第17話:書き換えられたヒロイン
静まり返った事務室に、窓を叩く雨音だけが戻ってくる。
私は、机の上に残された一粒の飴玉を、そっと指先で拾い上げた。
それは、照明の明かりを吸い込んで妖しくまたたく、幻想的な赤い色をしていた。
指先で転がしながら光に透かすと、まるで小さな炎の結晶を掲げているかのような錯覚に陥る。
(普通の人なら、これを見て、炎のイメージを膨らませるのだろうか)
胸の奥から、苦い記憶がせり上がってくる。
かつて通っていた、魔法学校、ファジリス学園。
私の席の周りだけがぽっかりと空白になっていた、あの灰色の教室。
同期たちが指先から自在に炎を操り、誇らしげに笑っていた光景が、今も鮮明に脳裏をよぎる。あの頃から私は、ただ指をくわえて彼らを見上げるだけの、魔力の欠片も感じられない「欠陥品」だった。
飴玉を、そっと口に含む。じんわりとした、ひどく濃密な甘さが舌の上に広がっていった。
(……とても甘い)
飴の甘さと一緒に、さっきまでの出来事が頭の中で繰り返される。
顔も知らなかった彼とこの世界で出会ってから、彼が私の目を真っ直ぐに見てくれたことなんて、今まで一度もなかった。彼がいつだって見ていたのは、私ではなく、私を通して見ている別の何かだった。
けれど、さっき、飴を受け取ったあのほんの一瞬だけ。セルジオさんは確かに「私」を真っ直ぐに見てくれていた。その事実があまりにも愛おしくて、凍えていた胸の奥に、ささやかな、けれど確かな温もりがじんわりと広がっていく。
――彼がくれた温もりがある今なら、もしかしたら。
そんな淡い期待を抱きながら、私はまぶたを閉じた。手元で小さな火を灯すイメージを静かに膨らませてみる。毎日祈るように繰り返してきた、ただそれだけの動作。
けれど――、指先はただ冷たく、小さな煙すら立ち上らない。内側は不気味なほどに空っぽのままだ。
『――怪我の治療ついでにあなたを調べさせてもらいましたが』
あの病室で、セルジオさんが私に告げた冷徹な宣告が、鼓膜の奥でリフレインする。
『あなたの魔力はなんらかの力ですぐに消失していています。本当は溜まっていくんですけど。才能とか努力以前の問題。君には冒険者の適性がないんです』
そう、分かっている。
彼がくれたこの飴玉のような、鮮やかで、温かい奇跡は、私の内側では起きないのだ。
……でもこのまま何もできないままでいたら?
甘さが喉の奥へ消えていくにつれ、冷たい焦燥感が心臓を締め付けていく。
能力もない、適性もない。そんな私が、いつまでこうして彼の視界の端に置いてもらえるだろうか。いつかまた、あの凍てつくような蔑みの目で、私を見るのではないか。その時はきっと彼の視界に私は映らない。
そんなのは耐えられない。
数日後。雨上がりの湿った空気が漂う更衣室で、私は一人、掃除を任されていた。
隊員たちが不在の部屋を黙々と掃き進めていると、ふと、あるロッカーの前で手が止まった。
『セルジオ』
その四文字が書かれるロッカーの扉が、なぜか少しだけ開いていた。
几帳面な彼が、鍵をかけ忘れるなんて珍しい。
躊躇いながらも、その隙間から中を覗き込んだ。
心臓が跳ねる。けれど視線は吸い寄せられるように、その暗い隙間へと向けられた。
予備の制服や手入れされた装備の奥に、一冊の手帳が静かに収まっているのが見えた。
気づいたときには、伸ばした指先がそれを掴んでいた。
「……これ、」
手に取って最初に感じたのは、奇妙な違和感だった。
革張りの表紙は端が擦り切れ、羊皮紙のようなページは重く黄ばんでいる。まるで数十年も過酷な環境で使い古されたかのような年季が入っていた。
まだそれほど経っていないはずだというのに、こんなに年季が入るほど使い込むものなのだろうか。
