第一話「今年も、君に振られた」
桜の花びらが、風に吹かれてゆっくりと落ちていく。
校舎の裏手にある中庭は、この時期だけ薄いピンク色に染まる。石畳の上に積もった花びらを踏みながら、相沢湊は深呼吸をした。
春の空気は甘くて、少し冷たい。どこかから、野球部の掛け声が遠く聞こえた。校舎の窓ガラスに反射した夕陽が、石畳の上に細長い光の筋を引いていた。
「……また、ダメだったな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。声は思っていたより小さくて、自分でも聞き取れないくらいだった。
白石結衣に告白したのは、今年で七回目だ。
中学一年生の春から数えて、七回。毎年この季節になると、湊は結衣を呼び出して、同じ言葉を繰り返してきた。「好きです。付き合ってください」。そして毎年、結衣は同じように首を横に振る。「ごめんね、湊くん」と。
七回も振られれば、さすがに慣れてもよさそうなものだった。
でも、慣れなかった。
胸の奥に鈍い痛みが広がるのは、毎年変わらない。ただ今年は、その痛みの質が少し違う気がした。去年までは、振られた後でも「来年こそは」という根拠のない希望が、すぐに痛みを上書きしてくれた。でも今年は、その希望が少しだけ薄くなっていた。
湊は石造りのベンチに腰を下ろし、空を見上げた。
雲一つない青空だった。こんなに綺麗な春の空の下で失恋するのは、なんとなく理不尽な気がした。
「……湊」
背後から声がした。
振り返ると、藤川栞が石畳の上に立っていた。
ショートボブの黒髪が、春風に少しだけ揺れている。彼女は湊の顔を見た瞬間、何かを確かめるように一秒だけ目を細めた。それからすぐに、いつもの明るい笑顔を取り戻した。でも湊には気づかなかった。その一秒の間に、彼女の表情の奥に何かが沈んでいったことを。
「やっぱりここにいた」
「……栞か」
「今年も、ダメだったんだね」
問いかけではなかった。確認でもなかった。ただ、事実を静かに受け取るような言い方だった。
湊は苦笑いを浮かべた。「そんなに顔に出てた?」
「出てた出てた。廊下で会った時から、なんか変な顔してたもん」
栞はベンチの隣に腰を下ろした。二人の間に、ちょうど一人分の空間が空いた。
「七回目だぞ」と湊は言った。「さすがに笑えるだろ」
「笑えないよ」
栞の声は、いつもより少しだけ低かった。湊はその声のトーンに気づかないふりをした。
「まあ、でも、俺が勝手にやってることだから」
「……うん」
「結衣は悪くない。俺が諦めないのが悪いんだ」
「……そうだね」
栞の相槌は短かった。それ以上何も言わなかった。湊は彼女が何かを言いたそうにしているのを感じたが、あえて聞かなかった。
二人はしばらく、黙って桜を見ていた。
花びらが一枚、ひらひらと湊の膝の上に落ちた。湊はそれを指先でつまんで、そっと地面に置いた。栞はその仕草をじっと見ていた。まるで、その花びらに自分の気持ちを重ねるように。
「……来年も告白するの?」
栞が聞いた。
湊は少し考えた。「……わかんない」
「わかんない?」
「今まで一回も迷ったことなかったんだけど」湊は苦笑した。「今年は、なんか、ちょっとだけ迷った」
栞は何も言わなかった。
ただ、彼女の手が、ベンチの上でそっと握り締められた。爪が白くなるくらい、強く。湊はその手を見ていなかった。
「……そっか」
栞は静かに言った。その声に、安堵と落胆が混じっていたことを、この時の湊は知らなかった。
教室に戻ると、白石結衣がいた。
彼女は窓際の席で、クラスメイトの女子と笑いながら話していた。その笑顔は、誰でも思わず見惚れてしまうような、完璧な笑顔だった。
湊は自分の席に座りながら、その横顔をこっそり見た。
白石結衣は、本当に綺麗だと思う。外見だけじゃなくて、誰にでも優しくて、誰の悪口も言わなくて、いつも周りを明るくしてくれる。そういう人間としての綺麗さが、湊は好きだった。
そして、その綺麗さに、七年間ずっと焦がれてきた。
「よう、湊」
肩を叩かれた。高橋健太だった。
「今年もフラれたんだって?」
「……誰から聞いた」
「栞から。さっき廊下で会ったから」
「あいつ、早いな」
健太は湊の隣の席に腰を下ろし、ニヤニヤしながら言った。「で、どうすんの。来年も告白する?」
「……わかんない」
「わかんない?」健太は目を丸くした。「お前が『わかんない』って言うの、初めて聞いたぞ」
湊は苦笑した。「俺もそう思う」
「なんかあったの?」
「別に。ただ……」湊は言葉を探した。「なんか、今年は疲れたなって」
