第9話:悪意の道しるべ(続き)
アインクランの裏通りは、表通りの華やかさとは無縁の世界だ。石畳はひび割れ、汚水が溜まり、鼻をつく腐臭が漂っている。昼間だというのに薄暗く、建物の影には物乞いや柄の悪いゴロツキたちが目を光らせている。
普段なら、私のような弱小冒険者が足を踏み入れていい場所ではない。けれど、今の私に恐怖を感じる余裕などはなかった。
ザッ、ザッ、ザッ。
泥だらけの靴音を響かせ、私は路地を駆ける。息が上がり、脇腹が痛む。昨日の怪我がまだ疼いている。
それでも足は止められない。止まってしまえば、セルジオさんがさらに遠くへ行ってしまう気がしたからだ。
「……ここかな」
迷路のような路地の奥。崩れかけたレンガ造りの建物の地下に、その店はあった。看板には、古びた文字で『古書堂・賢者の遺灰』とだけ書かれている。
重い木製の扉を押し開けると、カウベルが錆びついた音を立てた。
「……いらっしゃい」
店の中は、時間の流れが止まったかのように静寂に包まれていた。天井まで積み上げられた本の山。埃とカビ、そして古い紙特有の甘い匂いが充満している。
カウンターの奥から、骨と皮だけになったような老婆が、分厚い眼鏡越しに私をじろりと見つめた。
「おや、珍しい客だね。うちは冒険譚の攻略本なんて置いてないよ」
「あ、あの……」
老婆のしわがれた声に気圧されながらも、私はカウンターにしがみついた。
「地図を探しているんです。今の地図には載ってない……古い場所の」
「古い場所?」
「『ファイナス村』です。そこへの行き方を、知りたいんです」
その村の名前を口にした瞬間、老婆の眉間の皺が深くなった。
彼女は持っていたキセルを置き、濁った瞳で私を頭の先から足の爪先まで値踏みするように見た。
「ファイナス村ねぇ。……あんた、死にに行くのかい?」
「え……?」
「あそこは四十五年前に滅んだ廃村だよ。今はもう、人は住んじゃいない。住んでいるのは、過去の亡霊とモンスターだけさ」
老婆の言葉はギルドの人から聞いた話とは違っていた。ギルドの人は「療養に最適だ」と言っていた。でも、この老婆は「滅んだ」と言う。
どっちが本当なの?
一瞬の混乱。けれど、私の脳はすぐに都合の良い解釈を選び取った。
――きっと、セルジオさんはその「誰もいない静けさ」を求めて行ったんだ。
人嫌いな彼ならあり得る。むしろ、誰も来ない場所だからこそ、彼には安らげる場所なのかもしれない。
「知っています。でも、そこに私の……大切な人がいるんです」
「大切な人?」
「はい。だから、どうしても行かなきゃいけないんです。お願いします、地図を売ってください」
私が必死に頭を下げると、老婆は呆れたようにため息をついた。そして、カウンターの下をごそごそと漁り始めた。
「……物好きなこったね。止めても聞くような目をしてないよ、あんた」
ドサッ。
カウンターの上に置かれたのは、羊皮紙でできた古地図だった。端が焼け焦げ、変色しているそれは、まさに歴史の遺物と呼ぶにふさわしい代物だった。
老婆は枯れ木のような指で、地図の一点を指差した。
「ここだよ。大陸の最南端、山岳地帯の奥深く」
彼女の指が、アインクランから南へと線をなぞる。
「まずはここから列車で南の工業都市『イベリア』へ向かうんだ。そこが文明の及ぶ最後の地点さ」
「イベリア……」
「そこから先は、道なんてありゃしない。山を越え、森を抜け、徒歩で数十時間はかかる。道中には強力な魔物も出る。今のあんたの装備じゃ、村に辿り着く前に骨になるのがオチだよ」
老婆の警告は、脅しではなく事実を淡々と述べているようだった。
私のレベルでは自殺行為だ。それは分かっている。
でも、だからそれが何だというのだ。
彼がいないこの街にいたところで、私には「死神」としての絶望しかない。彼がいない世界で生き延びることに、何の意味があるの?
「行きます。……これ、ください」
なけなしの貯金をカウンターに置いた。採取クエストで貯めた、数ヶ月分の生活費全てだ。これで学費も家賃も払えなくなる。
もう、後戻りはできない。
老婆は銀貨を数えることもせず、地図と共に私の方へ押しやった。
「……お題は結構だよ。だがね忠告しとくよ、お嬢ちゃん。人は見たいものしか見ない生き物だ。あんたが追っているのが『希望』なのか『破滅』なのか、よく目を開いて見るこったね」
「ありがとうございます」
私は地図を抱きしめ、深く一礼した。老婆の言葉の意味など、今の私には届かなかった。
地図を手に入れた。これで彼に会える。それだけが、私の心を支配する全てだった。
店を出ると空からは冷たい雨が降り始めていた。シトシトと降る雨が火照った頬を濡らす。
地図をローブの内側に隠し、駅の方角へと走り出した。
工業都市イベリア。そこへ行けば、ファイナス村への道が開ける。
待ってて、セルジオくん。今度は絶対に、迷惑なんてかけない。あなたの邪魔をしないよう、静かにそばにいるから。……だから、
『ーーお願い、私を一人にしないで』
雨に打たれながら走る私の姿を、路地裏の野良犬だけがじっと見つめていた。それはまるで、死地へと向かう哀れな魂を見送るかのように。