不思議に思いながら、パラパラとページを開く。
そこには、整った筆跡で無数の言葉が綴られていた。
『汚れなき雪が、静謐なる大地を覆うように』
『水底の星空に沈む少女、ただその幻影を愛す』
(本当に、ポエムなんて書いていたんだ)
以前、カナエさんがタブレットで読み上げていた時は半信半疑だったけれど、こうして実物を目の当たりにすると、言いようのない驚きがこみ上げてきた。
そこに書き連ねられているのは、彼が描いている「アリシアの女性像」そのもののようだった。
最初の数ページには、彼が小説で書いていたヒロイン――、私の知る、静かで、高潔な黒髪の「本来のアリシア」が綴られていた。
――けれど。
ページを捲る指が、途中でぴたりと止まる。書き足されていく文字を追いかけるうちに、首を傾げずにはいられなかった。
『太陽の光をその身に宿した彼女は、暗闇に沈む時間を黄金色に染め上げていく』
『弾けるようなその笑顔と、波打つ金の髪。僕の絶望を照らし出し、温かく包み込んでくれる光』
『どれほど世界が冷たく壊れようとも、どうか永遠に僕の傍で明るく微笑んでいてほしい』
……おかしい。
私が知っている小説の中のアリシアは、星空に溶けるような物静かな黒髪の少女だったはずだ。
太陽のように何かを照らすようなキャラクターではなかったはずだ。
ページが進むにつれて、手帳のアリシアは少しずつ別の何かに変化していっている。夜の月のように静かな「黒髪の少女」から、暗闇を照らし出す「金髪の女性」へ。
まるで、彼が実際にそういう女性に救われ、恋焦がれ、その記憶を『アリシア』という名前で上書きしているかのように。
彼の中で何があったのか。
手帳から伝わってくる重すぎる感情に、私はじっと文字を見つめたまま、動けなくなっていた。
――バタン、と。
不意に、廊下の奥の扉が開く音と、硬い靴音が聞こえてきた。
足音は迷いなく、この更衣室へと近づいてくる。
「……!」
私は慌てて手帳を元の隙間に押し込んだ。ロッカーの扉を静かに閉める。
直後、重い扉が開いた。
入ってきたのはセルジオさん。
どこか急ぎ足だった彼は、部屋の隅でほうきを握りしめている私に気づき、一瞬だけ足を止めた。
「……掃除、ご苦労様」
「いえ……」
低く穏やかな声。彼はそれ以上追及することもなく、真っ直ぐに自分のロッカーへと歩み寄る。
そして、ロッカーの鍵がかかっていないこと、扉がわずかに開いたままになっていることに気づき、ピタリとその動きを止めた。
彼の背中が、微かに強張るのが分かった。
見られたのではないか?
そんなヒリヒリとした焦燥感が、硬直した肩のラインから痛いほど伝わってくる。
けれど、私は取り繕うことはしなかった。何かを見てしまったような動揺を隠すわけでもなく、かといって、あえて表情を作るわけでもなく。
ただ、手に持っていた掃除用具を軽く持ち直し、淡々と告げた。
「掃除が終わりましたので、失礼します」
彼がこちらを振り返るよりも早く、静かに頭を下げその場を後にした。
廊下の冷たい空気を吸い込みながら、そっと自分の胸に手を当てた。
少しだけ早い胸の鼓動が手のひらに伝わってくる。
あの、不自然なほどボロボロに使い込まれた手帳と、彼が描いていたアリシアの姿。
一年前のあの日から、私とともにこの世界に来たはずなのに。私の知らない、ひどく重たくて古い何かが、あの手帳には生々しく刻まれていた。
セルジオさん……、あなたは、誰を想ってあれを書いていたの?
私が演じようとしていた『本来のアリシア』は、とっくに彼の中にはいないのかもしれない。
そんなモヤモヤとしたものが、私の胸の奥にじわりと広がっていくのを感じていた。




