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第15話:すれ違う温度

 

「カナエ副隊長の私設メイド」という肩書きは、私が想像していた以上に厄介なものだった。


 エントランスの隅でモップを準備していると、行き交う職員や隊員たちが、やりにくそうに私を避けていくのが分かった。


「あ……副隊長のところのメイドさんか」


「うっかりぶつかって怪我でもさせたら、副隊長に何言われるか分からないぞ」


 誰も私に関わろうとしないし、私が廊下を拭こうとすると、あからさまに道を譲られてしまう。


 彼らにとっての私は、「代わりの清掃員」ではなく、機嫌を損ねてはいけない「カナエの私物」なのだ。


 あからさまな距離を感じる居心地の悪さで、息が詰まりそうだった。


 このままじゃ、ダメだ。


 悩みや焦りを押し殺し、ただひたすらに、自分の仕事をこなすことだけを考えた。


 外から持ち込まれる泥や砂、埃はできるだけ早めに落とし、ギルドの窓、テーブルや椅子はみんなが出勤するまでにしっかりと拭き取り、花瓶の水を変えておく。


 そんなことを黙々と繰り返すうち、ギルドの空気は少しずつ変わっていった。


「あ、アリシアさん。悪いんだけど、第二会議室のテーブルも拭いといてくれるか?」


「アリシアちゃん、あっちにこぼれたインク、お願いできる?」


 私を遠巻きに見ていた職員たちの口調から、少しずつ警戒心が薄れていく。


「おつかれさま、今日もありがとね」


 通りすがりに事務的な労いの言葉が投げかけられ始める。それが、一週間、二週間と続くうちに、私の凍りついていた孤独は少しずつ、けれど確実に溶けていった。


 私にもここでやれることがある。


 そんな安心感が、胸の奥で小さな熱を帯び始めていた。


 誰も私に警戒心を抱かない。当たり前のように仕事を頼まれ感謝される。ただの代わりではなく、役に立てるのだと。そう感じるほどに、胸の奥がじんわりと満たされていくのを感じた。


 そして、そんなある日の午後。


 私は事務室で一人、書類仕事をしているセルジオさんの姿を見つけた。彼は少し疲れたように眉間を揉み、小さく息を吐いていた。


 彼のために、私にもできることがある。


 周囲からの小さな感謝。それが私に、致命的な勘違いをさせていた。


 何かできるのではないか。少しでも、彼の視界に入りたい。


 衝動に駆られ、給湯室へと向かった。どうしても彼に温かいものを飲んでほしくて、関係づくりのためのきっかけが欲しくて。


「お疲れ様です、セルジオさん」


 そっと机の端にカップを置くと、彼は驚いたように不自然にペンを止め、弾かれたように顔を上げた。その瞳には明らかな動揺が走っていた。


「……わざわざ淹れてくれたんだね。ありがとう」


 彼は優しく微笑み、カップへと手を伸ばした。 だが、そのカップを口元へと運び、微かに湯気を吸い込んだ――その瞬間。


 セルジオさんの身体が、ピタリと静止した。


 カップを見つめる彼の目が、光を失い、冷徹なものへと変わっていく。


「……これは、副隊長の指示かい?」


「え……」


「君が僕に、こうして接触するようにと」


 探るような、氷のような視線が私を真っ直ぐに刺し貫く。


 数秒前までの穏やかな空気は一瞬で消え去り、肌がひりつくほどの濃密な沈黙が流れた。


「あ、いえ、私はただ……」


 弁明しようとした声は、彼の冷え切った眼差しを前にして、情けなく霧散しまった。


「……ありがとう。でも、仕事中は自分のタイミングで淹れるから、今後は気を遣わなくていいよ」


 優しい言葉尻とは裏腹に、そこには明確な心の距離があった。


 ――違う。これは私があなたを思ってやったことなのに。


 けれど、その言葉は喉の奥でつっかえた。彼の瞳に浮かんでいたのは、私への感謝や労いではなく、カナエさんへの強い警戒心や不信感だったからだ。


 私の不自然な接触が、彼に不信感を抱かせ、ひどく気まずい空気が流れる。


「……失礼……、いたします」


 私は逃げるように頭を下げ、その場を離れることしかできなかった。


 その日の夕方。


 人気のない廊下の隅で、私はカナエさんに壁際まで追い詰められていた。


「誰が勝手に行動していいと言ったの?」


 氷のように冷たい声だった。カナエさんは苛立たしげに腕を組み、私を見ている。


「変な警戒心抱かせてどうするの。あんたの安い自己満足で、私のシナリオを壊さないでよ」


「……ごめ……、申し訳ございません」


「あんたはあたしのいうとおりにすればいいの。次勝手なことをやったら、もう連れてこないから」


 突き放すような言葉に、血の気が引いた。


 カナエさんの機嫌を損ねてしまったこと。セルジオさんの、あの冷ややかな視線。


 それらが頭の中で渦巻いて、何か言い出そうとする口が思うように動かない。ただ、自分の分際を思い知らされたような胸の奥だけが、それまで感じた温かさが嘘のように、ひどく冷え切っていた。

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