第1話:水底の約束
いつものようにパソコンのモニターから漏れる青白い光だけが、私の薄暗い部屋を照らしている。
画面の中に広がるのは、作り込まれた剣と魔法のファンタジー世界。
かつては無数のプレイヤーでごった返していた王都の大広場も、今では墓場のように静まり返っていた。行き交うアバターは数えるほどしかなく、チャットログを埋め尽くしていた賑やかな会話のメッセージも、今は無機質なシステムメッセージが流れるだけだ。
このゲームは俗に言う「オワコン」とすら呼ばれなくなり、先日運営から正式にサービス終了の告知が出されたばかりだった。
終わる世界。消えゆく場所。
そこは私にとっては現実世界のどこよりも居心地の良い場所だった。活気が消え、私と彼だけが残される時間に始まる私たちの時間。
「セルジオくん。おやすみ前に一狩りいかが?」
ヘッドセットのマイクに向かって問いかける。
所属するギルドのオンラインメンバーが、私と彼、二人だけになった時、決まって私が投げかける誘い文句だ。
私のハンドルネームは「レイ」。
画面の中、黒塗りの仮面に漆黒のコートを纏った彼のアバターの隣に、フリフリのドレスを着た私の分身が並ぶ。
彼とは、かれこれ六年の付き合いになる。
彼は私のプレイスタイルを熟知している。どんな武器を好み、どう立ち回るのか。私の口調、笑うタイミング、好きなもの。彼が私を多くを知ってくれているという事実が、私を何よりも安心させたし、私も彼以上に多くのことを知っていた。
けれど、現実の私については何一つ教えていない。
顔も、本名も、年齢も、住んでいる場所さえも。
教えられるはずがなかった。学校にも行けず、薄暗い部屋で膝を抱えているだけの「私」なんて、見せるわけにはいかないから。
私たちは互いに、この心地よい距離感を保ったまま、画面越しのかけがえのない友人として六年という長い月日を過ごしてきたのだ。
「……いいね、行こうか」
スピーカーから彼の短い返答が聞こえる。
彼はきっと、もうこのゲームに飽きている。それでも毎晩ログインしてくれるのは、彼が優しいからだ。寂しがり屋で、一人では何もできない私を見捨てられないからだ。そんな優しさに甘え、依存している自分に嫌気が差しながらも、私は彼を繋ぎ止めるための時間を求めてしまう。
手慣れた操作でクエストを受注し、フィールドへ出る。
モンスターを狩りながら、意を決して話題を変えた。操作する指を止めずに、彼に問いかける。
「ねえ。あなたの昨日更新されたあのネット小説を読んだの」
「……一昨日、投稿したやつだよね」
「うん。とってもよかったよ。でも残念な結末に、しんみりしちゃったの」
私が言っているのは、彼がある小説投稿サイトで連載し、ようやく完結させたばかりの長編小説のことだ。
タイトルは『水底の星空』。
暗い湖の水面に映る星にどんなに手を伸ばしても、そこにあるのは冷たい水だけで、星なんてどこにもない。
偽物の光に恋をして、最後は冷たい底で泥に塗れて死んでいく……救いのないデッドエンド。
でも私は、その冷たい透明な絶望が、どうしようもなく好きだった
個人の努力だけではどうにもならない理不尽さ。それに打ちのめされ、無気力になっていくアリシアの姿は、まるで現実世界の私そのものだったからだ。彼が描く「痛み」だけが、私にとっての真実だった。
「ごめんね、ハッピーエンドで終われなくて。でも本当はもっと素敵な物語にしたかったんだ。もっと素敵な『理想の物語』を」
スピーカー越しに、彼が自嘲気味に呟く。
「ううん。セルジオくんのことだから、きっとまた素敵な物語を作ってくれるよね」
私は努めて明るく振る舞った。
本当は知っている。あの小説には描かれなかった「理想の物語」があることを。
「私、楽しみにしてるから」
「……そうだね、作れる時に」
彼は言葉を濁し、クエスト終了のファンファーレが鳴り響く。
そろそろログアウトの時間だ。このまま彼との繋がりが切れてしまったら、私はまた、色のない世界で一人ぼっちになってしまう。
