第13話:味のしない偽物
「……私は、アリシアです。カナエ様のメイドです」
震える声でそう告げた後の静寂は冷たかった。
ギルドの喧騒は遠く引き剥がされ、鼓動の音だけが耳元でうるさく跳ねている。私の目の前には、世界で一番会いたかった――、そして一番会いたくなかった人が立っている。
――セルジオさん。
今の私は、あなたが求めている「理想」の姿をしているはずなのに。私を見つめるその瞳には、温もりの欠片すら残っていなかった。
「……そうか」
短く、氷のように硬い声が上から降ってきた。
彼はそれ以上、私を見ようともしなかった。事務的に手元の書類に視線を落とし、流れるような動作でペンを動かす。
胸を締め付けられるような沈黙が、私たちの間に横たわる。
「もういいよ。ちっとも面白くない」
張り詰めた空気に耐えかねたように、背後からカナエさんが退屈そうに鼻を鳴らした。
彼女は私の腕を乱暴に掴むと、セルジオさんから無理やり引き剥がすように歩き出す。
「行くよ、アリシア」
強引にカナエさんのデスクへと連れ出された私は、そこで自分の名前が容赦なく書き換えられる瞬間を目の当たりにした。
彼女は私の冒険者カードを端末にかざし、キーボードを無造作に叩く。
発光する画面にはレイという、忌々しい記憶とともに刻まれた私の本当の名前が表示された。
カナエさんが爪の先でそれを弾く。
ピッとエラーの警告灯が一度だけ赤く点滅し、次の瞬間、パソコンの画面と冒険者カードに記されていたレイという文字列は消え、代わりにそこに並んだのは、清らかで、どこまでも偽物なアリシアという四文字。
セルジオさんが知らないところで、私は彼の物語のヒロインの名前へと、塗り替えられたのだ。
ギルドから外へ出ると、イベリアの重油の臭いが、喉を焼くように割り込んでくる。見上げる空はどこまでも鉛色で、夕日すらドロリと濁っていた。
カツカツ、と等間隔を刻むカナエさんのブーツの音。彼女は一度も振り返らない。まるで、従順な犬を連れ歩くかのように、ただ傲然と前を見据えて歩いていく。
――もう、私はレイではない
あそこに並んだアリシアという偽りの名前に、閉じ込められていくような窒息感。書き換えられた嘘を胸に抱えて、きっと私は前を歩くカナエさんの背中を追うことしか許されない。
「……はぁ、疲れた。ほら、メイドでしょ。これ、片づけておいて」
自宅のリビングに入ると、カナエさんはソファへ深く身を沈め、テーブルにギルドから持ち帰った書類を広げた。
カナエさんから手渡されたカサつく制服を、クローゼットのハンガーに吊るし、手持ち無沙汰に窓際へと歩み寄った。外の灰色の景色を眺めながら、意味もなく窓枠の木目を指先でそっとなぞる。
「ちょっと、何それ。埃チェック?」
書類から顔を上げたカナエさんが、可笑しそうに、けれど少しだけプライドを刺激されたように片眉を歪ませた。
「っ、いえ……!」
咄嗟に弁明しようと言葉を詰まらせる私を遮り、カナエさんは意地悪く笑う。
「潔癖症はこれだから困るんだよね」
彼女は棚から一枚の雑巾を取り出すと、私の反応を待たずに私へと放り投げた。
「ほら。それで適当に掃除しておいてよ」
胸元に当たって落ちた薄汚れた雑巾。それを受け止め、頭が真っ白になるほどの困惑に襲われていた。
勘違いから唐突に命じられた掃除。見渡す限りの室内は、どこを見ても手が行き届いた清潔な部屋で、どこを掃除すればいいのか、考えても正解が浮かんでこない。
だから窓際だけにとどまらず、冷たい水で雑巾を何度も絞り直しては目についた汚れのない家具などを拭いていた。ただ黙々とこなしながら、次のカナエさんの指示を待っていた。
