6話
返事なんて来ないかもしれない。震える指で送信ボタンを押してから、三日。
そう半ば諦めかけていた頃、Arcadiaから届いた一通のメールには、丁寧な文面で「一度直接お話しさせてください」と書かれていた。
そこから先はあっという間だった。日時の調整、最寄り駅からの道順の案内、そして――「面接」という文字。
クローゼットの中を漁っても、まともなジャケットの一枚すら見当たらなかった私は、慌ててスーツをレンタルする羽目になった。
鏡の前で、着慣れない紺色の生地に袖を通しながら、ため息をつく。
「なんか、こんな風に着飾るのもひさしぶりだな」
誰に聞かせるでもない独り言が、部屋の中に虚しく響いた。
* * *
指定された住所に着くと、思っていたよりもずっと落ち着いた雰囲気のビルがそこにあった。大会社のビル群、というわけではないけれど、清潔感のある内装と、行き交う社員たちの温かい表情。
中堅どころと聞いていたが、なるほど、しっかりと地に足のついた会社なのだと肌で感じる。
(うぅ……緊張なんて、私には無縁のはずなんだけど)
案内された応接室の扉をノックする。
中に入った瞬間、私は少し面食らった。
「おお、待っていたよ! まさか本当に来てくれるとはね」
開口一番、そう声を弾ませたのは、仕立ての良いスーツを着崩した、無精髭の男性だった。ソファから身を乗り出すようにして、こちらへ手を差し伸べてくる。
「弊社代表の九重です。今日はよろしくお願いしますね」
その隣で、銀縁メガネをかけた女性が深く頭を下げた。きっちりとまとめられた髪、そして少しだけ目元に滲む疲労の色。
「統括マネージャーの霧島と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
二人とも、私を歓迎するムードを隠そうともしない。VIPでも迎えるかのような丁重な態度に、かえってこちらの背筋が伸びる。
「いやぁ、本当に助かったよ。『Jane Doe』本人が、まさか自ら足を運んでくださるなんてね」
勧められるままソファに腰を下ろすと、九重と名乗った社長は、待ちきれないとばかりに身を乗り出してきた。
その声には、演技じみた大げさな抑揚があった。けれど不思議と、嘘っぽさは感じない。
「しかし、あの伝説的な音楽クリエイターが、まさかこんなに若い女性だったなんて、思いもしませんでしたよ」
向けられる無遠慮な、けれど純粋な称賛の眼差し。ネットの海に身を隠し続けてきた私にとって、久しぶりに現実の人間から浴びせられるその熱は、少し居心地の悪いものだった。曖昧に愛想笑いを浮かべる私をよそに、社長さんはさらに言葉を続ける。
「私も、私の娘も、あなたの曲の大ファンでね。そんな貴方が、弊社でVTuberとしてデビューしてくださるなんて。貴方の圧倒的な音楽スキルを活かしたVTuberが誕生すれば――」
社長さんの瞳が、まるで獲物を見つけた猛禽類のように鋭く光る。
「うちの事務所にとって、これ以上ないほど大きな柱になる。そう思ってね」
輝かしい未来図を語る社長の声は、心底楽しそうだった。
隣の霧島さんも、控えめながら期待のこもった眼差しをこちらに向けている。
その瞬間、私の胸の奥が、ずきりと痛んだ。
(ああ、やっぱり……そうなるよね)
わかっていたはずだった。才能を対価に差し出した以上、相手が求めるのは私の「音楽」なのだと。
でも、それだけは絶対に譲れない。
私は膝の上で拳を握りしめ、意を決して口を開いた。
「あの、すみません。九重さん」
弾んでいた社長さんの言葉を、私は静かに遮った。
「私、VTuberとしての活動の中で――音楽をするつもりはありません」
私の言葉が、応接室の空気を凍りつかせたのがわかった。
さっきまで身を乗り出していた社長さんの動きが、ぴたりと止まる。
隣の霧島さんも、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、こちらを凝視していた。
「……えーと」
社長さんが、芝居がかった笑みを一瞬だけ引っ込めて、私の顔をまじまじと覗き込んでくる。
「今、なんて?」
「音楽活動は、しません。歌枠も、弾き語りも、作曲配信も――するつもりはないです」
自分の声が、思っていたより硬く響いた。
膝の上の拳に、無意識に力がこもる。
(言っちゃった……言っちゃったけど、これだけは絶対に譲れないから)
私の才能が、誰かを幸せにすることはない。デビューの時点からそれを振りかざすくらいなら、いっそ最初から封印してしまったほうがいい。
沈黙が、応接室にじわりと広がっていく。
社長さんは珍しく毒気を抜かれたように、無精髭を撫でながら唸っていた。
「へぇ……。それはまた、思い切ったことを言うね」
どこか面白がるような、それでいて戸惑いの滲む声。
その空気を破るように、霧島さんが静かにタブレットを構え直した。
