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第10話:イベリアから廃村へ

 シュゥゥゥ……ッ!

 白い蒸気がホーム全体に立ち込め、巨大な鉄の塊が耳障りな金属音(スキール音)を響かせて停止した。

 アインクラン発、南行きの魔導列車。その終着駅である工業都市イベリアに降り立った私を包み込んだのは、鼻を突く強烈な重油と鉄錆の臭い、そして空を覆い尽くす鉛色の煤煙だった。

 ここは「文明の最果て」。ここから北は煌びやかな魔法と冒険の世界だが、南には険しい山脈と未開の樹海が広がるばかりで、人の生存圏はここで断絶されている。

「……ここから、南へ」

 駅の改札を抜けると、そこは灰色の世界だった。

 林立する煙突からは絶え間なく黒煙が吐き出され、昼間だというのに太陽は曇りガラス越しの電球のように頼りない。

 カンカン、ガンガンと、工場地帯から響くハンマーの音や機械の駆動音が、私の焦燥感を煽るように絶え間なく鼓膜を叩く。

 行き交う人々は皆、煤で汚れた作業着を着て、死んだ魚のような目で足早に歩いていく。彼らは巨大な都市という機械を動かす歯車のようで、泥だらけのローブを纏った異物わたしになど、誰一人として関心を払わない。

 その無関心が、今の私にはありがたくもあり、同時に世界から切り離されたような孤独を深めた。

 街の南門。

 そこは、文字通りの「境界線」として聳え立っていた。

 高さ十メートルはある鉄の門扉。その内側には文明が張り付いているが、一歩外へ出れば、そこには鬱蒼とした森と、切り立った岩山が壁のように立ちはだかっている。

「おい、嬢ちゃん。そっちは立ち入り禁止区域だぞ」

 門番の兵士が、気だるげに槍を地面に突き立て、私を呼び止めた。

 彼の目は、自殺志願者を見るような冷ややかな色を帯びていた。

「この先は道なんかない。出るのは魔物か、遭難者の死体くらいだ。悪いことは言わねぇ、引き返しな」

「……待ち合わせなんです」

 私は古書店で買った羊皮紙の地図を胸元で握りしめ、俯いたまま答えた。

 声が震えないように必死だった。

「大切な人が、待っているんです。どうしても、行かなくちゃいけないんです」

「あぁ? こんな森の奥でか? 正気じゃねえな……」

 兵士は呆れたように肩をすくめ、眉間のシワを深くした。

 だが、それ以上強く引き止めようとはしなかった。この街では、絶望して森へ消える人間など珍しくないのかもしれない。

 私は一礼し、鉄の門の隙間から外へと体を滑り込ませた。

 文明の世界から、野生の地獄へ。

 その一歩が、二度と戻れない境界ラインを越える音のように、砂利を踏む音がやけに大きく響いた。

 森に入ると、世界は一変した。工場の騒音は嘘のように消え、代わりに風が木々を揺らす不気味なざわめきと、湿った腐葉土の臭いが充満する。

 古地図には、ファイナス村へと続く「街道」が記されていたはずだった。けれど、目の前にあるのは、背丈ほどもある雑草と、蛇のように絡まり合う蔦、そして苔生した倒木が積み重なる緑の壁だけ。

 当然だ。この地図が描かれたのは、おそらく百年以上前。人の手が入らなくなって一世紀。道など、とうの昔に自然という暴力的な生命力に飲み込まれ、跡形もなく消化されているのだ。

「……でも、行かなきゃ」

 私は腰の錆びた短剣を抜き、目の前の蔦を力任せに叩き切った。

 進むしかない。

 方角は南。コンパスと地図を頼りに、道なき道を強引に切り拓いていく。

 バシッ。

 跳ね返ってきた弾力のある枝が、私の頬を鞭のように打ち据える。

 鋭い棘を持つ植物がローブを突き破り、二の腕や太腿に赤い線刻を無数に刻んでいく。

 痛い。

 けれど、そんな痛みはどうでもよかった。足が止まれば、思考が追いついてくる。

 ――本当に彼はいるのか?

 ――あの職員たちは笑っていなかったか?

 そんな疑念という名の毒が回る前に、体を動かし続けなければならなかった。

 一歩進むたびに、足が泥濘ぬかるみに足首まで沈む。まるで森そのものが、私の足を掴んで引きずり込もうとしているように。

 急な斜面を四つん這いで這い上がり、足を滑らせては泥だらけになって転がり落ちる。爪の間には黒い土が詰まり、指先からは血が滲む。

「はぁ、はぁ、はぁ……ッ」

 息が上がる。肺が焼けるように熱い。

 昨日の怪我が開いたのか、左腕の包帯がじっとりと赤く染まり始めていた。ズキズキと脈打つ痛みが、私の意識を現実へと引き戻そうとする。

 帰ろう。こんなの無理だ。死ぬだけだ。

 生存本能が耳元で喚き散らす。けれど、私は首を振ってそれを振り払った。

「だめ待ってるの……、セルジオさんが、私を……」

 帰る場所なんてない。アインクランに戻っても、私を待っているのは「死神」という蔑称と、誰からも必要とされない孤独な部屋だけ。

 それにセルジオさんがいない世界で生き延びることに、何の意味があるのか。それならいっそ少しでも彼の近くで野垂れ死ぬ方がマシだった。

 数時間歩き続けた頃だろうか。森の空気がピリリと変わり、ねっとりとした不穏な気配が漂い始めた。

 鳥の声が止み、虫の音が消える。

 ガサガサ……。

 すぐ近くの茂みが揺れ、低い、地響きのような唸り声が聞こえた。

「……ッ!」

 モンスターだ。

 私は反射的に息を殺し、太い古木の根元に身を隠した。

 葉の隙間から見えたのは、黒い剛毛に覆われた巨大な猪のような魔物「ワイルドボア」。Cランク相当。突進されれば大岩さえも粉砕する、森の戦車だ。今の私が出会えば、一秒もかからずに挽肉にされる。