健太はしばらく湊の顔を見ていた。笑顔は消えていた。その目の奥に、何かを測るような光があった。
それから、軽く頭を叩いた。
「馬鹿」
「なんで叩くんだよ」
「七年間、毎年振られ続けて疲れないほうがおかしいだろ」健太は笑った。「でもお前が疲れたって言うの、俺は初めて聞いた。それだけ本気だったってことだよ」
湊は何も言わなかった。
「まあ、ゆっくり考えろよ。俺はどっちでも応援するから」
健太はそう言って、自分の席に戻っていった。
湊はもう一度、窓の外を見た。
桜の木が見えた。さっきまで中庭にいたのに、もうこんなに遠く感じる。
結衣の笑い声が、教室の中に響いていた。
放課後、三人はいつものように一緒に帰った。
結衣は告白のことを一切口にしなかった。湊も口にしなかった。栞も口にしなかった。
「ねえ、今日どこか寄ってく?」と結衣が言った。
「コンビニでいい」と湊が言った。
「賛成」と栞が言った。
三人はいつもの道を歩いた。いつもの会話をした。いつもの笑い声が、夕暮れの住宅街に溶けていった。
まるで何もなかったかのように。
でも湊は知っていた。何かが、少しだけ変わっていることを。
それが何なのか、まだうまく言葉にできなかった。ただ、今日の失恋は、去年までとは少しだけ違う重さを持っていた。
コンビニの自動ドアが開いた。冷たい空気が流れ出てきた。
三人は黙って店内に入り、それぞれ好きなものを手に取った。
レジを出た後、結衣がふと湊を見た。
「……ねえ、湊くん」
「ん?」
「今日、ごめんね」
湊は少し驚いた。結衣がこういう言い方をするのは、珍しかった。いつもはメッセージで済ませる。
「謝らなくていいよ。俺が勝手にやってることだから」
「でも……」結衣は少し言葉を探すように、視線を夕暮れの空に向けた。「毎年、ちゃんと向き合ってくれてるのに、私、ちゃんと答えられなくて」
湊は何も言えなかった。
結衣の言葉は、優しかった。本当に、心から申し訳なさそうだった。だからこそ、湊には何も言えなかった。
優しくされるほど、苦しかった。
「気にしないで」と湊は笑った。「来年もたぶん告白するから、また断ってくれ」
結衣は少しだけ目を細めて、「……うん」と言った。
その「うん」が、どういう意味を持っていたのか。
湊には分からなかった。結衣自身にも、たぶん分かっていなかった。
三人はそれぞれ缶コーヒーやジュースを手に持ったまま、しばらく黙って夕焼けを見た。
栞だけが、少しだけ遅れて笑った。
湊はその遅れに気づかなかった。
結衣も気づかなかった。
気づいていたのは、栞だけだった。自分が笑うのに、一瞬だけ時間がかかったことを。
夜、自室で湊は天井を見つめていた。
スマートフォンの画面には、今日の告白の後に結衣から送られてきたメッセージが表示されていた。
「今日もごめんね。でも、湊くんのこと嫌いじゃないから。これからもよろしくね」
七回目のメッセージも、去年と同じ文面だった。
湊はスマートフォンを胸の上に置いて、目を閉じた。
「嫌いじゃない」か。
その言葉が、今年は少しだけ違う響きを持っていた。去年までは「嫌いじゃないなら、いつかは」と思えた。でも今年は、その言葉の裏にある意味が、ぼんやりと見えてきた気がした。
「嫌いじゃない」は、「好き」じゃない。
当たり前のことだった。七年間、ずっと分かっていたことだった。でも今年初めて、その当たり前が、ちゃんと胸に刺さった。
湊は目を開けた。
天井に、街灯の光が薄く映っていた。
窓の外から、春の夜風が入ってきた。桜の匂いがした。甘くて、少し切ない匂い。
(来年も告白するのか、俺は)
答えは出なかった。
ただ、今夜だけは、その問いを胸の中に抱えたまま、眠ることにした。
布団を引き寄せて、目を閉じる。
遠くで、誰かの笑い声がした。
それが結衣の声なのか、栞の声なのか、湊には分からなかった。
翌朝、栞から一通のメッセージが届いた。
「おはよう。昨日は大丈夫だった?」
湊はしばらく、その文字を見つめていた。
「大丈夫」と打ちかけて、消した。
「……まあまあ」と送った。
すぐに返信が来た。
「そっか。じゃあ今日も一緒に帰ろうね」
湊は、その短い言葉に、なぜか少しだけ救われた気がした。
結衣からは、今朝まだメッセージが来ていなかった。
その事実に気づいた時、湊は自分が何を感じているのか、うまく分からなかった。
ただ、スマートフォンの画面に映った栞のメッセージを、もう一度だけ読み返した。
「今日も一緒に帰ろうね」
その一文が、今朝の湊には、桜の匂いよりも少しだけ温かく感じられた。
その感覚の意味を、この時の湊はまだ知らなかった。




