第3話:灰色の死神
オリンパス。それは現実世界とゲームの世界が融合した人類が作り上げた「もう一つの理想郷」。
ここでは誰もが魔法の才に目覚め、武器を取り、冒険者として輝かしい物語を紡ぐことができる――、はずだった。
ジリリリリリ……!
耳をつんざくような目覚まし時計のベル音が、私を泥のような眠りから無理やり引き剥がす。
重い瞼を開け、視界に飛び込んできたのは、蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされたカビ臭い天井だった。壁紙は湿気で剥がれ落ち、ヒビの入った窓ガラスの隙間からは、冷たい隙間風が容赦なく吹き込んでくる。
ここはアインクランの街の最下層地区。理想郷の光が届かない、吹き溜まりのようなボロアパートの一室が私の世界の全てだった。
「……朝か」
乾いた喉から砂を噛むような声が出る。
軋むベッドから這い出し、洗面台の割れた鏡の前に立つ。
そこに映し出されているのは、生きている人間とは思えない幽霊のような少女の姿だ。
目の下には病的なほど濃いクマが張り付いている。
何より酷いのは髪だ。手入れする余裕もなく伸び放題になった色素の薄い髪は、脂と埃でゴワゴワになり、いくつもの束になって顔を覆い隠している。その伸び切った髪の奥から覗く瞳は、腐った沼のように濁り、生気というものが一切感じられない。
私は黒澤怜。このオリンパスに来て、もう一年が経とうとしている。
痩せ細った体に、支給品の最低ランクのローブを纏う。サイズが合っておらず、袖口も裾もボロボロに擦り切れ、幾度も継ぎ接ぎされたそれは、服というよりはただの布切れに近かった。これが今の私の姿。
ファジリス魔法学園へ向かう通学路。
華やかな装備に身を包み、談笑しながら歩く生徒たちの波に逆らうように、私は道の端を、影に溶け込むようにして歩く。
けれど、私の存在は異臭を放つゴミのように目立ってしまう。すれ違う生徒たちが、露骨に顔をしかめ、ヒソヒソと囁き合う声が鼓膜を打つ。
「うわ、また『死神』だよ。朝から縁起悪いなぁ」
「見ちゃダメよ。目が合うと呪われるって噂よ」
「きったねぇ。あんなのが同じ学校とかマジ勘弁してほしいわ。近寄るだけで腐臭が移りそう」
投げつけられるのは、容赦のない侮蔑と嘲笑。
ボロボロの黒いローブを引きずり、フードと長い前髪で顔を隠して俯いて歩くその姿から、私につけられたあだ名は『死神』。この世界で最も忌み嫌われる存在の名だった。
教室に入っても、私の席の周りだけ半径二メートルほどの空白ができている。
机の上には、誰が書いたのか「汚物」「消えろ」「息をするな」という落書きが、刃物で刻んだように深く彫り込まれていた。
何も見なかったことにして、その文字の上に教科書を広げる。
授業が始まっても、ただ座っているだけだ。入学して一年が経つのに、いまだに魔力の欠片すら感じられず、初級魔法の一つも習得できていなかった。同期たちが既に炎や氷を自在に操る中、私はただの無能な「欠陥品」として、そこに存在していた。
学校が終われば、睡眠時間を削って生活費を稼ぐための「採取クエスト」へ向かう。
泥だらけの湿地帯を這いずり回り、棘のある植物に手を切り裂かれながら、わずかな薬草や木の実を拾い集めた。爪の間には泥が詰まる。川で洗って落ちるほど簡単に落ちるものではない。
そうして一日中働いて得られる報酬は、パン数個分にも満たないスズメの涙。その僅かな金も、高額な学費と家賃に消え、手元には空腹だけが残る。
「……セルジオくん」
ふと、あの人の名前を呟く。
約束した彼は、どこにいるのだろう。
この一年、ギルドの掲示板や広場で彼を探し回った。けれど、顔も知らない彼を見つけることは不可能に近かった。
でももし奇跡的に会えたとして、今の私を見て、彼はどう思うだろうか。こんな、薄汚れた死神のような女を、あの日の「レイ」だと認めてくれるだろうか。そう考えるだけで、胸が締め付けられ、息ができなくなる。
夕暮れ時。泥と汗にまみれた体でギルドへ戻った私は、掲示板の前に立ち尽くしていた。ポケットの中には、学校から突きつけられた『退学勧告』の書類がくしゃくしゃになって入っている。
もう、限界だった。
学費は払えない。魔法も覚えられない。いじめにも、ひもじさにも、孤独にも、もう耐えられない。この広い世界にも私の居場所なんてどこにもなかった。
「おい死神、邪魔だぞ。そこは冒険者が立つ場所だ」
背後からドンと突き飛ばされ、私は無様に石畳の床に転がった。
見上げてみれば、立派な革鎧を身につけた同期の男子生徒たちが、私を見下ろして嘲笑っている。彼らの目には、私を人間として見ている色は微塵もなかった。
「採取クエストか? お似合いだな、一生泥水すすってゴミ拾いでもしてろよ」
「その姿、マジでモンスターみたいだぜ。間違って討伐されないようにな」
高笑いを残して去っていく彼らの背中を、私はただ、泥にまみれたまま見送ることしかできなかった。
悔しさすら、もう湧いてこない。ただ、心が冷たく、硬く凍りついていくだけ。
痛む体を引きずり、立ち上がる。
その時、ふと掲示板の隅に貼られた一枚の古い依頼書が目に入った。赤い紙に、黒い文字でこう書かれている。
『求む、廃坑のアンデッド掃討』
それは、魔法も使えず、まともな武器も持っていない私が挑めば、十中八九生きては帰れない危険な討伐クエスト。
これは冒険ではない。緩やかな自殺だ。
「でも、それでいいじゃない」
ふと、そんな囁きが聞こえた気がした。
変われないのなら。この地獄のような毎日から抜け出せないのなら、いっそ終わらせてしまえばいい。モンスターに食い殺されれば、この惨めな生にも終止符が打てる。
私は泥だらけの震える指先で、その依頼書を引き剥がした。
これが、私の最初で最後の冒険になる。
そんな暗い予感を抱きながら、私は死刑台へ向かう囚人のような足取りで、受付へと歩き出した。




