第14話:境界の侵食
僕の休日は、大抵一人での買い出しから始まる。
その日、イベリアの市場を目指して歩いてると、大通りから一本外れた薄暗い路地裏の分岐点で、立ち尽くしている少女の姿が目に留まった。
林立する煙突から吐き出される煤煙と、湿った霧が混ざり合う灰色の街角。
そこに立つ副隊長のメイド。
彼女は小さなメモ用紙を見つめたまま、左右の道を交互に見ては困り果てたように眉をひそめていた。
「おはよう。……副隊長のところの、メイドさんだよね。どうかしたの?」
声をかけると、彼女は激しく肩を揺らし、顔を向けた。
「は、はい……! あ、おはようございます」
「何か探しているの?」
「あの、カナエ様に頼まれたものを買いに行きたいのですが、道に迷ってしまいまして……」
彼女が差し出した不格好なメモを覗き込む。そこには簡易的な地図と、食材の名前が並んでいた。
「右に曲がって、次の角を左に行くと市場に出るよ。左の道は行き止まりで、ガレキの集積場に出ちゃうんだ。イベリアの裏路地は入り組んでるからね」
「そうだったんですね。ありがとうございます」
彼女は深々とお辞儀をし、教えた方向へと慌てた様子で歩き出した。
遠目で彼女の去っていく姿を見る。
「アリシアさん、だったかな」
その名を口にするたびに、胸の奥を細い針で刺されたような、奇妙な疼きが走る。
僕が手帳に書き連ねている『今のアリシア』の姿は、透き通るような青い瞳と、緩やかに波打つ金髪の女性。太陽のように眩しく、絶望の暗闇に沈んだ心も、パッと明るく照らしてくれるような――。
なんの関係のないはずなのに。
――どうしてだろう。
僕の言葉にビクリと肩を揺らしたカナエのメイドが、手帳に書き連ねているアリシアと、どうしても「別の影」が重なってしまうのだ。
アインクランで出会った、僕の足元にすがりつき、そして突き放した、あの少女の面影。
……それだけじゃない。
ふわりと揺れた黒髪のサイドポニー、深い夜のような紺碧のドレス、汚れひとつない純白のフリル。彼女の伏せられた細い首筋や、静かに佇むその横顔の奥に、星空の中にうっすらと溶ける儚い月光のような記憶を見ていた。
それは手帳の中で新しいページに書き綴っているアリシアではない。もっとずっと昔、ただ純粋に夢見て書き綴っていた『かつてのアリシア』の気配だった。
違うはずなのに、どうしてあの少女と、失くしてしまったはずの幻が、あの少女の輪郭と重なってしまうのか。
塗り重ねた『今の理想』と、汚れを知らない『過去の理想』。そして『現実の少女』。
それらが頭の中で混ざり合うようなもどかしさを覚えながら、しばらく彼女の背中を追ってしまった。
休み明けの月曜日。ギルドの朝は、鈍い衝撃音と悲鳴で幕を開けた。
「……っ、大丈夫ですか!」
僕が駆けつけた時、正面の階段の下で、清掃員の男性がうずくまっていた。
どうやら作業中に足を滑らせ、数段上から落ちてしまったらしい。湿った床にはワックスの匂いと、彼がこぼしたバケツの水が広がっていた。
幸い命に別状はなさそうだったが、彼の顔は苦痛に歪み、自力では立ち上がれない様子だった。
すぐに応急処置を施し、医務室へ運ぶ手伝いを終えた後、重苦しい沈黙が残った。
「参ったな……」
人事を担当している男性職員が所長室の前で頭を抱えていた。聞けば滑り落ちた清掃員がしばらく入院することになったそうだ。
イベリアのギルドの清掃員は2人体制。いずれもご老体で、もう一人もあいにく体を痛めて長期休暇を取っていた。
救助隊が拠点とするこのギルドは、運び込まれる泥や血で汚れやすい。清掃員がいなくなることにより、清掃が止まるようなことがあれば、クレームはもちろん、衛生管理上、ギルド本部からの厳しい業務改善命令が下される。
「代わりはもう見つかっているんですか?」
「いえ、これから。ですが急な話で……。予算の枠も決まっているし、なかなか集まらない人員を明日から確保なんて、そう簡単にはいかないんですよ」
僕たちがそんな話をしていた時、カツカツと靴音を響かせて副隊長が現れた。
「どうしたの、二人して難しい顔をして。わざわざ所長のいる執務室の前でそんな溜息を吐かれたら、こっちまで気分が滅入るじゃない」
彼女は僕の隣で足を止め、面白がるような視線をこちらに向けていた。
「カナエさん……。実は、清掃員にまた欠員が出まして。予算の枠もないこのタイミングで、どうやって穴を埋めるか、話していたんです」
人事の職員が、困り果てた顔で状況を説明していた。
「急な求人は厳しいとなると、新しい人が見つかるまでは、手の空いているギルド職員や救助隊員で、シフトを組んで手分けして掃除するしかないですね」
人事の男は重い溜息をついた。しかし事務処理で追われている救助隊や職員たちに、これ以上の雑務を課すのは反発を生む。そうやって以前問題になったこともあったのだ。
「冗談じゃないよ」
副隊長は乱暴に言い放つ。けれどその言葉と同時に彼女の瞳の奥で、何かが悪戯っぽく、あるいは計算高く光ったのを僕は見逃さなかった。嫌な予感が背筋を這い上がる。
「うちの暇を持て余してるメイドをしばらく貸してあげてもいいよ」
「えっ、カナエさんのメイドをですか?」
人事がぱっと顔を輝かせた。
「ええ。予算も限られてるみたいだし、一銭も要らないよ。ただしあくまで『私設メイドのお手伝い』だから隙間時間で私の雑用も並行してやらせるのが条件だけど」
雇用枠も予算も必要ない。それは人事担当者にとっては、天から降ってきたような救いの話だったようだ。けれど、僕にとっては――。
「決まりだね。それじゃ、所長には私から言っておくよ」
副隊長はそういうと、僕の方を見てニヤリと笑った。
明日から、彼女が毎日このギルドにいる。
あの少女が。掃除用具を抱え、僕の視界の端を通り過ぎていく。
その光景を想像した瞬間、心臓が不規則な鼓動を刻んだ。
それが、隊員としての正当な懸念なのか、それとももっと別の、認めてはいけない「何か」なのか。
僕にはまだ答えが出せなかった。




