第四話「崩れ落ちた砂の城」
九月の文化祭は、結衣を中心にクラスがまとまり、大成功で幕を閉じた。
しかし、湊にとっては、結衣の光が強くなればなるほど、自分の居場所が失われていくような息苦しい二日間だった。
そして季節は巡り、十月。
澄み切った青空の下、グラウンドには土埃と歓声が渦巻いていた。
海星高校の体育祭。クラス対抗リレーのアンカーを任された相沢湊は、バトン受け渡しゾーンで前の走者を待っていた。
心臓が嫌な音を立てて鳴っている。
グラウンドの端で、白石結衣がメガホンを持って応援しているのが見えた。彼女の笑顔は、秋の太陽よりも眩しかった。その隣には、藤川栞が立っている。栞はメガホンを持たず、ただ静かに湊を見つめていた。
「相沢! 頼んだぞ!」
第三走者の健太が、顔を真っ赤にしてコーナーを曲がってきた。
健太の差し出すアルミ製のバトンが、太陽の光を反射してキラリと光った。
湊は走り出しながら、後ろ手でバトンを受け取ろうとした。
その瞬間、視界の端で、結衣が別の男子生徒と笑い合っているのが見えた。
(あ……)
ほんの一瞬、意識が逸れた。
指先を掠めたバトンが、乾いた音を立ててグラウンドの土の上に転がった。
「あっ!」
周囲から悲鳴のような声が上がった。湊は慌ててバトンを拾い上げ、走り出した。しかし、その数秒のロスは致命的だった。トップで受け取ったはずのバトンは、あっという間に後続のランナーたちに抜かれていく。
肺が焼け付くように痛い。足が鉛のように重い。
それでも湊は、ただ前だけを見て走った。結衣の笑顔が、栞の静かな視線が、そして自分の愚かなミスが、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
結果は、最下位だった。
「……わりぃ、健太。俺のせいだ」
ゴール後、膝に手をついて息を切らす湊に、健太はタオルを投げつけた。
「気にするな。お前、最近ずっと変だったからな。怪我がなくてよかったよ」
健太はそう言って笑ったが、その目には心配の色が浮かんでいた。
クラスメイトたちも、「どんまい!」「次頑張ろうぜ!」と声をかけてくれた。結衣も駆け寄ってきて、「湊くん、お疲れ様! かっこよかったよ」と無邪気に笑った。
その優しさが、今の湊には劇薬だった。
誰も俺を責めない。誰も俺の失敗を怒らない。
それは、誰も俺に期待していなかったからだ。
「……ごめん、ちょっと顔洗ってくる」
湊は、逃げるようにグラウンドを後にした。
誰もいない放課後の教室。
遠くから、後夜祭の準備をする生徒たちの声が聞こえてくる。
湊は、自分の席に座り、両手で顔を覆っていた。
七年間、結衣の特別になりたくて、完璧な「優しい幼馴染」を演じてきた。でも、結局俺は、何一つ手に入れられなかった。結衣の心も、リレーの勝利も、自分自身の尊厳すらも。
「俺は、何やってるんだろうな……」
誰もいない教室に、掠れた声が響いた。
その時、教室の後ろのドアが静かに開いた。
「湊」
栞だった。
彼女は、ジャージ姿のまま、教室の入り口に立っていた。
「……栞。後夜祭、行かないのかよ」
湊は顔を上げず、両手で顔を覆ったまま答えた。
「行くわけないでしょ。湊がこんな顔してるのに」
栞の足音が、ゆっくりと近づいてくる。
「別に、俺は大丈夫だから。ただのミスだし」
「嘘つき」
栞は、湊の目の前で立ち止まった。
「結衣のことで、ずっと苦しんでたんでしょ。無理して笑って、平気なふりして。今日のミスだって、そのせいじゃない」
図星を突かれ、湊は言葉に詰まった。
「俺は……」
「もう、いいよ」
栞の声が、不意に震えた。
湊が顔を上げると、栞の目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「栞……?」
「もう、無理しなくていいよ。湊は、十分頑張ったよ。七年間も、ずっと結衣のことだけを見て……誰よりも優しくて、誰よりも不器用で……」
栞は、湊の頭を両手でそっと包み込んだ。
そして、そのまま自分の胸に引き寄せた。
「えっ……」
「泣いていいよ。誰も見てないから。私しかいないから」
栞の体温が、制服越しに伝わってくる。彼女の心臓の鼓動が、湊の耳に直接響いた。
「栞、お前……」
「結衣の特別になれなくても、私がいるよ。私が、湊をずっと見てたよ」
その言葉は、湊の心に張られていた最後の糸を、いとも簡単に断ち切った。
「……っ、ああぁっ……」
湊の目から、せき止めていた感情が溢れ出した。
七年間の執着、絶望、そして自己嫌悪。そのすべてが、栞の温もりの中で溶けていく。
湊は、栞のジャージの背中を強く握り締め、子供のように声を上げて泣いた。
栞は、何も言わずに湊の背中を撫で続けた。
夕陽が、二人の影を長く伸ばしている。
結衣への想いという名の砂の城が、完全に崩れ去った瞬間だった。
そしてそれは、栞という新しい、そして後戻りできない道への入り口でもあった。




