第二話「雨の冷たさと、君の体温」
梅雨入りが発表された日から、空はずっと重たい灰色に覆われていた。
教室の窓ガラスには、水滴が絶え間なく流れ落ちている。湿った空気が、制服のシャツを肌に張り付かせ、不快な重さを生んでいた。
相沢湊は、数学の授業中もぼんやりと外を眺めていた。
あの日――七度目の告白から、二ヶ月が経とうとしていた。
湊と結衣、そして栞の三人の関係は、表面上は何も変わっていなかった。一緒に登校し、昼休みは三人で弁当を食べ、放課後はくだらない話をしながら帰る。
誰も、あの日の告白の話はしなかった。
まるで、そんな出来事は最初から存在しなかったかのように、日常は続いていた。
「……相沢」
前の席から、小さな声が聞こえた。健太だった。
「ノート、見せてくれ」
「またかよ」
湊はため息をつきながら、自分のノートを健太に渡した。健太は「サンキュ」と短く言って、急いで黒板の文字を写し始めた。
「お前、最近ぼーっとしてること多いな」
ノートを写しながら、健太が小声で言った。
「そうか?」
「うん。なんか、ここにあってここにない、みたいな」
湊は返事をしなかった。自分でも自覚はあった。結衣の隣にいても、以前のように無条件に楽しいとは思えなくなっていた。
彼女の無邪気な笑顔を見るたびに、あの日の「ごめんね」という優しすぎる声がフラッシュバックする。そして、「嫌いじゃない」というメッセージの文面が、胸の奥で鈍く痛む。
(俺は、いつまでこれを続けるんだろう)
湊は、窓の外の雨を見つめながら、そんなことを考えていた。
放課後。
湊は、図書委員の仕事で少し遅れて教室を出た。
結衣と栞には「先帰ってて」と伝えてあった。最近は、こうして理由をつけて二人と別行動をとることが増えていた。三人の空気を壊さないために、自分から距離を置くしかなかった。
薄暗い廊下を歩いていると、階段の踊り場で、二人の生徒が向かい合っているのが見えた。
結衣と、他クラスの男子生徒だった。
湊は思わず足を止めた。心臓が嫌な音を立てた。柱の陰に身を隠すようにして、二人の様子を窺ってしまった。
「……白石さん、ずっと前から好きでした。付き合ってください」
男子生徒の声は、緊張で少し震えていた。
結衣は、少し困ったような、でもどこまでも優しい笑顔を浮かべていた。
「ごめんなさい」
結衣の声は、静かで、はっきりとしていた。
「私、今はそういうの、よく分からなくて。誰かと特別になるっていうのが、想像できないの。ごめんね」
男子生徒は、少しだけ肩を落とした。「そっか……。うん、わかった。突然ごめん」
「ううん。気持ちは嬉しかったよ。ありがとう」
結衣はそう言って、男子生徒に深く頭を下げた。
男子生徒が立ち去った後も、結衣はしばらくその場に立っていた。そして、小さくため息をつくと、階段を下りていった。
湊は、柱の陰から動けなかった。
(誰かと特別になるっていうのが、想像できない)
その言葉が、湊の頭の中で何度もリフレインした。
それは、湊への断り文句とは違った。湊への「ごめんね」には、もっと特別な、七年間という時間の重みが含まれていると、湊は勝手に思い込んでいた。
でも、違った。
結衣にとって、湊からの告白も、あの男子生徒からの告白も、本質的には同じだったのだ。彼女はただ、恋愛感情というものが欠落しているか、あるいは極端に鈍感なだけだった。
「……馬鹿みたいだな、俺」
湊は自嘲気味に呟いた。
自分がどれだけ想い続けても、結衣にとって自分は「特別な存在」にはなれない。彼女の心の中に、恋愛という枠で湊が入る隙間は、最初から一ミリもなかったのだ。
その事実が、七年分の重みを持って、湊の心を冷たく、重くした。
下駄箱に着くと、外は土砂降りの雨になっていた。
朝は降っていなかったため、傘を持ってきていない生徒たちが、困った顔で空を見上げている。
湊の置き傘はロッカーにあったはずだが、取りに戻る気にはなれなかった。
ただ、冷たい雨に打たれたかった。頭の中を占める結衣の言葉を、洗い流してほしかった。
湊は、そのまま雨の中に歩き出した。