私は用意していたURLをチャットログに貼り付けた。
「良ければ一緒に新しいゲームを始めませんか」
私からの精一杯の誘いだ。
貼り付けたリンク先は、黒い背景に銀色の文字が浮かぶページ。
話題の次世代デバイス「Model X」と、それが繋ぐもう一つの世界「プロジェクト・オリンパス」の公式サイト。
フルダイブ型のVR技術を遥かに超えた、肉体をそのままに異世界へ転送する、夢の技術。キャッチコピーは『もう一つの現実へ』。
それは、ゲームという枠組みを超えた、文字通りの「新世界」への招待状だ。
「これはすごいな。噂には聞いていたけど」
彼が思わず声を漏らすと、私は祈るような気持ちで声を弾ませた。
「一緒にやろ! オリンパスで会いたい!」
ヘッドセット越しに届ける私の声は、いつになく興奮していたと思う。
「やり直したい」
それは、私の魂からの叫びだった。
ここではないどこかへ。失敗ばかりの現実を捨てて、全く新しい世界で。そこが剣と魔法のファンタジーの世界ならきっと。
彼が描いたアリシアのように悲劇に沈むことなく、私たちで彼の理想の物語を紡いでいきたい。
「ねえ。あっちでも私の隣にいてくれる?」
その問いにセルジオは迷いなく答えた。
「約束するよ。僕も隣は君と一緒がいいからさ」
「ふふ。じゃあ約束。その言葉、私絶対忘れないから」
広い世界で、ランダムに降り立つとも知らずに。お互いの顔も知らないまま、そんな約束を交わした。
でもそれでも信じていた。だって私たちは切っても切り離せない、そんな見えない糸で繋がっていると確信していたから。
根拠なんてない。けれど、その時の私には、その「約束」こそが生きるための唯一の希望だった。
数日後。
手元には、真新しい黒い箱が届いていた。
中に入っていたのは、「Model X」。一見するとただの黒と白のツートンカラーのスマートウォッチ。だがその内部には未知のテクノロジーが詰め込まれている。これは単なるスマートウォッチではない。次元の壁に干渉し、肉体ごと別世界へと転送する超小型ワープデバイスだ。
私はそれを左腕に巻き、手首の感触を確かめた。冷たい金属の質感が、ここから先は後戻りできないことを告げているようだった。
部屋の照明を落とし、散らかった六畳一間の部屋の中央に立った。窓の外には、見慣れた灰色の街並みが広がっている。この惨めな景色とも、これでお別れだ。未練な気持ちなどこれっぽっちもない。
電源を入れ、セットアップを済ませると手元のデバイスが振動する。通知が届いた。
彼からだ。『先に行って待っている』という三十分前に届けられていた短いメッセージ。彼もその時、日本のどこかで、同じように暗闇の中でこの光を見つめていたのだろうか。どんな顔をしていたのだろう。どんな部屋にいたのだろう。向こうの世界で会えたら、一番に聞いてみたい。
私もデバイスの側面にある物理ボタンに指をかけた。心臓の鼓動が早くなる。恐怖はない。あるのは、彼と同じ世界に行けるという歓喜だけ。
――行こう、セルジオくん。私たちの新しい世界へ。
低く唸るような駆動音と共に、モデルエックスから青白い光が放たれる。その光は部屋の闇を切り裂き、渦を巻きながら収束していく。目の前の空間が歪み、抉じ開けられるようにして、人が一人通れるほどの楕円形のゲートが形成されていく。
ゲートの向こう側に見えるのは、吸い込まれそうな白銀の光。まばゆい輝きが、私の影を部屋の壁に長く伸ばした。
その光へ向かって、ゆっくりと足を踏み出す。
重力が消失する感覚。意識が溶け出す浮遊感。
視界の全てが白に染まるその瞬間も確かに信じていた。
この光の先には彼がいる。新しい世界で、二人で、私たちの新しい『理想の物語』を始めるんだ、と。
それが長いすれ違いの始まりだとも知らずに。二人の運命が、絶望的な時間によって引き裂かれていることなど、知る由もなく。
私は光の中へと、その身を投じた。




