第5話:片道の再会
深い海の底から、ゆっくりと浮上していくような感覚。意識が戻ると同時に、襲ってきたのは強烈な消毒液の臭いと、全身を縛り付けるような倦怠感だった。
「……っ、う……」
重い瞼を持ち上げる。白い天井。真っ白なカーテン。そして規則的に響く電子音。
そこは、見知らぬ病室だった。
私は自分の選択でさえも自由が効かず、こうしてまた辛い日常の檻に囚われてしまっていた。
どうして私をこの世界に連れ戻すのか、沸々と湧き出す絶望を感じながら思わず涙が溢れた。
「目が覚めましたか?」
声がした方へ視線を向けると、ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に、私と同い年くらいの青年が腰掛けていた。青と黒のラインが入った、スタイリッシュな制服。整った顔立ちに、知的な印象を与える少し長めの黒髪。
彼は読んでいた本を閉じ、私を見て穏やかに微笑んだ。
「酷い怪我でしたよ。腸が一部断裂していて、それは見るも無惨な死に方でした」
優しい声だった。けれど、その声を聞いた瞬間、それまで感じていた悲しい気持ちが消え、私の心臓を大きく揺るがした。
ーー知っている。この声を私は知っている。六年間、毎晩のようにヘッドホン越しに聞いていた、あの声だ。忘れるはずがない。
私とこの世界と共にすると約束した友人のハンドルネームが浮かぶ。
「……あなたは……?」
乾いた喉から、掠れた声が漏れる。
「ギルドの救助隊員をしてます。セルジオです。ツバキさんから応援要請を受け、後を追いかけていたんですけど。廃坑に倒れていたので救助しました」
『セルジオ』。その名前を聞いて、私の確信は深まった。
それは約束をしていた彼のハンドルネームであり、彼が書いていた小説に登場する、主人公アリシアの相手役の名前だ。
私は彼の小説を読んだ時に、疑問を感じていた。なぜ彼がゲームの中のハンドルネームと同じ名前を、そのまま物語の重要人物としても使っていたのかと。
彼は言っていた。『水底の星空』は理想的な物語にしたかったと。そんな理想の物語で終わるはずだったヒロインの恋人役の名前を彼は今も名乗っている。
彼はきっと今もこの世界で『理想の物語』を追い求めている。
私は痛む体を無理やり起こそうとして、激痛に顔をしかめた。セルジオさんが慌てて私を制する。
「動かないで。傷が開きますよ」
彼が伸ばした手首。
そこには、色褪せてはいたものの確かにツートンカラーのスマートウォッチ――『Model X』が巻かれていた。
ーー間違いない。
確信はさらに深まる。この世界でこれを持っているのは、現実世界から転移してきた人間だけだ。
私は音信不通になっているセルジオ宛にすかさずメールを送信した。すると、セルジオが装着するデバイスが一瞬光と音を放ったが、壊れているのか、その動作はセルジオが気づく前に消えてしまった。
「……、?」
セルジオさんは不思議そうな顔でそれを眺めていた。けれど、私はそれを見逃さなかった。
ーーやっと会えた。
一年間、孤独と絶望の中で探し続けた人に、ようやく巡り会えたのだ。私はすかさず彼の袖を掴み、すがるように叫んだ。
「ねぇ、私だよ、レイだよ! 」
私の必死な訴えに、彼は困ったように眉を下げた。その瞳には、再会の喜びも驚きもない。あるのは見知らぬ狂人を見るような、困惑と少しの哀れみだけだった。
「 ……、初対面ですよね」
「そんなことない。セルジオくん、みて、私の。ほら一緒にお揃いにしようって」
私は点滴の管が引き攣れるのも構わず、自分の左手首を突き出し、彼とお揃いにした黒と白のツートンカラーのモデルエックスを袖を捲って見せた。
なのに、彼の反応は氷のように冷淡だった。私の腕を一瞥し、ふぅ、と小さく息を吐く。
「君も転移者だったんですね。珍しいな、最近は滅多に見かけないのに」
それだけだった。
まるで、たまたま同郷の人間に出会っただけのような、事務的で感情の乗らない反応。
「僕は君のことを知らない。誰かと勘違いしているのではないでしょうか」
彼は優しく、けれどきっぱりと否定した。その穏やかな拒絶は、怒鳴られるよりも深く、私の心を抉った。
なぜ? どうして忘れてしまっているの?