それからしばらくしてのことだった。
「……、ちょっと」
ソファで書き物をしていたカナエさんは、フローリングを磨こうとする私を、呆れた声で引き止めた。
「いつまでやっているの?」
しなやかな動作で立ち上がり、キッチンの方を指差した。
「お腹すいた。夕飯の支度お願い。ある食材で適当に作って」
キッチンに立たされた私は、まな板の上に置かれた無骨な野菜と肉の塊を前に立ち尽くした。
まともな料理なんてしたことがない。勘と記憶を辿りながら、重い包丁を握り、野菜に刃を入れてみるが、ゴツゴツとした手応えに翻弄されて大きさはバラバラ。皮の剥き方もよく分からない。
とりあえず細かくすれば火が通るのだろうかと、不揃いな野菜と肉を乱暴に切り分け、全て大きな鍋に放り込んで火にかけ、ただ無心で煮立つのを待った。
やがて、ぐつぐつと不穏な濁った音がして、鍋から白いお湯が勢いよくふきこぼれた。
「ちょっと、何やってるの!」
慌てて飛んできたカナエさんが火を止め、顔を顰めて鍋の中を覗き込む。
そこには、皮がついたままの巨大な根菜と、火が通り過ぎてパサパサに縮んだ肉が、味のないお湯の中で無残に浮かんでいた。
結局、その日の夕食はカナエさんが手早く作り直すことになった。
気まずい沈黙が、リビングの空間を重く支配している。
テーブルに向かい合い、カナエさんが作った温かいシチューをスプーンで口に運んだ。
野菜は舌の上で解けるほど柔らかく、肉の旨味が濃厚に溶け込んでいて、今まで食べてきたどんなものより美味しかった。けれど、その暖かさが喉を通るたびに、何もできなかった自分が惨めに感じてしまう。
「全く。料理はこれっぽっちもできないお姫様だなんてね。先が思いやられちゃうよ」
カナエさんは呆れたようにスプーンを皿の縁に置き、頬杖をついて私をじっと見つめた。
「ごめんなさい」
「『申し訳ございません』でしょ? まあいいよ。あたしが作らなくてもいいくらいに、あとでみっちり叩き込むから」
カナエさんは手元のグラスに入った紅茶を小さく揺らし、一口だけ唇を湿らせた。
「それにしても、せっかくあたしが完璧な『アリシア』に仕立て上げて、目の前に連れてきてやったというのに、眉ひとつ動かさないなんてね」
「……セルジオさんは、私を最後まで見ていませんでした。ただのメイドだと、思われたのだと思います」
自分自身に言い聞かせるようにこぼすと、カナエさんは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「でもあいつはそういう男。自分の頭の中の理想の中に閉じこもってるの」
カナエさんはスプーンの背で、皿の上のシチューを小さく弄んだ。
「だからこそ、面白いんだよ」
「え……?」
私へ向けられた視線は、その先にある獲物を捉えているようだった。カナエさんの口元が、綺麗に吊り上がる。
「あいつがこれからもその檻に閉じこもるなら、その檻ごと真っ二つに叩き割ってやるの。やがてやり場のない思いをあんたに向けたとき。あんたがあたしにいいように使われている現実が突きつけられる」
トントン、と人差し指でテーブルの木目を叩く音が、静かな部屋に響く。
「あいつの顔が、ぐちゃぐちゃに歪んでいく瞬間が本当に楽しみだわ」
カナエさんの瞳には愉悦に満ちた光が宿っていた。
「だから勘違いしないでね。勝手にあたしのシナリオを壊すのは許さないから」
釘を刺すように鋭い目がこちらを睨む。
何を企んでいるのか私にはわからない。けれどもこうして彼女の側にいれば、彼に会えるチャンスが残されている。
その甘い罠のような光に、もう、抗うことなどできなかった。




