第2話:弱さが罪に変わる日
僕、白濱拓哉が、「セルジオ」としてこの世界、「オリンパス」で目を覚ましたのは、それは今から四十五年も昔の話だ。
期待していた「理想の世界」はどこにもなく、そこにあったのは、未整備で荒れ果てた大地と、暴力が支配する無法地帯。右も左もわからず、所持金もなく、ただ途方に暮れるしかなかった。
イベリアの街外れにある、人通りの少ない公園。そこが僕の初期スポーン地点だった。その公園のベンチに膝を抱えて座り込み、沈みゆく夕日を眺めていた。
もうそれが誰であったか四五年を過ぎた僕には覚えていない。けれど僕は確かに「誰か」を待ち続けていた。
いつ来るのか、いつまで待てばいいのか。この世界へ一緒に来ようと約束した友人を待っていたが、どれだけ待っても結局現れなかった。
モデルエックスの通信は圏外。おまけに転送機能は不具合なのか使えなくなってしまっていた。画面に映るのは現在の時刻だけ。
空腹と孤独。そして、ここが自分の知る世界ではないという圧倒的な不安。僕はただの腕時計となり下がったモデルエックスを握りしめることしかできなかった。
「よお、少年。こんなところで何やってんだ?」
不意に声をかけられ、僕は肩を震わせた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、黒いコートを羽織り、短い髪をオールバックにした中年男だった。目には黒いサングラスをかけ、強面な雰囲気を漂わせている。
男は返事を待たずに、ドカッと隣に腰を下ろした。そして、胸ポケットから煙草を取り出し、慣れた手つきで火をつける。紫煙が夕焼け空へと昇っていく。
「……」
関わりたくない。
僕は少し距離を取るように、ベンチの端へと体を寄せた。けれどその男は気にする様子もなく、サングラス越しに僕の腕をじろりと見た。
「お前、その腕時計。リアルの世界から来た人間だな」
「え……」
「この世界に来たばかりか? 顔見ればわかる。これからどうしていいか迷ってるって顔に書いてあるしな」
図星だった。
男は煙を吐き出しながら、ニカッと笑った。サングラスを少しずらして見せたその目は、見た目に似合わず、ひどく理知的で、そして温かかった。
「俺はキリジマ。近くの町で『スリーピース』ってサークルをまとめてる者だ。腹、減ってんだろ?」
「……」
「警戒すんなって。迷子のガキを放っておくほど、落ちぶれちゃいねえよ。来な、美味い飯食わせてやる」
差し出されたその手は、大きく、分厚く、そして温かかった。その温もりに触れた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れ、僕は不覚にも涙をこぼしてしまった。
「……セルジオです。仲間を待っていたんですけどずっと来なくって……」
彼に僕が長年愛用している思い入れのあるハンドルネームを伝えながら、今まで閉じ込めていた胸の中の切ない思いを明かしていた。
「そうか。だが、これからいくところはそんなことを忘れさせてくれるような、いい奴ばかりだぞ」
肩を抱え込むその腕の中はとても暖かく、レザーのコートからほのかに香るニコチンの匂いは、彼の人格を形容しているかのようだった。
それから、僕は彼がまとめてるサークルが借入れてる寮で暮らすようになった。それだけではない。彼は身元の知れない僕を家族のように受け入れ、生きるための術も教えてくれた。
あの夜も、そうだった。
拠点である町の酒場。賑やかな喧騒の中、キリジマは僕の隣に座り、またあの時のように背中をバンと叩いた。
「お前にこれをやらなくちゃいけないな」
そう言って彼が手渡してきたのは、鳥の翼を模した銀色のペンダント。それは「スリーピース」の正規メンバーだけが持つ絆の証だった。
「在庫不足で遅くなっちまった。今日からお前も正式なメンバーだ。頼りにしてるぞ、セルジオ」
「……ありがとうございます、大切にします」
ペンダントを握りしめた掌に、銀の冷たさと、彼の体温が伝わる。
嬉しかった。
この世界に来てよかった。初めてそう思えた。
キリジマと、その仲間たちと。この町でなら、僕は新しい人生をやり直せる。ここは温かくて優しい世界だった。このまま暖かく穏やかな日常が過ごせると本気で信じていた。
――あんな化け物が現れるまでは。
異変は、唐突に訪れた。
酒場の窓ガラスが、何の前触れもなく一斉に砕け散ったのだ。
「な、なんだ!?」
誰かが叫ぶより早く、爆音が鼓膜を突き破った。地面が跳ね上がるような激しい揺れ。酒場の天井が崩れ落ち、悲鳴と怒号が交錯する。
外へ飛び出した僕たちの目に飛び込んできたのは、地獄絵図だった。
