第三話「光の中の君と、影の僕ら」
夏休みが明け、九月に入ると、海星高校は一気に文化祭の熱気に包まれる。
放課後の教室は、段ボールの埃っぽさと、アクリル絵の具のツンとした匂いで満たされていた。黒板には乱雑な字で「2年B組:お化け屋敷」と書かれている。
相沢湊は、教室の隅で黙々と段ボールにカッターの刃を滑らせていた。
「湊くん、こっちのテープ押さえててくれない?」
声の主は、白石結衣だった。
彼女はクラスの文化祭実行委員として、中心になって動いている。今日も髪をポニーテールにまとめ、額に薄っすらと汗をかきながら、誰よりも忙しそうに、そして眩しいほど楽しそうに笑っていた。
「ん、わかった」
湊は段ボールを置き、結衣の隣に移動した。彼女が模造紙を丸めようとするのを、湊がテープで固定する。
二人の距離は近い。結衣のシャンプーの匂いが、かすかに漂ってくる。
七年間、湊がずっと特別だと信じていた匂い。
「ありがとう、湊くん。いつも助かる」
結衣は、無邪気な笑顔を湊に向けた。
「別に。俺は言われたことやってるだけだから」
湊は、その笑顔から目を逸らした。
あの雨の日から、湊の中で何かが確実に変わっていた。結衣の笑顔を見るたびに、胸の奥がチクりと痛む。彼女の優しさは、湊だけのものではない。誰にでも平等に降り注ぐ、ただの「光」なのだ。
「あ、白石さん! こっちの看板のデザイン、どう思う?」
別の男子生徒が、結衣に声をかけた。
「あ、ちょっと待ってね! 今行く!」
結衣は湊に「ごめんね」と小さく手を合わせると、すぐにその男子生徒の元へ駆けていった。男子生徒は結衣が近づくと、少し顔を赤らめて嬉しそうに話しかける。結衣はそれに、屈託のない笑顔で応えている。
湊は、その光景を静かに見つめていた。
(俺も、あいつと同じだったんだな)
結衣の光に惹きつけられ、自分だけは特別だと思い込みたかった。でも、結衣にとっては、俺も、あの男子生徒も、等しく「クラスメイト」でしかない。
「……手、切るよ」
不意に、横から声がした。
栞だった。
彼女は、湊が持っていたカッターをそっと取り上げた。
「ぼーっとしてたら危ないでしょ」
「……わり。サンキュ」
栞は、湊の隣に座り、無言で段ボールを切り始めた。
栞もまた、あの雨の日から少し様子が違っていた。以前のように、三人の中心で明るく笑うことが減った。特に、結衣と湊が話している時は、どこか遠くを見るような、静かな目をしていることが多かった。
「……結衣、楽しそうだね」
栞が、手元の段ボールを見つめたまま言った。
「そうだな。あいつ、こういうの好きだから」
「湊は?」
「俺?」
「うん。湊は、楽しい?」
栞が顔を上げ、湊をまっすぐに見つめた。
その瞳の奥にあるものを、湊は読み取れなかった。ただ、あの雨の日に傘の中で感じた、彼女の手の温かさが不意に蘇ってきた。
「……普通だよ。別に、楽しくもつまらなくもない」
湊は嘘をついた。本当は、結衣が他の男子と笑っているのを見るのが、息苦しかった。でも、それを口にすることは、自分の惨めさを認めることだと思った。
栞は、少しだけ目を伏せた。
「……そっか」
その短い返事に、どれだけの感情が込められていたのか。湊には分からなかった。
文化祭の準備は、日を追うごとに忙しさを増していった。
結衣は連日、遅くまで学校に残っていた。湊も栞も、彼女に合わせて残ることが多かった。
ある日の夕方。
買い出しを頼まれた湊が教室に戻ると、結衣が一人で窓際の席に座っていた。
「あれ、他の奴らは?」
「あ、湊くん。みんな、材料探しに美術室行っちゃった」
結衣は、机に突っ伏したまま、疲れたように笑った。
「お前も休めよ。顔、疲れてるぞ」
「うーん……でも、まだやることいっぱいあるし」
結衣は、ゆっくりと体を起こした。傾きかけた夕陽が彼女の横顔を照らし、長いまつ毛の影が頬に落ちている。
「ねえ、湊くん」
「ん?」
「私、ちゃんとできてるかな」
結衣の声は、ひどく脆く響いた。
「みんな、文句言わずに手伝ってくれてるけど……私、本当はこういうの向いてないのかなって。誰も私の本当の気持ちなんて、気にしてない気がして」
湊は、結衣の隣の席に腰を下ろした。
「そんなことないだろ。お前が頑張ってるから、みんな手伝ってるんだよ」
「……ほんと?」
「ああ。お前は、いつも周りをよく見てる。だから大丈夫だ」
湊の言葉に、結衣は深く息を吐き出し、安心したように微笑んだ。
「ありがとう、湊くん」
結衣は、湊の顔をじっと見つめた。
「湊くんは、いつも私を安心させてくれるね。湊くんが隣にいると、なんか、絶対大丈夫だって思えるの」
その言葉は、純粋な感謝だった。何の計算もない、真っ直ぐな信頼。
でも、湊にとっては、それが何よりも残酷だった。
(安心させてくれる、か)
それは、「都合のいい安全基地」だと言われているのと同じだった。結衣が疲れた時、迷った時、ただ隣にいて全肯定してくれる存在。そこに、男としての湊が入り込む余地はない。彼女は無意識に、湊の好意を「自分を癒すためのクッション」として消費しているのだ。
「……俺は」
湊は、口を開きかけた。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。「俺は、お前を安心させるためだけに隣にいるわけじゃない」とでも言いたかったのか。
その時、教室の後ろのドアが開いた。
「結衣ー! 絵の具あったよー!」
栞だった。
栞は、窓際で向かい合う湊と結衣を見て、一瞬だけ足を止めた。
「……あ」
栞の表情が、硬直した。
夕陽に照らされた教室で、結衣が湊に甘えるように微笑みかけ、湊がそれを受け止めている。その完璧な絵画のような光景に、栞は息が止まるような痛みを覚えた。
あの雨の日、傘の中で少しだけ近づいたはずの距離が、残酷なほど遠く感じられた。結局、湊の隣にいるのは結衣なのだ。自分が入り込む隙なんて、最初からなかった。
「ごめん、邪魔した?」
栞の声は、不自然なほど明るく、そして乾いていた。
「ううん! 全然! 栞、ありがとう!」
結衣は立ち上がり、栞の方へ駆け寄っていった。
湊は、その場に取り残された。
栞は、結衣と笑い合いながら、一度だけ湊の方をちらりと見た。
その視線には、明らかな「絶望」と「諦め」が混じっていた。
湊は、その視線から逃げるように、窓の外を見た。
グラウンドでは、サッカー部が練習をしている。どこにでもある、普通の放課後の風景。
でも、三人の関係は、もう普通ではなかった。
結衣の無自覚な甘え。
湊の諦めきれない執着と、それに伴う絶望。
栞の、親友への罪悪感と、湊への抑えきれない想い。
文化祭という喧騒の中で、三人の感情は、静かに、そして確実に軋みを上げ始めていた。