 ボアは巨大な鼻を鳴らし、フゴフゴと何かを探すように周囲を嗅ぎ回っている。

 獣臭い、生暖かい風が漂ってくる。

 心臓の音がうるさい。全身の血が逆流するような恐怖。

 私は泥水に顔を埋めるようにして、固く目を閉じた。

 神様なんて信じていない。私が祈ったのは、彼にだった。

(セルジオくん……助けて……)

 ボアの足音がすぐ側を通り過ぎていく。太い枝がへし折れる音。数分間が、数時間にも感じられる永遠の沈黙。

 遠ざかる足音を確認し、私は震える足で再び立ち上がった。恐怖で涙が溢れ、歯の根が合わない。

 怖い。帰りたい。

 弱音が溢れそうになる。でも、足は前へ前へと進んでいく。それはもう、希望というよりは、呪いに突き動かされるゾンビの行進だ。

 日が傾き、森の中は急速に深い闇に包まれていった。

 懐中電灯もない。月明かりも分厚い雲と木々に遮られて届かない。

 視界ゼロの完全な闇の中、どこが地面でどこが崖かも分からない。そんな暗闇を手探りで木々の幹を掴み、確かめながら這うようにして進んだ。

 疲労と失血で、意識が混濁し始める。

「セルジオさん……どこ……?」

 幻聴が聞こえ始める。風が木々を揺らす音が、彼が私を呼ぶ優しい声に聞こえる。

 目の前に伸びる枝のシルエットが、彼が差し伸べる手に見える。

「あ……セルジオさん……!」

 その度に手を伸ばし、空を掴み、泥の中に顔から倒れ込む。

「……待ってよ、すぐ行くから……」

 口の中にじゃりりと泥の味が広がる。

 自分が今、どんな顔をしているのか分からない。

 きっと、アインクランで「死神」と呼ばれていた時よりも、ずっと酷い姿だろう。

 服は裂け、泥と血で固まり、髪は枯れ葉と泥でぐちゃぐちゃ。肌は傷だらけで、目は虚ろ。まさに、墓場から這い出してきた死体そのものだ。

 それでも、私は立ち上がった。

 地図によれば、この険しい山を越えた谷底に、ファイナス村はあるはずだ。

 あと少し。あと少しで会える。彼もきっと、私を待ってくれている。

 あのギルドの人が言っていた。「ファンが来たら喜ぶ」って。彼は寂しがり屋だからって。

 ……そんなの嘘だと、心のどこかでは分かっている。彼が私を拒絶したあの冷たい目。あれが全てだったと。

 それでも、今の私はその嘘を真実だと信じ込むことでしか、体を動かす燃料を得られなかった。信じなければ、私はこの闇の中で発狂してしまう。

 ザリッ。

 足元の岩が崩れ、私は斜面を滑り落ちた。

 制御が効かない。鋭い石が肌を切り裂き、肋骨を打ち付けながら転がり落ちる。

 ドサッ! と太い木に激突して止まる。

「ぐぅッ……ぁ……」

 全身が砕けたように痛い。指一本動かすのも億劫だ。

 追い打ちをかけるように、空から冷たい雨が降り始めた。シトシトと降る雨が、泥と血を洗い流し、私の体温を奪っていく。

 寒い。眠い。

 このまま目を閉じれば、きっと楽になれる。

 ふと、闇の向こうに、微かな空間の広がりを感じた。

 木々が途切れ、そこだけぽっかりと開けた場所。

 私は最後の力を振り絞り、這いずりながらそこへ向かった。

 ピカッ!

 雷光が閃き、一瞬だけ世界が白く照らし出された。

 その光景を見て、私は息を呑んだ。

 そこにあったのは、村だった。いや、かつて村だった「残骸」だ。

 屋根が落ち、壁だけになった家屋。苔に覆われた崩れた石壁。地面に半分埋もれた、朽ち果てた看板。

 人の気配など微塵もない。聞こえるのは雨音と、建材が軋む音だけ。

 そこは、完全なる死の静寂に包まれた廃墟だった。

「ここ、が……」

 ファイナス村。

 幻の地図が指し示した、約束の地。

 絶望的な光景のはずなのに、私の壊れかけた脳はそれを歓喜として処理した。

 私は泥だらけの手で地面を掴み、泣き笑いのような歪んだ表情で呟いた。

「ついた……ついたよ、セルジオくん……」

 そこが本当の地獄の入り口だとも知らずに。

 私は最後の気力を燃やして、死者しかいないはずの廃村へと、よろめきながら足を踏み入れた。

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