燃えている。
小さな町が、激しい炎の中に燃えていた。
そして、その紅蓮の炎の中にそいつは立っていた。
「……なんだ、あれは」
誰かの震える声が漏れる。
それは、巨大な影だった。人型をしているが、その大きさは建物を優に超えている。全身は漆黒の霧のようなもので覆われ、その中心には、血のように赤い一つ目が不気味に輝いていた。
『アンノン』
後にそう名付けられる、この世界の破壊者。絶望の具現者。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛……!!」
アンノンが咆哮を上げる。ただの咆哮ではない。空間そのものを歪ませる衝撃波となって、町を襲った。
目の前で、石造りの頑丈な建物が、まるで砂細工のように崩れ去る。逃げ惑う人々が、瓦礫の下敷きになり、炎に巻かれていく。
圧倒的な暴力。理不尽な破壊。それはモンスターとの戦闘などという生温かいものではなく、災害そのものだった。
「セルジオ! 逃げろッ!!」
呆然と立ち尽くす僕の肩を、キリジマが掴んだ。いつもなら頼れる彼の顔にも焦燥の色が見える。けれど、その瞳だけは強い光を宿していた。
「あいつは俺たちが食い止める! お前は住民を連れて避難しろ!」
「で、でも!」
「いいから行けッ! これは命令だ!!」
キリジマは僕だけを路地裏へと突き飛ばし、仲間と共に炎の中へ、あの巨大な絶望へと向かっていった。
僕は走った。
涙を拭い、瓦礫を越え、必死に走った。
けれど、背後で響く轟音と、断末魔のような悲鳴が、僕の足を止めさせ、振り返ってしまった。
見てしまった。
アンノンの巨大な腕を。仲間が目の前で薙ぎ払われる瞬間を。
スリーピースの精鋭たちが展開した魔法障壁が、紙切れのように容易く破られ、彼らの体が無残に宙を舞うのを。
「キリジマさん!」
瓦礫の山の上に、血まみれで立つキリジマの姿があった。彼は片腕を失いながらも、大剣を構え、アンノンに立ち向かおうとしていた。
……僕の祈りは届かない。
アンノンの赤い瞳が、キリジマを捉えた次の瞬間、黒い霧が槍のように鋭く変形し、音速で射出された。
――ドォォン!!
爆発音。
土煙が晴れた後、そこにキリジマの姿はなく、ただ、彼の愛用していた大剣の破片だけが、地面に突き刺さった。
「あ……ぁ……」
嘘だ。
あんなに強かった人が。あんなに優しかった人が、一瞬で跡形もなく。
力が抜け、その場に膝から崩れ落ちたその時だった。アンノンの赤い瞳が、ギョロリと動き、路地裏にいる僕を見つけた。
距離は数百メートル。けれど、目が合った瞬間、死を確信した。
黒い霧が、触手のように伸びてくる。
逃げられない。速い。
反射的に身を庇ったが、そんなものは何の意味もなかった。
――ズリュッ!
熱い衝撃が、腹部を貫いた。
見下ろすと、黒い棘のようなものが僕の腹を深々と貫通していた。その痛みは遅れてやってきた。内臓をかき回されるような、耐え難い激痛。
「ガハッ……!」
口から大量の血が溢れる。
棘が引き抜かれると同時に、吹き飛ばされ、瓦礫の山に叩きつけられた。
腹から流れ出る熱い液体。急速に冷えていく指先。視界が赤く染まり、意識が遠のいていく。
ああ、これだ。これが僕の書いたような悲劇の物語だ。
希望なんてない。救いなんてない。幸せになりかけた瞬間に、全てを奪い去る。その絶望はまるで僕が紡いだ『水底の星空』の世界と通ずるものがあった。
キリジマも、仲間たちも、この町も。掴んだと思っていた幸せはまるで水面に映った幻(星)となっていく。
瓦礫の隙間から、燃え盛る町が見える。
泣き叫ぶ声も、やがて途絶えた。
残ったのは、炎が爆ぜる音と、アンノンの不気味な咆哮だけ。
もう、指一本動かせない。
死ぬ。そう悟った時には意識が消えかけていた。
薄れゆく意識の最果てで、ふと、誰かが僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「……セルジオくん!」
瓦礫をかき分ける音。僕の冷え切った頬に触れる温かい手の感触。うっすらと開いた視界の端に、少女の姿が映った。
ーーセーニャ。
キリジマさんが可愛がっていたその少女は涙で顔をぐしゃぐしゃになりながら、僕の体の上に手をかざしていた。
「お願い……死なないで……! 私が、助けるから……!」
彼女の手から溢れ出す眩い白光。温かい光が砕かれた僕の内臓を、止まりかけた心臓を、無理やり繋ぎ止めていく。
四五年前のあの日。
僕は一度死んだ。
そして彼女の涙と魔法によって生まれ変わり、地獄のようなこの世界で、死に損ないとして生き続ける運命を背負わされた。