転移の影響で記憶を失っているのだろうか。それとも、一年という時間が彼の中で「ネットの向こうの友人」の存在など消し去ってしまったのだろうか。
「……待って。思い出してよ、セルジオくん。私、レイだよ? 毎晩一緒にゲームで遊んだじゃない。いろんなお話も、悩みも聞いてくれたじゃない……!」
言葉を重ねるたびに、彼の瞳から温度が消えていくのが分かった。
きっと彼は私を見ていない。
彼が見ているのは「レイ」ではなく、「錯乱した見ず知らずの患者」だ。その事実に気づいた瞬間、背筋が凍るような恐怖が走った。
もしここで彼に拒絶されたら、私はまたあの日々に戻ってしまう。
カビ臭い部屋で目覚め、学校では「死神」と蔑まれ、誰とも口を利かず、泥水をすするような孤独な毎日へ。あの、内臓を食い荒らされるような絶望の世界へ、たった一人で放り出されるのだ。
嫌だ。それだけは嫌だ。
彼だけが、私の知る「暖かさ」を持った人だ。彼だけが、この灰色の世界で唯一の色を持った希望なのだ。ゲームの中で6年もの時間を共にし、毎晩のように心を曝け出してきた、たった一人の友人。理想的な再会の形ではなかったけれど、そんな彼と約束した、この世界での再会のはずだった。
「……そろそろ行きますね。無事約束した人と会えることを祈ってます」
彼は私の懇願を無視し、パイプ椅子から立ち上がった。これ以上、個人的な話をするつもりはないという明確な意思表示。彼は背を向け、出口へと歩き出す。
遠ざかる背中が、世界の終わりに見えた。
「待って! 行かないで!!」
私はベッドから転がり落ちるようにして彼を追いかけた。激痛が走る腹部を押さえ、地を這うようにして、彼の脚を掴む。
無様でもいい。惨めでもいい。ここで彼を逃せば、私は本当に死んでしまう。
「私、一人じゃ生きていけないの……! 魔法も使えないし、お金もないし、みんな私をいじめるの……!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を見上げ、私はなりふり構わず叫んだ。
「あなたみたいにまた強くなりたい! この世界で、自分の足で立ちたいの! お願い、見捨てないで! また私に戦い方を教えてください!」
それは、咄嗟に出た言葉だった。彼との接点を持ち続けたい一心での精一杯の懇願。
彼が私の知る優しい「セルジオくん」なら、弱者を放っておけないはずだ。そんな卑しい計算すら、今の私には縋るべき藁だった。
彼は足を止め、ゆっくりと振り返った。
その瞳が、私を射抜く。そこに宿っていたのは、同情でも優しさでもなかった。
もっと残酷な、冷徹な「評価」だった。
「……、あなたには無理ですよ」
静かな宣告だった。
「怪我の治療ついでにあなたを調べさせてもらいましたが、あなたの魔力はなんらかの力ですぐに消失していています。本当は溜まっていくんですけど。魔力がゼロでは才能とか努力以前の問題。君には冒険者の適性がないんです」
彼は私の手を、汚いものに触れるかのように、そっと、しかし強い力で剥がした。
「戦えば、また今回のように死にかけるだけです。あなたに冒険者は向いていない」
彼の言葉は正論だった。
痛いほどに、私の現実を突いていた。けれど、彼の瞳の奥に見えたのは、「死なせたくない」という慈悲ではない。
――こんな弱くて、薄汚れた女が、自分に関わろうとするな。
そんな、無言の拒絶のようなものだった。
「諦めて、他の安全な仕事を探しなさい。それが君のためです」
彼はそう言い残し、今度こそ病室を出て行った。
パタン、と閉まるドアの音が、私と彼を隔てる壁のように、重く、冷たく響いた。そこに残された私は、冷たい床に這いつくばったまま、震えていた。
違う。こんな再会じゃなかったはずだ。
もっと喜んでくれて、「やっと会えたね」って笑い合って、二人で冒険を始めるはずだった。彼が書いたあの小説のアリシアとセルジオのように、私たちも運命の絆で結ばれる、いやこうして奇跡的に再会している時点で私たちはもう既に結ばれているはずなのに。
ふと、窓ガラスに映る自分の顔が見えた。
泥と血で汚れ、髪はボサボサ。頬はこけ、目は垂れ下がった前髪の中で落ちた窪んでいる。
……ああ、そうか。
あんな綺麗な人が、こんな私を知り合いだと思うはずがない。
セルジオさんの中の「レイ」は、ゲームの中のアバターのように、可愛くて、強くて、頼れる相棒だったはずだから。こんな死神と言われるような女、彼の物語の登場人物ですらない。
「……あは、あはは」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れる。
当然だ。私が彼でも、こんな女は願い下げだ。
でも、だからといって引き下がるわけにはいかない。彼がいなくなったら、私はまた闇の中だ。
病室の窓から背を向け去っていくセルジオを眺めながら、爪を掌に食い込ませた。
ーー諦めない。絶対に。
セルジオが、この世界で私を「レイ」だと認めないなら、無理にでも認めさせるし、彼の隣に立つ資格がないと言うなら、隣に立ってみせる。
そのためにどんな手を使ってでも彼のいる所へ入り込む。それが彼を苦しめ、私自身をも破滅させる選択だとしても。
勝手に私を助けて、私をこの世界の檻に閉じ込めた代償は重いの。




