第18話:縫い付けた面影
温かな陽だまりの匂いがした。
緑豊かな木々を抜ける風が、心地よく頬を撫でていく。
ファイナス村。かつて僕がこの世界で唯一安らぎを覚えた場所。
「セルジオくん、身体、まだ痛むの?」
隣を歩く彼女が、透き通るような青い瞳で僕を覗き込んだ。
風に揺れる、緩やかに波打つ金の髪。装飾のない純白のドレスを着たセーニャは、心配そうに僕の顔を見つめていた。
「……怪我はもう平気だよ。ただ……」
「キリジマたちのこと、思い出してたんでしょ」
彼女の静かな声に無言で俯いた。
突如現れたアンノン。その化け物の理不尽な暴力によって、僕を拾ってくれたキリジマと、彼がまとめていた『スリーピース』の仲間たちの命は奪われ、僕自身も腹を貫かれて死の淵を彷徨った。
大切な人を失い、絶望に沈んでいた僕を繋ぎ止めてくれたのがセーニャだった。
「君がいなかったら、僕もあそこで死んでいた。……大切な人を失って、独りぼっちになった僕には君しかいないんだよ」
「……」
僕の言葉に、セーニャの瞳がほんのわずか揺れた。 彼女にとっても、スリーピースの仲間たちはきっと大切な存在だったはずだ。去っていった彼らを想うように視線を落とし、悲痛な想いを噛み殺す小さな横顔。
けれど、その暗雲は一瞬で消え去った。
「……何言ってるの!」
セーニャはぱっと弾けたような笑顔を僕に向けて、僕の手を握りしめてくれた。その手はとても温かかった。
「大丈夫。私はずっとセルジオくんの傍にいるから。だからそんな悲しい顔禁止! 笑って!」
ひまわりが咲き誇るような、底抜けに明るい微笑み。
悲しみを抱えながらも自分を照らそうとしてくれるその温もりに触れた瞬間、胸の奥を満たしていく温かな熱。
――そうだ。 僕はこの人に恋をしていたんだ。
ずっと言葉にできず、逃げ続けていた想いを、今度こそ伝えなければいけない。今すぐに。
「セーニャ、僕、君のことが……」
『好きだ』。その言葉が舌の上に乗った、その瞬間。
パチンと、ガラスが砕け散るような音と共に、暖かな日差しも、セーニャの微笑みも、村の景色も、すべてが黒い泥のように溶け落ちていった。
「……っ、はっ!」
跳ね起きると同時に、肺に冷たい空気が流れ込んできた。荒い呼吸を繰り返しながら、視界の焦点を合わせる。
そこにあるのは、豊かな自然でも、彼女の優しい笑顔でもない。無機質で、冷え切った自室の壁だった。
「……夢か」
額に滲んだ汗を手で拭い、自嘲気味な笑いを漏らす。あんなに鮮明だった彼女の手の感触も、今はもうどこにもない。
キリジマたちを奪ったアンノンは、二度目の襲来で、心から愛した人までも奪い去っていった。ずっと傍にいると約束してくれた彼女は、もうこの世界のどこにもいない。
大切な仲間を失い、本気で愛した人も失った。その喪失感は、僕の精神を破壊するのに十分すぎるほどの絶望だった。
これ以上、大切なものを失いたくない。これ以上、誰かと心を通わせて、引き裂かれる痛みを味わいたくない。
だからこの思いを二度と味合わないためにやっとの思いで蘇生魔法を習得したのに、掴み取ったこの奇跡の魔法も万能ではなかった。
死人をよみがえらせることもできないし、身体の腐敗が進行し始めていたり、脳や心臓といった重要な部位の欠損があれば、修復ができなくなってしまう。
人はみんな死んでいく。それは僕も例外ではない。けれど、周りは僕を置いて次々に死んでいく。
僕だけがまるで止まった時間の檻に閉じ込められたようだった。
最初から傷つくなら、最初から関係を作らなければ良い。それを学んだのはこの世界に来て間もない頃の話、大切な人たちを失った時にすでに知っていたはずなのに。
