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第12話:私はアリシア

 深い泥の底から、ゆっくりと浮上していくような感覚。

 意識が戻った時、最初に感じたのは、頬を刺すタイルの冷たさと、鼻を突く強い芳香剤の匂いだった。

 私はベッドではなく、豪華なドレッシングルームの隅、ブルーシートが敷かれ、その上にボロ雑巾のように転がされていた。

「……ん……」

 重い瞼をゆっくりと持ち上げる。

 視界に飛び込んできたのは、ひび割れた廃墟の天井でも曇天の空でもない。清潔で趣味の良い照明が吊るされた白い天井だった。

 鼻をくすぐるのは、甘酸っぱい果実の香り。

 私は、死んだのだろうか。

「あ、起きた? おはよう、死に損ないさん」

 ベッドの脇から、鈴を転がすような可愛らしい声が降ってきた。驚いて視線を向けると、窓際のロッキングチェアに、一人の少女が優雅に腰掛けていた。昨夜、あの地獄のような廃村で私を見下ろしていた少女だ。

 見事なツインテール。部屋着なのか、ゆったりとしたシャツを羽織っているが、その隙間から覗く肌は陶器のように白い。

 彼女はナイフで剥いたリンゴを一切れ、サクりとかじりながら、値踏みするような視線を私に向けていた。

「……ここは」

「あたしの部屋。あのまま放置したら、野犬の餌になりそうだったから拾ってきてあげたの。感謝してよね」

 彼女――、カナエさんは、リンゴを飲み込むと、艶のある唇を指先で拭った。

「改めまして。あたしはカナエ。今はここのイベリアで救助隊をやってる。……で、キミは? アインクランから来た『死神』さん?」

 心臓が凍りついた。

 なぜ、それを。

 私の動揺を見透かしたように、カナエさんはクスクスと喉を鳴らして笑った。

「寝言でうなされてたよ。『私は死神だ』とか『ごめんなさい』とか。随分と酷い夢を見てたみたいだね」

「……」

「それに、あんたが着ている泥だらけのローブ。そこにアインクランにあるファジリス学園の文字があったからね。あ、汚ないからそこらへん触らないでよ」

 悪意のある言葉だった。けれど、その口調はあくまで軽やかで、まるで天気の話でもするかのように残酷な事実を突きつけてくる。

 私は敷かれていたブルーシートを握りしめ、俯いた。

 そうだ。私はボロ雑巾だ。助けられたところで、現実は何も変わっていない。

「……どうして、助けたんですか」

「んー? 気まぐれ」

 カナエさんは椅子から立ち上がり、私の顔を覗き込んだ。その深紅の瞳が、爬虫類のように細められる。

「キミ、名前は?」

「……レイ、です」

「ふーん。で、レイちゃん。あんな廃墟で何してたの? まさかただのピクニックってわけじゃないでしょ?」

 問い詰められ、私は躊躇いながらも、絞り出すように答えた。

「……会いたい人がいたんです。救助隊のセルジオさんって人に」

 私がその名前を出した瞬間、部屋の空気が、ピリッと変わった気がした。

 カナエさんの表情から笑みが消え、真顔になる。彼女は数秒ほど沈黙し、何かを計算するように虚空を見つめた後、ゆっくりと口元を歪めた。

「へぇ……セルジオ? もしかして、アインクランから転属してきた、あの陰気な男のこと?」

「知ってるんですか!?」

「知ってるもなにも、また人間関係ゴタゴタになって、ウチの部隊の戻ってきた奴だよ。……ふぅん、なるほどね」

 彼女は私をじろじろと舐め回すように見た後、ポンと手を打った。

「読めた。キミ、あの男に振られたんでしょ? で、ストーカーみたいに追いかけてきたと」

「ちが、ストーカーじゃ……!」

「図星だ。あはは、傑作!」

 カナエさんは可笑しくてたまらないといった様子でベッドに倒れ込んだ。

 ひとしきり笑った後、彼女は急に真顔に戻り、手元のタブレット端末を指先で弾いた。

「ねえ、キミ。あいつのストーカーしてたなら、この痛いポエムのこと知ってる?」

「……ポエム、ですか?」

「そうそう。この手帳。たまたまあいつのロッカーが開いてた時に、こっそり写真撮っといたんだけどね」

 カナエさんは呆れたように肩をすくめ、画面の文字を大げさに読み上げ始めた。

「『ああアリシア。僕の心は深い孤独を知る。その孤独を癒せるのは君だけだ』……だってさ! もう気色悪くて反吐が出そう!」

 私はその一節を聞いて、ハッと息を呑んだ。

「……アリシア」

「知ってんの? あいつの昔の女とか?」

「違います。それは……彼が書いている小説のヒロインの名前です」

「小説ぅ?」

 カナエさんが目を丸くする。私は乾いた唇を舐め、彼がかつて語っていた設定を口にした。

「はい。アリシアは、恋焦がれている彼に絶対的な忠誠を誓い、献身的に尽くす……メイドの少女なんです。そしてその小説のヒロインでもあったんです」

 その言葉を聞いた瞬間、カナエは一瞬ポカンとし、やがて腹を抱えて爆笑し始めた。

「あははははッ! あいつ、脳内のメイドなんかに恋焦がれてるわけ!? うわー、痛い痛い! 最高にキモい!」

 ひとしきり笑い転げた後、カナエはサディスティックに目を細め、私を見た。

「ねえ、いいこと思いついた」

 彼女はクローゼットの奥から、一着の衣装を引きずり出した。深い夜の色を模した紺碧のドレスに、雪のような白さが残酷に際立つエプロン。それは、誰かにかしずくために作られた、隷属の正装――メイド服だった。

「あなた、この服を着てあたしの『玩具』になりなさい。あいつを落とすための最高の餌に仕立て上げてあげる。あんたはあたしのメイドになるのよ」

「え……?」

「だからぁ、その『アリシア』っていう脳内の女を、あたしが現実ここに引っ張り出してあげるのよ。恋焦がれている脳内メイド(アリシア)が、あたしの足元で這いずり回る召使になってるのを見たら……あの男、どんな顔するかしらね?」

