5話
あれから別の事務所の募集にも応募をかけて。
そして同じようにお祈りメールをいただいた。
二つの落選通知を受け取ってから、私はしばらく腑抜けたように日々を過ごしていた。
カーテンも閉め切ったままの部屋で、ベッドと呼ぶには味気ない簡素なマットレスに寝転がり、ただ天井を見上げる時間が増えた。
「特技なし、経歴なし、か……」
誰に言うでもなく、そう呟いてみる。
わかっていたことのはずなのに、いざ突きつけられると、想像していた何倍も心にこたえた。
(音楽関係なら、なんて思っちゃうのは逃げだよなぁ)
その思考に辿り着くたび、私は小さく頭を振った。
才能を使えば簡単に手に入るものには頼らないと決めたばかりだ。それなのに、ただの人間としての自分には、差し出せるものが本当に何もない。
そのことを強く思い知らされた。
企業にこだわらなくても、個人でやっていく道もあるのだろう。
でも私には、伝手も知識も何もない。一から手取り足取り教えてもらわなきゃ、前に進むこともできない。
(音楽を取り去った私なんて、結局……)
おんなじ地点をぐるぐるぐるぐる。
一歩も前に進むことができない。
パソコンの前に座る気力さえ湧かず、私はスマートフォンの画面をぼんやりと眺めた。配信アプリを開けば、当然のようにあの人のチャンネルが目に入る。
空風はる。
今日も変わらず、元気いっぱいに、リスナーとの掛け合いを楽しんでいる姿が画面の向こうにあった。
VTuberにこだわらなくとも、「曲を作ってあげましょうか」なんて連絡を取れば、彼女とつながることができるのではないか。そんな風に考えてしまったこともある。
私なら、私の曲なら、もっと彼女を輝かせられる。そんなことはわかりきっている。
けれどもそれではダメなのだ。
それでは何も変わらない。彼女にまで、「音楽ありきの自分」を求められてしまったら。
わたしはもう、二度と立ち上がれなくなってしまうかもしれない。
配信画面を閉じ、私はため息をついた。
自分の部屋を見渡す。ハイスペックなPCと、数えきれないほどの楽器たち。それ以外には、本当に何もない部屋。
(このPCも、この楽器たちも……全部、才能があったから手に入れられたものなんだよね)
その事実が、今はやけに重く感じられた。
どれだけ画面の中の彼女に憧れても、『音楽のない私』ではその世界に足を踏み入れる資格すらないのかもしれない。
そんな考えが、またぐるぐると頭の中を巡っていく。
何をするでもなく、ただ無為に時間だけが過ぎていく。
そんな日々が、何日か続いた。
そうして迎えたある夜。
特にやることもなく、私はなんとなくパソコンの電源を入れた。
見慣れたフォルダアイコンが並んでいる。作曲ソフト、DAW、そして――もう長いこと開いていない、メールソフトのアイコン。
『Jane Doe』宛に開設した、業務用メールが届くメールボックスだった。
活動を止めてから、もう随分と経つ。それでも過去に発表した楽曲たちは、今も再生数を伸ばし続けているらしく、時折、事務的な通知だけが届いていた。
(そういえば、しばらく見てなかったな)
なんとなく、そのアイコンをクリックしてみる。
未読のメールが、いくつも溜まっていた。印税の振込通知や、著作権管理団体からの事務連絡。業務依頼のメールなども多く届いていた。
そんな中、ひとつのメールが目に留まった。
件名は、
『配信BGMとしての、楽曲使用許諾に関するお願い』
しかし、重要なのはそこではなかった。差出人欄にある、事務所の名前。それに見覚えがあったのだ。
差出人:『Arcadia』
あの人をきっかけに見るようになったVTuberの配信。それを通じて、VTuberの世界にも少しだけ詳しくなった。
確か、大手とはいかないまでも中堅ぐらいの、所属タレントの少ない少数精鋭のVTuber事務所ではなかったか。
私は、なんとなくそのメールを開いてみる。
文面は丁寧で、誠実な印象を受けるものだった。
所属するVTuberの配信用のオープニング曲として、過去に「Jane Doe」名義で発表した、個人サイトで音源配布を行っていない曲を、どうしても使用させてほしい、という熱烈な内容。
文章の端々から、事務所を大切に育てていきたい、人気が出るようにしてあげたいという真摯な姿勢がなんとなく伝わってくる。
(VTuber事務所『Arcadia』、かぁ……)
VTuber事務所からの、許諾使用に関する『お願い』。