だから僕は、自分の心を深い奥に閉じ込めた。誰とも深く関わらない。そう生きてきた。けれど、それは完全に一人で生きていくには、この世界はあまりにも寂しすぎた。
どうすれば、もう二度と傷つかずに済むのか。狂気に片足を突っ込み、導き出した答えは――。
決して死なない、絶対に裏切らない『空想の存在』だけを本気で愛すること。
この世界の誰かではなく、かつて僕が書き綴っていた小説のヒロイン、『アリシア』という虚構。そこに、セーニャの面影を縫い付け、全ての愛情を注ぎ込むことだった。
僕の愛する人は、金髪で、青い瞳をしていて、献身的に僕を包み込んでくれる「アリシア」だ。セーニャではない。
そうやって名前をすり替え、理想として塗りつぶし、今もこうしてアリシアという存在を言葉という形で紡いでいる。
ベッドの傍のサイドテーブルに置かれた、ボロボロの革張りの手帳。それに手を伸ばした。
昨日の光景が脳裏をよぎる。
わずかに開いていたロッカーの扉。何の動揺も見せず、ただ静かに去っていった副隊長のメイド。
彼女は、この手帳を見たのだろうか。
セーニャの喪失感を『アリシア』という架空の人物に縫い付け、歪な愛を注いできたこの手帳を。
あのメイドは、僕がかつて妄想の中で描いていた、汚れを知らない「黒髪のアリシア」にどこか酷似していた。
だからなのだろうか。彼女を見ると僕の心がわずかに揺らぐのを感じてしまう。虚構の中に閉じ込めたはずの感情が、彼女に向かって手を伸ばそうとしてしまう。あのメイドに『本物の存在』を見出してしまいそうになる。
それがたまらなく怖かった。 もし彼女がこの手帳の中身を知り、僕の歪んだ理想を掴みに来たとしたら。 僕がすがりついてきた虚構を壊し、冷たい現実へと引きずり戻して、僕の心を奪いに来たのだとしたら。
言いようのない不安と焦燥感に急き立てられるように、僕はベッドから這い出した。
ここにいては息が詰まる。自分が自分でなくなってしまいそうだった。
気がつけば、休暇を取り、南の境界を越えていた。向かった先は、かつて彼女と歩いた場所、ファイナス村。
深い森を抜け、村の入り口に辿り着く。
夢の中で見たかつての緑豊かな美しい景色はどこにもない。あるのは、苔生した石壁と、雑草に飲み込まれた家の残骸だけ。完全な死の静寂が支配する墓標のような場所。
それでもここはセーニャとの時間を少しでも過ごした、特別の場所だった。
崩れかけた教会の跡地に座り込み、手帳を開く。ひどく変色したページに、色褪せたインクで書き連ねた文字。
『緑の風が吹き抜ける穏やかな村で、君と手を繋いで歩きたい。
陽だまりのようなその微笑みだけが、僕の凍てついた心を溶かしてくれるから』
『波打つ金の髪を揺らしながら、どうか永遠に僕の傍で微笑んでほしい。
暗闇を照らす眩しい笑顔が明日への希望となるから』
ふと、荒涼とした廃墟の中に柔らかな一陣の風が吹き抜けた。 風はそっと頬を撫で、傷ついた心をなだめるように温もりを残していく。まるで、文字の中から抜け出した彼女が、優しく僕の頬に手を添え、微笑んでくれているかのように。
「……君はそこにいるんだね」
そうだ。僕はいつまでも僕を包み込んでくれる彼女を愛してる。
冷たい風が吹き抜けるたび、背を預けた教会の壁から風化した砂がパラパラとこぼれ落ちていく。少しの衝撃で崩れ落ちてしまいそうなその脆い残骸は、僕の心のようだ。
朽ち果てた廃墟の中、決して手の届かない幻影を抱きしめながら、静かに、そして深くその愛を噛み締めていた。