 差し出された布地は驚くほど冷たく、まるで水底の泥のように私の指に絡みついた。

「いい? 泥だらけのレイなんて捨てて、今日からあいつの理想の『アリシア』になるの。そして、あいつのキモい妄想を私が内側からぶっ壊してやるってわけ」

 カナエさんは腕を組み、私を頭から爪先まで値踏みするように見下ろした。

「で? その『アリシアちゃん』はどういう見た目をしてるわけ? あんた、あいつのポエムか小説か、隅々まで暗記してるんでしょ。一から十まで全部教えなさいよ」

 私は記憶の底から、彼が愛情を込めて書き連ねていたヒロインの描写をすくい上げる。

「……黒髪で、少し長めの前髪。後ろ髪は低い位置で一つに束ねて、サイドに流しています。肌は透き通るように白くて、儚げで…」

「ふぅん、随分と注文が多いのね」

 カナエさんは呆れたように息を吐き捨てると、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。

「ま、レシピは分かったわ。あたしの腕にかかれば余裕。……さあ、さっさとその泥だらけのローブを脱ぎなさい!」

「えっ、でも……」

「いいから! あたしの言う通りにしなさいよ」

 強引に服を剥がされ、バスルームに押し込まれた。

温かいお湯で泥を洗い流し、渡されたメイド服に袖を通す。髪が乾く暇もなく、そのまま鏡の前の椅子に座らされた。そこからは、有無を言わさぬカナエさんの独壇場だった。

「前髪切るよ」

 ジャキ、ジャキ。

 ハサミの音が響くたび、私の視界を塞いでいた暗いカーテンが切り落とされていく。

 カナエさんの手際はプロのように鮮やかだった。重たかった黒髪は私が説明した通りに整えられ、長い後ろ髪は手際よく一つに束ねられ、ポニーテールのようにまとめられた。

 冷たい液体が肌に触れる感触、パフが叩きつけられる音が、小気味よいリズムを刻む。儚げな白さを演出するために、私の本来の肌色は甘い粉の匂いと共に塗り潰されていく。

「仕上げ」

 彼女が私の首に、黒い首輪をパチンと留めた。

「……これは?」

「私の『モノ』っていうマーキング。あえて首輪なんていう卑しい属性を足してやるのよ」

 カナエさんは満足げに頷き、私を全身鏡の前に立たせた。

 恐る恐る、鏡を見る。息が止まった。

「これ、私……?」

 そこに映っていたのは、泥だらけの『死神』ではなかった。

 低い位置で整えられたサイドポニー。整えられた眉と、カナエが貸してくれた可愛らしいメイド服が、痩せた体に驚くほど馴染んでいる。

 別人だ。これなら誰も私をレイ(死神)だとは思うまい。鏡の中にいるのは、少し違和感はあるものの、彼が文字で表現していた『アリシア』を上手く引き出していた。

「うん。これなら、あの鈍感男も騙せるね」

 カナエさんは背後から私の肩に手を置き、鏡越しに冷ややかな笑みを浮かべた。まるで、完成した操り人形を愛でる人形師のように。

「……これを着て、彼の前に立てばいいんですか?」