「……失礼します。少し、事務的な確認をさせてください」
冷静な声だった。けれど、その奥にぴりりとした緊張が滲んでいる。
「音楽以外の配信となると、トーク配信やゲーム実況などを主軸にするということですか? 実はそのあたりのご経験がおありとか?」
「……ありません」
それ以外に答えようがなかった。ゲームはおろか、配信を『視聴する』こと以外、私はこの世界で成し遂げたことはない。
「では……」
霧島さんの指先が、タブレットの上を滑る。眼鏡の奥の瞳は、私を逃さないとでも言うように据わっていた。
「どのような配信スタイル、あるいはコンセプトを思い描いていらっしゃいますか?」
その問いに、私は言葉を詰まらせた。
(コンセプト……コンセプト、かぁ……)
考えたことなど、一度もなかった。ただ、あの人のいる世界に足を踏み入れたい。それだけで、ここまで来てしまった。
「……今はまだ、何も決まっていませんが」
声が、尻すぼみに小さくなっていく。
「何でも、一から練習するつもりです」
我ながら、あまりに頼りない答えだと思った。案の定、霧島さんの眉が、わずかに動く。
「練習、ですか」
ぱたん、と乾いた音を立てて、タブレットのカバーが閉じられた。
霧島さんの口調が、丁寧さを保ったまま、じわりと温度を下げていく。
「VTuberという仕事は、ただ漫然と配信画面の前に座っていれば成立するものではありません。企画力、そしてリスナーを楽しませようとする熱意――それが何より必要になります」
一言一言が、まるで的確に急所を突いてくる刃のようだった。
「音楽という、あなたの最大の武器を自ら手放してまで。あなたは、『何を』届けたいんですか?」
その問いに、私は答えることができなかった。
言葉を探そうとすればするほど、頭の中が真っ白になっていく。
何かこう、それらしい理由があったはずなのに。今ここで、何一つ形にならない。
「……それは」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
「これから、活動しながら見つけたいと、思っていて……」
我ながら、あまりに空虚な言い訳だった。
言った瞬間、自分でもわかってしまう。
霧島さんの視線が、静かに、けれど容赦なく私を射抜いていた。
霧島さんは小さく息を吐くと、眼鏡の位置を指先で直しながら、まっすぐに私を見据えた。
「率直に申し上げます」
その声は、決して感情的ではなかった。だからこそ、余計に重く胸に突き刺さる。
「トップクリエイターであるあなたの楽曲の権利は――正直、喉から手が出るほど欲しいものです」
一度言葉を切り、霧島さんは静かに続けた。
「ですが。配信への具体的なビジョンも、熱意と呼べるものも持たないまま。楽曲の権利を対価に、デビューという枠だけを買おうとする。そのお考えは」
静かな応接室に、彼女の冷ややかな声だけが響く。眼鏡のレンズの奥にある理知的な瞳は、私の浅はかな思惑を、骨の髄まで見透かしているようだった。
「VTuberという仕事を、あまりに軽く見ているとしか、私には思えません」
その一言が、鈍い刃のように胸の奥へ沈み込んでいく。
(軽く、見てる……私が?)
否定したかった。けれど、できなかった。
だって、図星だったから。
私は権利という手札を使って、ただ「居場所」を買おうとしていただけだ。中身なんて、何も持たずに。
視界の端で、社長さんがソファに深く沈み込み、無精髭を撫でながら黙り込んでいるのが見えた。
さっきまでの快活さが噓のように、重苦しく沈黙を保っている。
(何か言わなきゃ……何か、言い返さなきゃいけないのに)
喉の奥まで出かかった反論は、けれど、形になる前に霧散していく。
だって、霧島さんの指摘は、あまりにも正しかったから。
膝の上に置いた手のひらが、じっとりと汗ばんでいるのがわかる。
(ハイスペックとか、なんとかなるとか……そんなの、全部――)
全部、幻想だ。
音楽にかかわることであれば、私は無敵だった。大した苦労もなく、すべてを手に入れてきた。
だから人生なんて、イージーゲームだって。
とりあえずやってみれば。何とかなるって。
そんな傲慢な思い込みが、今、音を立てて崩れ落ちていく。
「……すみません」
絞り出すように、それだけを口にした。
それ以上、何も言葉が出てこない。
沈黙が、応接室に重くのしかかる。
社長さんが、ふう、と小さく息を吐いた。さっきまでの芝居がかった調子は鳴りを潜め、どこか探るような視線をこちらへ向けている。
「……なるほどね」
呟くように漏れたその一言に、私はびくりと肩を震わせた。
何を、なるほどと思ったのだろう。
呆れられたのか。それとも――見限られたのか。
答えを聞くのが怖くて、私は俯いたまま、膝の上の拳をきつく握りしめることしかできなかった。
未だVtuberになっていませんが…あと少しです…




