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7話

 沈黙が、痛いくらいに肌を刺す。

 誰も、何も、言わない。

 応接室の空気だけが、じわじわと重さを増していく気がした。


(終わった、かな……)


 わかっていたはずだった。特技も経歴もない。その上、唯一持っていた武器すら投げ出す条件で、無理やり自身をねじ込もうとした。

 冷静に考えれば、誰だって呆れるに決まっている。

 膝の上に置いた手のひらから、少しずつ力が抜けていく。


 霧島さんが、ふぅ、と小さく息を吐いた。眼鏡の位置を指先で直しながら、彼女は改めて私をまっすぐに見据える。


「もうひとつ」


 静かな声だった。だからこそ、次に来る言葉の重さが、嫌でも予感できた。


「あなたは、楽曲の権利を振りかざし、我々にデビュー枠を求めた。それは――」


 言葉が、一度だけ区切られる。


「対価を払っているように見えて、自身の立場を利用して、我々を脅そうとしたと、捉えることもできます」


 その一言が、鈍く胸の奥に沈み込んでいく。


(脅す……私が)


 否定したかった。けれど、できなかった。

 だって、図星だったから。私は、自分が有利な立場であることを利用して、自分の願いを押し通そうとした。


「先ほど申し上げた通り、弊社としても、あなたの楽曲の権利は喉から手が出るほど欲しいものです。ですが、それとあなたのデビューの是非とは、本来切り離して考えるべき問題です」


 淡々と、けれど容赦なく紡がれる言葉。


「本来はオーディションなどを通じて用意されるべき枠を、特別に我々に融通させようとする。正直に申し上げて、フェアな取引とは思えません」


 全くもってその通りだ。反論できる言葉なんて、最初から持っていなかった。

 ただ、あの人のいる世界に少しでも近づきたい。それだけの、あまりにも身勝手な動機で、私はここまで来てしまっただけなのだから。


(私、何やってるんだろう)


 情けなさと、恥ずかしさと。ぐちゃぐちゃに絡まった感情が、喉の奥にせり上がってくる。

 これ以上、この場に留まる資格なんて、私にはない。せめて、これ以上迷惑をかける前に、静かに立ち去るべきだ。


(帰ろう。もう、いいから)


 そう自分に言い聞かせながら、足に力を込める。


 その瞬間だった。


 脳裏に、あの夜の光景がふっと蘇る。

 真夜中の配信画面。技術的には完璧じゃなかったはずなのに、画面越しに伝わってきた、眩しいくらいの熱量。


 ――彼女の、笑顔。


 立ちかけていた腰が、中途半端な位置で止まる。

 喉の奥から、何かがせり上がってくる感覚があった。抑え込んでいたはずの何かが、今にも決壊しそうになっている。


(あ……)


 足が、小さく震えていた。

 諦めようとしていたはずなのに。もう終わりだと、自分に言い聞かせたはずなのに。

 胸の奥で燻っていた何かが、限界を超えようとしていた。


 抑え込んでいたはずの感情が、堤防を破るように溢れ出してくるのがわかった。


「ですが、あなたほどの才能を、埋もれさせておくことはとてももったいないことです。あなたが、何ができるのか、何がしたいのか。今一度整理なさってから、改めて弊社に応募していただければ――」


「わかってますよ……」


 絞りだした自分の声は、驚くくらい、部屋の中で響き渡った。


 霧島さんが、言葉を切ってぱちりと瞬きをする。腕を組んで、両目を閉じていた社長さんが、片目を開いてこちらを見ていた。

 まずい、止めなければ、と思う。

 でもそんな思いに反し、自分の口からこぼれる言葉を、止めることはできなかった。


「わかってますよ、自分が一番、中身のない空っぽな人間だってことくらい……!」


 視界が、じわりと滲んでいく。

 止めようとしたのに、止まらない。溢れ出す言葉は、もう自分の意志ではどうにもならないところまで来ていた。


「ピアノを弾かない私はっ。音楽をやらない私は! こんな貰い物の力でしか自分を示せない私は!!!」


 声が、震えている。

 きつく握りしめていた拳を開き、視線を落とす。

 力がこもりすぎて指先が白くなっていた。


「音楽がなければ、何者にもなれない私は……。私が、一番自分がズルい人間だってことぐらい……ちゃんとわかってますよ」


 喉の奥が、焼けるように熱い。

 涙が、頬を伝って落ちていく。拭う余裕もなかった。


(でも、それでも……)


