第4話:弱者の死に場所
ギルドを後にして、もう二時間近くが経っていた。
日が沈み、カーテットの森は光の届かない深い闇の底へと沈んでいた。懐中電灯も持たず、雲間から覗く頼りない月明かりだけを頼りに、私は道なき道を進んでいた。
目的地は、依頼書に記された「古びた廃坑」。そこには、低級のアンデッドが巣食っているという。
ザッ、ザッ……。
枯れ葉を踏む自分の足音が、やけに大きく響く。凍えるような寒さが、ボロボロに擦り切れたローブの隙間から容赦なく入り込み、骨の髄まで冷やしていく。
空腹でふらつく足は、地面から突き出した木の根に何度も引っかかり、その度に泥だらけの手をついては、無様に這いつくばる。
泥の冷たさと、砂の感触。指先はとうにかじかんで感覚がない。
帰り道なんて覚えていない。覚えようともしていなかった。どうせ、もう帰る場所なんてないのだから。これが、私の最後なのだから。
しばらく歩くと、森の空気がねっとりと重く淀み始めた。鼻を突くのは、吐き気を催すような強烈な異臭。何かが腐った甘ったるい臭いが混ざり合った、生理的な嫌悪感を呼び起こす「死」の臭い。
廃坑の入り口だ。
崩れかけた坑道が、巨大な獣の口のようにぽっかりと開いている。その奥からは、冷たく湿った風と共に、カサカサという乾いた音と、地の底から響くような低い唸り声が聞こえてくる。
「……いる」
心臓が早鐘を打つ。死にに来たはずなのに。この惨めな人生を終わらせに来たはずなのに、生存本能が激しく警鐘を鳴らし、全身の毛が逆立つ。
私は腰に差していた護身用の錆びた短剣を、震える手で引き抜いた。ギルドから支給されただけの、一度も使ったことのない刃渡り二十センチほどの鉄屑。
頼りないその重みを両手で握りしめ、私は震える足で暗闇の中へと踏み入れた。
「ア゛ア゛ア゛……」
暗がりの奥から泥を引きずるような足音と共にそのモンスターは現れた。
腐り落ちた皮膚から濁った黄色の脂肪と白い骨が覗き、眼球のない虚ろな瞳でこちらを見つめる人型の死体――、リビングデッド。
冒険者のランクで言えば、最低ランクのF級。駆け出しの初心者でも、魔法一発で倒せるような、最底辺とも呼ばれるモンスターだ。
動きも遅い。武器も持っていない。知性もない。ただ、生者を食らうためだけに動く肉塊。なのに、私の体はまるで石になったように動かなかった。
「ひっ……!」
喉の奥から、情けない悲鳴が漏れる。
ゲームの画面越しに見ていたポリゴンの塊とは違う。ここにあるのは、呼吸のたびに肺を灼くような濃密な腐臭と、私という生身の人間をすり潰そうとする、明確な殺意だ。
リビングデッドが、緩慢な動作で腕を振り上げた。その指先はどす黒く壊死しているが、爪だけが異常に発達し、獣のナイフのように鋭利に尖っている。
頭の奥では逃げなければいけないのはわかっているのに、恐怖で完全に硬直した筋肉は、足元の泥に縫い付けられたようにびくとも動かない。
――ドスッ!
鈍く重い衝撃が、まともに胸を捉えた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。痛みを感じるよりも先に視界が回り、私の身体は宙を舞っていた。背中を坑道の壁に強打し、肺の中の空気が容赦なく叩き出される。
「ガハッ……!」
激しく咳き込みながら尻餅をついた。あんなに遅く、見え透いた攻撃すら、私は避けることができなかったのだ。
リビングデッドが、泥を引きずりながら一歩、また一歩と近づいてくる。黄色い体液を垂らす腐った口元が、獲物を前にして、まるで喜悦に歪んでいるように見えた。
殺される。本当に、ここで食べられてしまう。
涙がボロボロと溢れて視界が滲む。死にたいと願ってここに来たくせに、いざ本物の死を突きつけられると、私はただ「死にたくない」と泣き叫ぶだけの、無力で惨めな子供だった。
「いやだ……、こないで……!」
両手で泥を引っ掻きながら、必死に後ずさる。けれど、背中はすぐに冷たい岩肌にぶつかった。行き止まり。もう、どこにも逃げられない。
目の前に死体が立ちはだかる。鼻を突く死臭に吐き気が込み上げた瞬間、鎌のような腕が、容赦なく振り下ろされた。
――ズブ、ズリュッ!
生々しく、自分の身体が引き裂かれる音が鼓膜の奥で鳴り響いた。
直後、焼けた鉄棒を直接ねじ込まれたような、熱い激痛が下腹部を貫く。
「ああああッ!!」
洞窟の壁を震わせるほどの絶叫。喉が引き裂かれ、口の端から血の泡が弾ける。
視線を落とすと、私の薄汚れたローブを貫通し、化け物の黒ずんだ腕が深々と腹の中に埋まっていた。
リビングデッドは、私の肉の感触を楽しむように、その腕をじわりと中でねじり、それからゆっくりと引き抜いた。
ゴボッ、ジュルルッ……。
おぞましい水音と共に、壊されたお腹から、何かがどろりと溢れ出す。
赤黒い自分の腸。それが泥まみれの地面にビチャリとこぼれ落ちるのを、自分の身体の出来事だとは思えないほど、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
「あ、……あ、が……」
傷口からドクドクとあふれ出す大量の血液が、私の僅かな体温を急速に奪っていく。指先から感覚が消え、呼吸をするたびに血の塊が喉に詰まって窒息しそうになる。
痛い。寒い。怖い。
英雄のように戦って散るならまだしも、こんな誰でも倒せるようなモンスターに、剣も振れず、魔法も使えず、ただ怯えて泣き叫び、腹を裂かれて死ぬなんて。
「……私は、なにをやっても、ダメ、なのね……」
薄れゆく意識の淵で、自嘲の笑みが漏れた。
元の世界でもゴミだった。この世界でもゴミだった。
必死に足掻こうとした結末が、この世で一番無様な死に様だ。
変えようとした結果が、この惨めな死に様だ。
これが、私にお似合いの結末なのだ。
五感が闇に溶けていく。
セルジオくん、ごめんね。約束、守れなかった。
でも、もし、もう一度生まれ変われるのだとしたら、次はあなたの描いた物語の「アリシア」のように、誰かに愛される女の子になりたい。
――その時は、あなたが私を愛してほしい。
永遠のような静寂が、私のすべてを塗り潰していった。