「あっ、ちょっと!」
誰かの声がしたが、湊は振り返らなかった。
雨粒が、容赦なく制服を濡らしていく。冷たい水が、首筋から背中へと流れ落ちる。シャツが肌に張り付き、体温を奪っていく。
それでも、湊は歩き続けた。
結衣の言葉が、頭から離れない。
七年間。
七年間、俺は何を見てきたんだろう。
彼女の笑顔の奥にある、本当の気持ちを、俺は何も理解していなかったんじゃないか。ただ自分の気持ちを押し付けて、彼女がそれを受け入れてくれることに甘えていただけなんじゃないか。
「……っ」
湊は、立ち止まり、顔を覆った。
雨の音が、すべての思考をかき消していく。
その時だった。
突然、雨の音が遠ざかった。
頭の上に、赤い傘が差し掛けられていた。
湊が顔を上げると、そこには栞が立っていた。
「……栞」
栞は、少し息を切らしていた。走ってきたのだろう、彼女の制服の肩口も少し濡れていた。
「何やってんの、馬鹿」
栞の声は、怒っているようでもあり、泣いているようでもあった。
「傘も差さないで、こんな土砂降りの中……風邪ひくでしょ」
「……なんで」
「なんでって、放っておけるわけないじゃん」
栞は、傘の柄を握る手に力を込めた。その指先は、少し白くなっていた。
「湊、なんかあったんでしょ」
湊は答えなかった。ただ、栞の顔を見つめていた。
栞の目は、まっすぐに湊を捉えていた。その瞳の奥には、結衣にはない、強くて、熱い感情があった。
「……結衣が、告白されてるのを見た」
湊は、ぽつりと言った。
「結衣は断ってた。誰かと特別になるのが想像できないって」
栞は息を呑んだ。傘を持つ手が、微かに震えた。
「俺、七年間も何やってたんだろうな。結衣にとって俺は、ただの『告白してくる幼馴染』でしかなかったんだ」
湊の声は、雨音に掻き消されそうなくらい弱々しかった。
「俺は、結衣の特別になりたかった。でも、最初からそんな場所はなかったんだ」
栞は、唇を強く噛み締めた。
親友である結衣が、湊を傷つけている。その事実に対する怒り。
そして、傷ついた湊が今、自分の目の前にいる。その事実に対する、醜くも甘い期待。
相反する感情が、栞の中で渦巻いていた。
「……湊は、馬鹿だよ」
栞は、震える声で言った。
「結衣の特別になれなかったからって、七年間が無駄だったなんて、そんなこと言わないで」
栞は、傘を持たない方の手を伸ばし、湊の冷え切った手を握った。
「……っ」
栞の手は、驚くほど温かかった。雨で冷え切った湊の体に、その熱がじんわりと伝わってくる。
「私は……私は、ずっと見てたよ。湊が、結衣のことをどれだけ大切に思ってたか。どれだけ優しくしてたか」
栞の声が、雨音に混じって響いた。
「だから、そんな風に自分を否定しないで」
湊は、栞の顔を見た。
栞の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。それは雨粒なのか、涙なのか、湊には分からなかった。ただ、彼女が自分のために泣いてくれていることだけは分かった。
「栞……」
「帰ろう」
栞は、無理に笑顔を作った。その笑顔の裏側にある、強烈な罪悪感と微かな幸福感を、湊はまだ知る由もなかった。
「風邪ひいちゃうから。ほら、入って」
栞は、赤い傘を少しだけ湊の方に傾けた。
湊は、栞の小さな肩が雨に濡れているのに気づいた。
「……お前が濡れてるだろ」
湊は、栞の手から傘の柄を受け取った。彼女の指先の熱が、傘の柄を通して伝わってきた。
「俺が持つ」
湊は、傘を栞の方へ傾け直した。
二人は、一つの傘の下で、ゆっくりと歩き出した。
雨の音は、相変わらず激しかった。
でも、傘の中だけは、信じられないくらい温かかった。
湊は、隣を歩く栞の横顔を、盗み見るように見つめた。
(俺は、今まで栞の何を……)
その問いは、言葉にならなかった。
ただ、湊の心の中に、結衣への喪失感とは別の、小さな熱が生まれ始めていることだけは確かだった。
雨の日の相合傘。
それは、三人の関係に決定的な亀裂を入れる、静かで、残酷な始まりだった。