その単語を見た瞬間、私の中で何かがカチリと煌めいた。その黒い閃きに、私の指先が小さく震える。
――推しと、同じ世界へ行きたい。
同じ世界で、同じ立場で、あの人と会いたい。話がしてみたい。
でも、あの人の事務所「StellaRings」には落ちてしまった。そして一人で知識もなく、この世界に飛び込む勇気はない。
しかし、この世界そのものとつながっている道は一本ではない。
音楽を通してならば、私はいくらでもこの世界とつながりをもてる。
音楽系配信者になりたいわけじゃない。でも音楽を取り去った私には、この世界に足を踏み入れる資格すらない。
ならば資格として、音楽を利用するだけなら。
デビューしたあとに才能を隠してしまえば、私は「ただの新人VTuber」として彼女の前に立てるのではないか。
でも、いや、しかし。
頭の中で自分自身に対する言い訳を重ねていく。良くない考えが、むくむくと膨らんでいく。
私には今、圧倒的に有利な立場がある。
この事務所は、私の過去の楽曲を「使いたい」と、こうして頭を下げてきているのだ。
普段の私なら、絶対にこんなことは考えなかったと思う。それに、絶対に使うまいと誓った才能の残滓を利用するなんて、これまでの自分と何も変わらないじゃないか。
けれど、あの日から感じている焦燥感と、突きつけられた「何者でもない自分」への無力感が、私の中の何かを狂わせていた。
そもそも今私が生きていられるのだって、過去の私のおかげじゃないか。この部屋にあるものだって、そうだ。
まずスタートラインに立たなければ、何も始まらない。
ならば、あと少しだけ、それにすがったって……。
震える指で、返信のボタンを押す。
しばらく文面を考えて、私は打ち込んでいった。
『楽曲の使用を無期限で許可します。ただし、ひとつだけ条件を付けさせていただきたい』
そこまで書いて、一度手を止める。
激しい迷いがあった。けれど、落選の悔しさと、憧れの人に会いたいという気持ちが、迷いを強引に塗りつぶしていく。
『使用料はいただきません。その代わりに、私を御社所属のVTuberとしてデビューさせてください。まずは一度、直接お話しする機会をいただけないでしょうか』
クリエイターとしての圧倒的に優位な立場を利用した、あまりに強引な取引の申し出。
自分で書いておきながら、あまりの図々しさと不誠実さに、少し引いてしまう自分がいた。
送信ボタンの上で、私の指はしばらく止まっていた。
(これ、最悪だよね……)
相手はただ楽曲の使用許可を求めているだけなのに、こちらは権利を盾に、デビュー枠という対価を要求しているのだ。
筋が通っているとは、お世辞にも言えない。才能を嫌悪しながら、結局は才能の力で夢を買おうとしている。
それでも。
(でも、これくらいしないと……。スタートラインにすら立てないんだもん……)
特技なし、経歴なし。ただの履歴書では、どこにも相手にされない。
それなら、私が唯一持っているこの忌まわしい武器を使うしかないのではないか。
たとえそれが、誰かに眉を顰められるような汚いやり方だったとしても。
あの人に会うために。
私はもう一度、画面の文面を読み返した。
自分でも呆れるくらい、身勝手な内容だった。けれど、これを送らなければ、きっと私はまた、あの殺風景な部屋で膝を抱えるだけの日々に逆戻りしてしまう。
(……我ながら、なかなか悪い女なんですけど)
引きつった乾いた笑いが漏れる。
それでも、迷いを振り切るように、私はエンターキーを強く押し込んだ。
送信完了の表示が、画面に浮かんだ。
「デビューしたら、音楽以外でやっていくから……。これくらいは、許される、よね?」
時計の針が進む小さな音だけが、静かな部屋に響く。
しばらくの間、私は画面の前で動けずにいた。
返事が来るのか、それとも呆れられて終わるのか。想像すると、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
それでも、心のどこかで、小さな期待が芽生え始めていることに気がついていた。
閉ざされていたはずの扉に、指先だけは触れられたような。そんな感覚。
窓の外を見ると、夜空には星がひとつ、瞬いていた。
あの日、画面越しに見た笑顔を思い出す。
――あの日の「何か」の正体を知るために。
私はパソコンの画面を見つめながら、届くかもわからない返信を、静かに待ち続けた。