「ええ。ただし『レイ』としてじゃなく、あいつが愛さずにはいられない『理想の女』としてね」

カナエさんの言葉に、私はセルジオさんの小説にあった一節を思い出す。

『水底に沈む星を愛でる少女、アリシア。キミだけが僕の理想を形作る最愛の人……』

 私はドレスを強く抱きしめた。

「……アリシア」

 その瞬間、自分自身を殺した。

「そう、アリシア。あたしの忠実のメイド。それと今後はあたしのことはカナエ様と呼びなさい」

 鏡の中に映るメイド姿の少女は、もう私ではない。彼を欺き、彼に愛されるためだけに生まれた、生きた虚構アリシアだ。

     

 翌日。イベリアのギルドは、工場地帯特有の重油の臭いが漂っていた。

 ロビーに入ると、数人の職員がこちらを見て、驚いたように目を見開いていた。

「おい、見ろよ、副隊長の隣」

「誰だ? あいつがメイドなんて雇ったのか?」

 囁き声が聞こえる。いつもの「死神」という蔑称ではない。純粋な驚きと、好意的な視線。それが私に向けられているなんて信じられず、足がすくむ。

 逃げ出したい。怖い。

「ほら、あそこ」

 カナエが小声で囁き、顎で部屋の隅を指した。

 そこには彼がいた。青と黒の制服。少し疲れたように、書類に目を落としている横顔。

 セルジオさん。

 そう思えば思うほど心臓が早鐘を打つ。でも同時に彼に言われた言葉が蘇る。『もう、君の顔は見たくない』。

 もしバレたら? もし、また拒絶されたら?

 恐怖で動けない私の背中を、カナエさんが容赦なくドンと押した。

「挨拶してきなよ。……失敗したら怒るからね」

 逃げ道はなかった。私はよろめきながら、彼の前へと歩み出た。そんな私の足音に気づき、彼が顔を上げ、その瞳が私を捉える。時間が止まったようだった。

 彼の瞳に映るのは、私であって私ではない少女。

 そこにあの時の軽蔑や嫌悪の色はなく、あるのは、少しの驚きと穏やかな関心だけ。

「……どちら様でしょうか」

 彼は、気づいていなかった。

 目の前にいるのが、あの薄汚れたレイだとは夢にも思っていない。その事実に、私は安堵し、そして甘美な絶望を覚えた。

 やっぱり彼は「レイ」なんて見ていなかったんだ。彼が見るのは、美しいもの、綺麗なものだけ。

 ……だったら。

 私はこのまま「レイ」を捨てよう。この皮を被ったまま、彼の理想になってしまおう。

 それは許されない嘘だ。彼を騙す、最低の行為だ。けれど、そうでもしなければ彼と私の距離は遠くなってしまう。

 もう後戻りはできない。私は震える唇を開いた。

 かつて私が読んでいた物語のヒロインの名前を、自分のものとして盗み取るために。

「私は……」

 声が震える。喉が引きつる。それでも私は偽りの笑顔を作った。

「私はアリシアです。カナエ様のメイドです」

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