4話
あの日から、私の世界は少しずつ動き始めていた。
真夜中の配信画面で見た、あの眩しい笑顔が今も脳裏に焼き付いている。技術的には決して完璧じゃなかったはずなのに、画面越しの熱量は、私が浴びてきた何百回もの喝采より確かに私の心を震わせた。
あれから何度も同じ配信のアーカイブを見返した。彼女の名前も、所属する事務所の名前も、今ではすっかり覚えてしまっている。
「VTuber、かぁ……」
誰もいない部屋で、ぽつりと呟く。
あの日流した涙の理由は、正直まだよくわからない。ただひとつ確かなのは、画面越しに伝わってきた「何か」を、私はどうしようもなく欲しがっているということだった。
ただの一人の人間として、新しい場所で自分を見つけてみたい。彼女のように、誰かと熱を分け合いたい。
でも、私にそんなことができるのだろうか。
彼女の事務所は、業界最大手と噂される――『StellaRings』。
なんともなしに、検索ワードに打ち込んでトップページを開いて見る。すると。
『4期生募集のお知らせ』
調べてみると、ちょうど新人ライバーのオーディションを募集しているところだった。
こういう巡り合わせを運命と呼ぶのだろうか。
(大きな舞台に立っても、緊張なんてしないのが私のはずなんだけどな……)
憧れの人――空風はるが所属する事務所。あの日、凍りついていた私の心を溶かしてくれた人がいる場所。
ここに行けば、あの人に会える。
そう思うだけで、閉ざされていたはずの胸の奥が、じんわりと熱を持った気がした。
――そんなことを考えながら、私は応募ページをクリックしていた。
「必要なものは、と。……んー、履歴書、か」
履歴書。生まれてこのかた、一度も書いたことがない代物だ。
匿名コンポーザーとして活動していた私には、そんな概念は存在しなかったから。印税収入だけで生きてきたし、高校も通信制で、周囲と履歴書を確認しあうような青春イベントとも無縁だった。
ページをよく読むと、応募方法は郵送のみらしい。データでの提出は受け付けていないようだ。
「わざわざ紙に印刷して、封筒に入れて、切手貼って……なんか、効率悪くない?」
文句を言いながらも、履歴書のフォーマットを検索して印刷し、机代わりにしている作業用デスクに向かう。
ペンを進めて数分後――いきなり最初の壁にぶつかった。
【特技】
ここに「作曲」「ピアノ」「バイオリン」「ギター」「ドラム」云々と書き連ねていけば、たぶん一発で目を引くだろう。
けれど、それだけは絶対に書けない。私の才能が周囲にバレてしまえば、また同じことが起きる。
完璧すぎる音は、誰かの積み重ねてきた熱を、無自覚のうちに塗りつぶして。
そして私はまた、『私』を見失うのだ。
だから私は、少し悩んだ末にペン先を紙に走らせる。
【特技:なし】
あっさりとしたその四文字を見つめ、我ながら潔いなと思う。
次に【趣味】の欄。これも正直に書くことにした。
【趣味:配信を見ること】
最近の私の日課といえば、配信サイトを巡回することぐらいだ。嘘は書いていない。
続く【自己PR】の欄にも書くべきことは浮かばなかった。
何かこう、キラリと光るエピソードのひとつやふたつ欲しいところだが、音楽関係を全部封印すると、本当に何にも残らないのである。
「うーん……」
数百字は書けそうな広い空欄を前に、私はペンを構えたまま石になった。
低い唸り声を漏らしながら。座った椅子をぐるぐると回し。
私はしばらく天井を見上げていた。
音楽以外に、私は何を持っているんだろう。
(あ、あれ? おかしい。私、結構ハイスペックだったはずなんだけどなー)
ふと、あの配信で見た彼女の笑顔が脳裏をよぎる。
不完全でも、全力で、まっすぐに。
あの姿に憧れて、ここに立っているのだということだけが、今の私のすべてだった。
「まぁ、嘘をついても仕方ない、よね」
思い立ったら早い。私はペンを走らせ、思いのままに文字を綴っていった。飾らない言葉で、憧れの存在への想いと、「自分もそういう存在になりたい」という気持ちをひたすら書き連ねていく。
「……うん、いい感じにシンプルにまとまったね。無駄を削ぎ落とした『できる女』の履歴書って感じで」
基本情報と、学歴だけの経歴と、資格・特技なしの空白欄。
それだけが書き込まれた、なんとも心もとない履歴書が完成する。
でも仕方がないのだ。
これが、二十年間積み上げてきた「私」のすべてなのだから。
封筒に入れ、宛名を書き終えたところで、しばらく私は手を止めていた。
(……ほんとにこれでいいのかな)
出せば、憧れの人がいる世界に一歩近づける。そのはずだった。
でも指先が、なぜか重い。
あの日画面越しに見た、眩しい笑顔を思い出す。
――あなたにとって、音楽とは何ですか。
あの問いへの答えを聞くために、私はここにいる。迷っている場合じゃない。
私は封筒をしっかりと閉じ、その足でポストへと向かった。
ことん、と封筒が投函口に吸い込まれていく、小さな音。
「まぁ、私『ついている人間』だし。大体こういうのって、熱意が伝わればいけちゃったりするものなのでは……」
誰に向けるでもない言い訳を、ポストの前でひとり呟く。
根拠のない自信というものは、時にどんな理屈よりも強い力を持つ。少なくとも、今の私にとってはそう思わないとやってられなかった。
* * *
履歴書を投函してから、二週間が過ぎた。
結果はすぐに来るものだと、勝手に思い込んでいた自分がいる。
けれど待てど暮らせど、それらしい連絡が届かない。
ネットの海を漂い、時折あの配信のアーカイブを見返しては、画面の向こうの「何か」に胸を熱くする。そんな日々の中で、結果を待つ緊張感さえも、どこか他人事みたいに感じるようになっていた。
そして二週間後の夜。履歴書を投函したことなんて、忘れ始めていた頃。
スマートフォンに一件のメールが届いた。
差出人は、株式会社StellaRings。
件名――
「StellaRings所属4期生募集オーディション第一次選考結果について……うぇ!?」
震える指先で画面をタップする。
開いた瞬間、目に飛び込んできたのは、事務的な定型文だった。
『この度は弊社オーディションにご応募いただき、誠にありがとうございました。厳正なる審査の結果、誠に残念ながら――』
そこから先は、もう読む必要がなかった。
書類選考、落選。
たったそれだけの結果を伝えるために、無機質な文字が画面に並んでいる。
スマートフォンを握りしめていた手が、ゆっくりと膝の上に落ちた。
わかっていたはずだった。資格も特技も職歴もない履歴書で、通用するはずがないことくらい。
それでも、どこかで期待していたのだと思う。二週間という長い時間、返事を待ち続けてしまうくらいには。
音楽という才能を手放したとしても、私にも何かやれるんじゃないかって。
でも、蓋を開けてみれば、「ただの私」は本当に、何一つ持っていなかった。
窓の外はもう夕暮れで、オレンジ色の光が殺風景な部屋に長い影を落としていた。
(うぅ……どうすれば、どうすれば……)
椅子の上に膝を抱えて座り込みながら、私は小さくため息をついた。
憧れの人がいる世界へ、踏み出すためのスタートラインにも立ててはいない。
その事実に、私の心は圧し潰されそうになっていた。
もう少しだけシリアスで…




