表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/12

第3話:灰色の死神

 オリンパス。それは現実世界とゲームの世界が融合した人類が作り上げた「もう一つの理想郷」。

 ここでは誰もが魔法の才に目覚め、武器を取り、冒険者として輝かしい物語を紡ぐことができる――、はずだった。

 ジリリリリリ……!

 耳をつんざくような目覚まし時計のベル音が、私を泥のような眠りから無理やり引き剥がす。

 重い瞼を開け、視界に飛び込んできたのは、蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされたカビ臭い天井だった。壁紙は湿気で剥がれ落ち、ヒビの入った窓ガラスの隙間からは、冷たい隙間風が容赦なく吹き込んでくる。

 ここはアインクランの街の最下層地区。理想郷の光が届かない、吹き溜まりのようなボロアパートの一室が私の世界の全てだった。

「……朝か」

 乾いた喉から砂を噛むような声が出る。

 軋むベッドから這い出し、洗面台の割れた鏡の前に立つ。

 そこに映し出されているのは、生きている人間とは思えない幽霊のような少女の姿だ。

 目の下には病的なほど濃いクマが張り付いている。

 何より酷いのは髪だ。手入れする余裕もなく伸び放題になった色素の薄い髪は、脂と埃でゴワゴワになり、いくつもの束になって顔を覆い隠している。その伸び切った髪の奥から覗く瞳は、腐った沼のように濁り、生気というものが一切感じられない。

 私は黒澤怜くろさわ・れい。このオリンパスに来て、もう一年が経とうとしている。

 痩せ細った体に、支給品の最低ランクのローブを纏う。サイズが合っておらず、袖口も裾もボロボロに擦り切れ、幾度も継ぎ接ぎされたそれは、服というよりはただの布切れに近かった。これが今の私の姿。

 ファジリス魔法学園へ向かう通学路。

 華やかな装備に身を包み、談笑しながら歩く生徒たちの波に逆らうように、私は道の端を、影に溶け込むようにして歩く。

 けれど、私の存在は異臭を放つゴミのように目立ってしまう。すれ違う生徒たちが、露骨に顔をしかめ、ヒソヒソと囁き合う声が鼓膜を打つ。

「うわ、また『死神』だよ。朝から縁起悪いなぁ」

「見ちゃダメよ。目が合うと呪われるって噂よ」

「きったねぇ。あんなのが同じ学校とかマジ勘弁してほしいわ。近寄るだけで腐臭が移りそう」

 投げつけられるのは、容赦のない侮蔑と嘲笑。

 ボロボロの黒いローブを引きずり、フードと長い前髪で顔を隠して俯いて歩くその姿から、私につけられたあだ名は『死神』。この世界で最も忌み嫌われる存在の名だった。

 教室に入っても、私の席の周りだけ半径二メートルほどの空白ができている。

 机の上には、誰が書いたのか「汚物」「消えろ」「息をするな」という落書きが、刃物で刻んだように深く彫り込まれていた。

 何も見なかったことにして、その文字の上に教科書を広げる。

 授業が始まっても、ただ座っているだけだ。入学して一年が経つのに、いまだに魔力の欠片すら感じられず、初級魔法の一つも習得できていなかった。同期たちが既に炎や氷を自在に操る中、私はただの無能な「欠陥品」として、そこに存在していた。

 学校が終われば、睡眠時間を削って生活費を稼ぐための「採取クエスト」へ向かう。

 泥だらけの湿地帯を這いずり回り、棘のある植物に手を切り裂かれながら、わずかな薬草や木の実を拾い集めた。爪の間には泥が詰まる。川で洗って落ちるほど簡単に落ちるものではない。

 そうして一日中働いて得られる報酬は、パン数個分にも満たないスズメの涙。その僅かな金も、高額な学費と家賃に消え、手元には空腹だけが残る。

「……セルジオくん」

 ふと、あの人の名前を呟く。

 約束した彼は、どこにいるのだろう。

 この一年、ギルドの掲示板や広場で彼を探し回った。けれど、顔も知らない彼を見つけることは不可能に近かった。

 でももし奇跡的に会えたとして、今の私を見て、彼はどう思うだろうか。こんな、薄汚れた死神のような女を、あの日の「レイ」だと認めてくれるだろうか。そう考えるだけで、胸が締め付けられ、息ができなくなる。

 夕暮れ時。泥と汗にまみれた体でギルドへ戻った私は、掲示板の前に立ち尽くしていた。ポケットの中には、学校から突きつけられた『退学勧告』の書類がくしゃくしゃになって入っている。

 もう、限界だった。

 学費は払えない。魔法も覚えられない。いじめにも、ひもじさにも、孤独にも、もう耐えられない。この広い世界にも私の居場所なんてどこにもなかった。

「おい死神、邪魔だぞ。そこは冒険者が立つ場所だ」

 背後からドンと突き飛ばされ、私は無様に石畳の床に転がった。

 見上げてみれば、立派な革鎧を身につけた同期の男子生徒たちが、私を見下ろして嘲笑っている。彼らの目には、私を人間として見ている色は微塵もなかった。

「採取クエストか? お似合いだな、一生泥水すすってゴミ拾いでもしてろよ」

「その姿、マジでモンスターみたいだぜ。間違って討伐されないようにな」

 高笑いを残して去っていく彼らの背中を、私はただ、泥にまみれたまま見送ることしかできなかった。

 悔しさすら、もう湧いてこない。ただ、心が冷たく、硬く凍りついていくだけ。

 痛む体を引きずり、立ち上がる。

 その時、ふと掲示板の隅に貼られた一枚の古い依頼書が目に入った。赤い紙に、黒い文字でこう書かれている。

『求む、廃坑のアンデッド掃討』

 それは、魔法も使えず、まともな武器も持っていない私が挑めば、十中八九生きては帰れない危険な討伐クエスト。

 これは冒険ではない。緩やかな自殺だ。

「でも、それでいいじゃない」

 ふと、そんな囁きが聞こえた気がした。

 変われないのなら。この地獄のような毎日から抜け出せないのなら、いっそ終わらせてしまえばいい。モンスターに食い殺されれば、この惨めな生にも終止符が打てる。

 私は泥だらけの震える指先で、その依頼書を引き剥がした。

 これが、私の最初で最後の冒険になる。

 そんな暗い予感を抱きながら、私は死刑台へ向かう囚人のような足取りで、受付へと歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