第16話:瞼の裏の甘露
嵐の後の捜索活動を終え、ようやくギルドへと帰還した僕は、足元から這い上がってくるような寒気を感じていた。 隊員服はぐっしょりと水を吸って鉛のように重く、一歩歩くたびに冷たい水滴が床を汚していく。
「あ、セルジオ。ようやく帰ってきたか」
重い扉を開けると、そこには椅子に深く腰掛けた隊長の姿があった。
彼は卓上に山積みになった書類を、いつもの面倒そうな仕草で僕の方へ押しやった。
「これ、今日中に頼むわ。俺は今日もちょっと外せない野暮用があってな。事務室の俺の机、使っていいからさ」
「……またですか」
この人が野暮用と言う時は、大抵酒場か賭け事だ。実務能力は高いはずなのに、事務作業となると途端に僕を秘書のように扱うのがこの人の昔からの悪い癖だった。
冷たくなった指先でその書類の山に触れようとしたその時、背後から副隊長が歩み寄ってきた。
「あんた、その濡れた手で書類を汚す気?」
彼女は僕の手から無造作に書類を奪い取ると、部屋の隅で燃えるストーブを指差した。
「報告書は私が預かっておくから、あんたはそこでその濡れた身体を乾かしてなさいよ。隊長が投げ出した仕事のせいで、ギルドの評価を下げるわけにはいかないし、これ以上隊員の体調管理に手を焼くのも御免だからね」
彼女はそう言い残すと、書類を抱えて事務室の方へと戻っていった。いつもながら酷い物言いだが、そこに合理的な判断と不器用な配慮があることは知っていた。
その言葉に甘え、ストーブの前に椅子を引き寄せた。
パチパチとはぜる火の粉の音を聞きながら、湿った服から立ち上る湯気を眺める。
剣を取り出し、砥石にかける。
シャリ……シャリ……。
鋼を研ぐ一定の音だけが、静かな部屋に響く。
規則正しいその金属音が、任務中の嵐の狂乱や、脳裏にこびりついて離れない過去の凄惨な血の匂いを、少しずつ遠ざけていってくれるような気がした。
身体が温まるにつれ、張り詰めていた任務の緊張が解けていく。だがそれと同時に、凍りついた心がまた、いつもの底知れない孤独へと沈み込んでいくのを感じていた。
……こんな現実に耐えるために、絶対に裏切らない、決して死なない、そんな存在が必要だった。
鈍く光る刀身を見つめながら、現実の冷たさから逃げるように、心の奥に再び強固な檻の鍵をかける。
道具の手入れを終え、預けた書類の進捗を確認するために事務室へと向かった。
事務室の扉を開ける。
――けれど、そこで僕が目にしたのは、意外な光景だった。
事務室の明かりの下、副隊長の席に座っていたのは、副隊長本人ではない。アリシアだ。
彼女は隊長が残した乱雑なメモを手際よく整理し、淀みなく報告書へと書き写していた。
「……アリシアさん」
声をかけると、彼女は肩を小さく揺らして顔を上げた。彼女一人だけが黙々と、僕の仕事を肩代わりしていた。
前日の僕の疑いの言葉を気にかけているのか、彼女は「カナエ様に言いつけられましたので」とだけ短く告げ、再びペンを走らせた。
彼女のその反応に、言葉にできないほどのもどかしさを感じていた。昨日の冷たい態度への罪悪感が、じわじわと胸を焼く。
ポケットを弄り、任務中に食べるはずだった安物の飴玉を一つ取り出した。
それを、アリシアのいる机の上にそっと置く。
「……助かったよ。それと昨日は変な疑いをして悪かった」
彼女は飴玉をじっと見つめた後、ゆっくりと僕に顔を向けた。
「ありがとうございます……っ」
小さく、さりげない笑顔だった。
それは、副隊長のメイドとしての「作り笑顔」でもなかった。僕のノートに描かれた『理想のアリシア』の微笑みでもない。ただ、一人の少女の純粋で飾り気のない表情。
その笑顔が、僕の胸を突き刺した。それは恋などというものではない。もっと根源的で、原始的な衝撃。
僕が描き溜めた理想のヒロイン(アリシア)の像が、目の前の少女が放つ一瞬の輝きによって、音を立てて剥がれ落ちていくような感覚。
(……なんだろう、この気持ちは)
動揺を隠すように背を向け、事務室を後にした。
向かったのは更衣室。そこの鍵をかけたロッカーから一冊のノートを取り出した。
これまで綴ってきた、魂の設計図――、完璧なヒロインを形作る言葉が並ぶ一冊の手帳だ。
手帳のページを捲り、微笑みについて記した箇所を探す。
『波打つ金の髪を血に染めながら、魂が砕け散るような絶望の淵にあっても、僕の手を握りしめ、全てを肯定する深い慈愛の微笑みを浮かべる。 その温もりこそが、僕の歪んだ世界を繋ぎ止める唯一の救いとなるだろう』
『世界がどれほどの災厄に満ちていようとも、彼女の微笑みは揺るがないだろう。 その優しさは、すべてを包み込んでくれる。 彼女が隣にいてくれるだけで、灰色の現実の底でも、正しく在り続けることができる』……
……けれど、どれも違う。
今、僕の瞼の裏に焼き付いて離れないのは、そんな幻覚ではない。
あの生々しい笑顔だ。
積み上げてきた理想の形に、名前のない亀裂が走る。その得体の知れない気持ちに指先が浸食されていくのを感じ、そっとノートを閉じた。
その時だった。
「随分と熱心な研究じゃない」
不意に背後から声をかけられ、心臓が跳ねた。
いつからそこにいたのか。廊下の影に寄りかかった副隊長が、ふっと薄く笑いながら僕を見ていた。
「私のお気に入りのメイドを、あまり甘やかさないでちょうだい。……でも、そうね。あの子の熱は、思ったよりも効果的なのかもしれないね」
彼女の瞳には、僕の動揺を見透かすような鋭さと、どこかこちらの反応を楽しむような、深い笑みが宿っていた。
それに僕は何も答えられず、ただ冷たくなった手帳を握りしめることしかできなかった。
背後に残った彼女の低い足音が、止まない雨音に混じって、いつまでも耳の奥にこびりついて離れなかった。




