第七話(裏)
応接室のドアが静かに閉まった。
足音が廊下の向こうへ遠ざかっていくのを、霧島玲奈は無言のまま見送っていた。革張りのソファに背を預けたまま、彼女はしばらく動くことができずにいた。
さっきまでこの部屋を満たしていた、あの張り詰めた空気。涙声で叫ばれた本音の数々が、まだ耳の奥に残響として居座っている。
霧島は、タブレットを膝の上に置いたまま、閉じたままのカバーを何度も指先でなぞっていた。
「……よろしいのですか、社長」
沈黙を破ったのは、彼女の方だった。声には、隠しきれない戸惑いが滲んでいる。
対する九重は、ソファに深く沈み込んだまま、小さく笑った。さっきまでの芝居がかった調子はどこかに消え、けれど彼の目だけは、まだ獲物を見つけた猛禽類のような鋭さを残している。
「よろしいも何も。最善の結果になったと自負しているよ」
あっさりと、そう言い切る九重の声。
霧島は、こめかみのあたりに小さく指を当てた。あの子が去ってからというもの、頭の芯がずきずきと痛む。今日という一日だけで、胃を三回はきりきりと締め付けられた気がした。
「彼女が演者に向いていると、どうしてわかるのですか?」
問いかけながら、霧島は自分の声が思ったより硬いことに気づく。
経験も、企画力も、配信への熱意すらまともに語れなかった応募者。それを、社長はたった十数分の面談だけで、あっさりと採用してしまった。
九重は、そんな霧島を見て、にやりと笑った。
「わかりゃしないさ」
あまりにあっけらかんとした返答に、霧島はぐっと言葉を飲み込む。慣れているはずだった。この男の直感頼みの経営方針には、もう何年も振り回されてきたのだから。それでも、今回ばかりは看過できない。
「……社長」
霧島は、努めて冷静な声を保ちながら続けた。
「配信への具体的なビジョンもなく、経験も企画力も、正直未知数です。ほかの子の手前、オーディションも行わずに――」
言いかけた霧島の言葉を、九重が静かに遮る。
「霧島君、ここで最も避けなければならない愚は何だと思う?」
試すような、けれど確かに真剣な響きを帯びた声だった。霧島は一瞬、言葉に詰まる。
「……彼女の機嫌を損ねて、『Jane Doe』の曲の使用権を得られないことでしょうか」
慎重に、霧島はそう答えた。実務担当として、まず思い浮かべるべきリスクはそこだ。楽曲使用の交渉が決裂すれば、そもそもこの面談自体が意味をなさなくなる。
しかし九重は、緩やかに首を横に振った。
「ここで最も愚かなことはね」
声のトーンが、わずかに落ちる。
「それは、彼女を引き留められないことだ」
その一言に、霧島は思わず息を呑んだ。
「彼女は金の卵であると同時に、金の卵を産むガチョウでもあるんだよ」
部屋の中に、しばしの沈黙が落ちた。窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと色を変えている。霧島はタブレットを持つ手に、無意識に力を込めていた。
「彼女がVTuberとして成功するかどうか。そんなことは誰にも分らない」
九重は、そう前置きしてから、少しだけ声のトーンを和らげた。
「まぁ、僕個人としては、成功してもらいたいと思うよ。夢を追う人間の背中を押してあげるのが、僕の役割だと思っているしね」
その言葉には、いつもの飄々とした軽さの奥に、確かな熱がこもっているように霧島には感じられた。この会社を興し、幾人ものライバーを育ててきた男の、目。
「それに、さっきの言葉も嘘じゃない」
九重は、そこで初めて少しだけ表情を崩した。
「僕は覚悟をもって挑戦し続ける人間が大好きだ。真っ白な彼女が大切なものを見つけられればいいと、そう言ったことは嘘じゃない」
霧島の脳裏に、涙声で叫んでいたあの子の姿がよぎる。中身のない自分でも、例えズルくても、それでも、と。憧れの人に会うんだと泣き叫んでいた姿。あれが演技だとは、霧島にもとても思えなかった。
「そして願わくは、音楽に対して再び前向きになってくれれば、なお嬉しい」
九重の声が、少しだけ柔らかくなる。
「『Jane Doe』のファンというのも、本当なんだ」
