったのだから。
緋奈の父親に救われたからこそ、春はこうして生きながらえ、組織的な知識と行動力を手に入れることもできたのだ。
「合点がいったわ。お父様が直々に面倒を見ていたのなら、コマンダーも木藤くんを知っている、当然ね。ネノプロジェクト……一人だけ、類まれなる才能を持った子が組織とは別にいる、と噂程度に聞いたことならあるもの」
「鳥羽さんの事だから、噂じゃなくて、自分で調べてそうだね」
「当たりよ。ついでに云うなら、お父様がたまに木藤くんの話をしていて、未来――なんでもないわ、忘れて頂戴」
圧をかけてくる緋奈は、よっぽど口にするべきではない言葉を口にしてしまったのだろう。
未来の先が気になりこそしたが、春はただ緋奈が髪を乾かしてくれる今に心地よさを覚えた。
過去を少し話してからは、緋奈の髪の触り方が先ほどよりも優しくなり、春は程よい眠気に包まれかけたのだが。
「これで大丈夫よ」
「鳥羽さん、ありがとう」
「あら、ちょうど晴れたみたいね」
髪を乾かし終わるのと同じくして、雨はちょうど上がったのか、窓から白い光が差し込んでいた。
春は緋奈の隣に立ち、窓の方へと歩んだ。
窓の外を見て、思わず口を開いた。
静かに高鳴る心臓の鼓動はむず痒いのに、温かさを伝えてくるのだ。一人では知り得なかった、美学とも言える鼓動を。
「虹がかかってる」
「虹、綺麗ね。雨上がりの虹、空を見上げたのもいつぶりか忘れそうね」
「……誰かと一緒に虹を見るなんて思わなかったよ」
「私もよ。私と見れる、それは木藤くんだから、叶ったのかもしれない」
緋奈の何気ない言葉は、先ほどの鼓動とは違う、更なる鼓動を鳴らすようだ。
春はぎゅっと拳を握って、息をそっと吐いた。
「あのさ」
「なにかしら?」
「……いずれ、鳥羽さんに認めてもらえるかな」
「あなたの今後の行動次第よ。少なくとも、私はあなたの事を今までのペアとは違う、と今回の話を聞いて認識した……それだけは言っておく」
ふと見た緋奈の横顔は、微笑みだった。
それなのに熱くなる気持ちに、春は体温を熱くしていたのだ。