 ここで止めたら、きっと二度と言えない。そんな予感が、私の口をさらに動かしていた。


「でも、憧れちゃったんですよ……。あの人みたいになりたいんですよ……っ」


 脳裏に浮かぶのは、あの夜の配信画面。

 技術的には全く完璧じゃないはずなのに、確かに私の心を震わせたあの笑顔。


「もう一度初めからやり直して!! 一からちゃんと積み上げていけばきっと!! あの人みたいになれるはずだって!!」


 息が、うまく吸えない。

 それでも、言葉を止めることができなかった。


「私にないものが、足りないものが……っ、何なのか! いつかきっと、ちゃんとわかって!! そして!! そして!!」


 言葉が、うまく繋がらない。

 それでも、伝えたいことだけは、はっきりとしていた。


「いつかあの人と同じ場所に立って、いろんなことが聞きたいって……っ。それで……っ、それで!!」


 嗚咽が、言葉の合間に混じる。


「ありがとうって、ちゃんと、直接……っ」


 最後の一言は、もうほとんど声にならなかった。

 息を切らし、肩を震わせながら、私はただ俯くことしかできなかった。


 応接室に、重い静寂が降りる。

 自分がどれだけ情けないことを叫んだのか、今さらのように実感が押し寄せてきた。

 顔を上げることができない。

 涙で濡れた頬が、やけに冷たく感じられた。


 どれくらいの時間、そうしていただろうか。

 やがて、沈黙を破るように、小さな笑い声が聞こえた。


「……いいじゃないか」


 社長さんの声だった。

 私は、恐る恐る顔を上げる。


 そこにいたのは、呆れた表情でも、失望した表情でもなかった。

 どこか、面白いものを見つけたような――そんな、猛禽類じみた鋭い眼光を纏った顔だった。


「空っぽ、大いに結構じゃないか」


 社長さんは、ソファから静かに立ち上がった。

 仕立ての良いスーツの襟を軽く正しながら、まっすぐに私へと向き直る。


「何もない真っ白な状態だからこそ、君はこれから、何にでもなれる。そういうことだろう?」


 その声には、さっきまでの戸惑いはもう欠片も残っていなかった。

 代わりにあるのは、優しいまなざしと微笑みだった。


「し、社長……?」


 隣で、霧島さんが驚いたように声を上げた。タブレットを持つ手が、わずかに震えている。

 その反応を意に介す様子もなく、社長さんは言葉を続けた。


「霧島くんの言う通り、君のやり方は褒められたものじゃない。実際、フェアな取引とは言い難い」


 私は、言葉を返せないまま、ただその横顔を見つめていた。


「だがね」


 社長さんの声が、一段低くなる。


「『憧れ』のために、『夢』のために。その泥臭くて不器用な想いこそ――『熱意』というものだと思うんだ」


 胸の奥が、じんわりと熱を持つのがわかった。

 諦めかけていたはずの何かが、まだ確かにそこに残っていることを、思い知らされたような感覚だった。


「君には熱意と覚悟がある。挑戦には、その二つが必要なんだ」


 社長さんは、一歩こちらに歩み寄る。


「挑戦し続けている限り、人生に退屈することはない。私の尊敬する偉人の言葉だよ。退屈な見世物など、誰も見向きもしない。でも真っ白な君の挑戦は、それ一つが大きなエンターテイメントになるだろう」


 その瞳には、まだあの鋭さが宿っていた。私を値踏みする眼差しではなく、何かを面白がるような、確かな輝き。


「君のその『新しいことへの挑戦』、私が買おう!」


 その言葉に、私は息を呑んだ。

 信じられない気持ちと、じわじわと込み上げてくる何かで、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。


 隣で、霧島さんが小さく息を吐いたのが見えた。

 タブレットのカバーを、そっと閉じる。


「……社長がそうおっしゃるなら」


 控えめな声だった。けれど、その中には、確かに何かを受け止めたような響きがあった。

 銀縁メガネの奥の瞳に、一瞬だけ厳しい光が差した気がした。


 社長さんは、私の目の前に立つと、手をまっすぐに差し出してきた。


「ようこそ、Arcadiaへ」


 その声は、芝居がかった調子を保ちながらも、確かな熱を帯びていた。


「君の特技も経歴もない、空っぽの今を――今日からうちで、一緒に埋めていこうじゃないか」


 差し出された手を、私はしばらく見つめることしかできなかった。

 涙で滲む視界の中、その手だけが、やけにはっきりと見えた。


(埋めて、いく……この空っぽを、一緒に)


 誰かに、そんな風に言ってもらえるなんて。

 音楽という才能を抜きにして、ただの「私」を、誰かが求めてくれるなんて。


 こらえていたものが、堤防を破るように溢れ出す。


「うっ……ぐす……」


 差し出された手を握り返す前に、私はその場に崩れ落ちるように泣き崩れていた。

 情けないと思う余裕さえない。ただ、胸の奥に溜まっていたものが、涙となって次から次へと零れ落ちていく。


 天才の仮面を、私は今、確かに脱ぎ捨てた。

 特技もない、経歴もない、空っぽの一人の人間として。


 それでも、この手を取ってくれた。「私」を求めてくれた。

 その事実だけが、今の私を支えるすべてだった。


 新しい世界へのスタートラインに、私はようやく立てたのだと思う。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げることもできないまま、私はただ、震える手でその手を握り返した。

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