その言葉に、霧島は小さく目を伏せた。この社長の言葉には、いつも建前と本音が入り混じっている。けれど今の一言だけは、演出でも計算でもない、九重個人の、一人のファンとしての本心のように聞こえた。
「でもね」
ゆっくりと立ち上がり、窓から外を眺める九重。窓に反射するその表情は、一転して、またしても鋭く、厳しいものであった。
「正直この会社の社長をやらせてもらっている身として考えれば、どちらでもいいんだよ」
その言い方に、霧島はわずかに眉をひそめた。
「我々は、『Jane Doe』の正体を知り、そして彼女を押さえた!」
九重の声が、急に熱を帯びる。振り返った九重は、まるで舞台の上で観客に語りかけるように、両手を広げた。
「あの、『Jane Doe』だよ! 正体不明の天才音楽クリエイター、『Jane Doe』だ!」
霧島は、思わず息を詰めた。社長のこの高揚した様子を見るのは、久しぶりだった。
「この業界だけじゃない。少しでも音楽が関わる業界ならば、誰もがその正体を知りたがり、そしてつながりを求めていたあの『Jane Doe』を!」
言葉を重ねるごとに、九重の目は輝きを増していく。
「その『Jane Doe』を、押さえた。これは、我々だけがもつ、大きな、大きな切り札だ」
興奮を隠しきれない社長の様子に、霧島はやれやれというように、小さく首を振った。それでも、彼の言っていることの重みは、痛いほどに理解できる。
「僕たちは望んでいた彼女の楽曲の使用権を得られただけでなく、彼女に大きな貸しを作れた」
九重は、そこで一度言葉を切り、意味深に口の端を上げた。
「おそらく彼女にとっては、大きな大きな貸しだ」
その言い方に、霧島はふと背筋が冷えるのを感じた。この社長の直感と計算は、いつも紙一重のところで同居している。人情家であると同時に、抜け目のない経営者でもあるのだ。
「だから、正直彼女の活動が上手くいこうがいくまいが」
九重は、両手を広げ小さく首を傾げながら、あっさりと言い切った。
「我々に損は全くない。これはノーリスクハイリターンの賭けだよ、霧島君」
言い終えた九重は、ふふんと笑いながら、満足げにソファへ深く沈み込んだ。窓の外はすっかり夕暮れに染まり、応接室にはオレンジ色の光が長く伸びている。
霧島は、閉じたタブレットの表面を、またしても指先でそっとなぞった。
九重の言葉には、いつも計算と情熱が奇妙に絡み合っている。打算的な経営者の論理を聞かされてもなお、霧島の胸からあの涙が消えることはなかった。
(社長の言う通り、確かに会社としてはノーリスク)
霧島は心の中でそう呟きながら、ふと、あの真っ直ぐに夢を叫んだ彼女の姿を思い出す。
経験もビジョンもない。けれど、あの剥き出しの焦燥と、泥臭く這いつくばってでも変わりたいという執念は、紛れもなく本物だった。
(――でも)
損得勘定の裏で、霧島はそっと息を吐く。あの空っぽの彼女が、いつか本当に自分の居場所を見つけ、誰も想像しなかったような輝きを放つ瞬間が来るのではないか。実務家としての冷徹な予測を裏切り、彼女なら本当に何者かになっていけるのではないか。そんな予感が、胸の奥で小さく灯っていた。
損得ではない。あの子の可能性を、少しだけ信じてみたい。
会社に属するマネージャーとしてではない、一人の人間としての思いが、霧島の背筋をそっと伸ばさせる。
「……ノーリスクハイリターン、ですか」
霧島は、ぽつりと呟いた。その声には、計算づくの社長に対するあきれと諦めの温度が混じっていた。
「そう言っておけば、君も少しは安心するだろう?」
九重は、いたずらっぽく笑って肩をすくめる。その軽口に、霧島は思わず苦笑を漏らした。
「まったく……。胃薬の減りが早くなるのは、目に見えていますけどね」
タブレットをしっかりと抱え直し、霧島は応接室を後にする。ふと廊下の窓の外を見ると、茜色から紫へと、静かに色を移し始めていた。
雲一つない空に昇り始める月を見つめながら。願わくは彼女の夢が叶いますようにと。霧島は心の中でそっと思わずにはいられなかった。




