第3話
あの日を境に、私は一切の「音楽」から遠ざかった。
グランドピアノの重たい蓋は閉ざされ、作曲ソフトのアイコンがクリックされることもなくなった。匿名の音楽クリエイター『Jane Doe』としてかつて生み出した楽曲たちが稼ぎ出す収入だけで、ただ無為に、息を潜めるように生きている。
あれから、もう二年が経とうとしていた。
夜の底のように暗い部屋の中。
高性能なPCモニターが放つ青白い光だけが、私を照らしている。 あてもなくネットの海を巡回しながら、私は底なしの無力感の中で自問自答を繰り返していた。
私は何故、音楽を始めたのか。
私は夢は、何だったか。
私は、何がしたかったのか
脳裏に蘇るのは、才能という残酷な壁の前で膝を折り、ただ音楽に焦がれて泣いていた前世の記憶。断片的ではあるけれど、確かにそこにある慟哭を、私は覚えていた。
『ああ、神様。音楽の才能を、私にください。夢を現実にできる才能を。想いを伝えられる才能を。幸せになれる才能を』
神様はどうして、私にこんな祝福を与えてくれたのだろう。
願い通りにすべての才能を与えられたのに、一番欲しかったはずのものだけは、どこにも見当たらなかった。 そしてそれが何だったのかも、もうあやふやになっていた。
私が手に入れた完璧な音楽は、他者を無残に踏み躙り、そして私自身の輪郭すらも消し飛ばしてしまった。
もう何度めかもわからない鬱屈とした溜息を吐き出し、マウスのホイールを弾いたとき。
ふと、ライブ配信中のひとつのサムネイルが目に留まった。
それは、『VTuber』と呼ばれる存在の、小さな3Dライブ配信だった。
音楽を遠ざけていたはずの私が、その配信を開いたのに、特に理由はない。
それは本当に、ただの気まぐれだった。
しかし、開いたその画面から流れてきた音に、私は釘付けになった。
技術面だけで言えば、お世辞にも完璧とは言えない。
ピッチもテンポも時折ブレていたし、ダンスのせいか不思議なところで息継ぎも入っている。今の私なら、一瞬で修正点を十個は指摘できる。サビまでたどり着かずに、ダメ出しをするレベルだ。
それなのに、私は画面から目を離せなくなっていた。
全身から溢れ出すような情熱が、画面越しにビリビリと伝わってくる。
コメント欄には、無数のペンライトの絵文字が滝のように流れ、歓声にも似た言葉たちが画面を埋め尽くしている。彼女が笑えばコメント欄も笑い、彼女が叫べばコメント欄も熱で応える。
不完全な歌声は、しかし間違いなく、無数の人々の心と強く繋がっていた。
そこには、私が手に入れられなかった「何か」があった。
完璧な音色で観客を圧倒し、ひれ伏させることはできても、こんな風に誰かと想いを共有し、心を震わせ合ったことなど一度もなかった。
気がつけば、私の頬をひとすじの涙が伝っていた。
分厚い氷に閉ざされていた胸の奥で、ドクン、と心臓が大きく脈打つ。
画面の中で眩しいほどの笑顔で歌い続ける彼女へ向けて、私の中の何かが強烈に叫んでいた。
ああ、あなたなら答えてくれますか。
あなたはどうして、そんなにも輝いているのですか。
あなたはどうして、そんなにも美しいのですか。
あなたにとって、音楽とは何ですか。
私に欠けているものは、何ですか。
――私ももう一度、私の音を好きになれるでしょうか。
純粋に音楽を愛し、誰かと心を震わせ合う喜び。
想いを伝え、夢を現実にするための魔法。
かつての私が一番に望んでいて、今の私が完全に見失ってしまったもの。
私はここで、本当に大切なものと再会できた気がした。
部屋の隅で埃を被っていたコンクールのトロフィーが、視界の端に映った。 もう、あんなものはいらない。空虚な賞賛はいらない。誰かを押し潰すだけの暴力なんてまっぴらだ。
私も、あんな風に誰かとつながりたい。
私も、あなたのようになりたい。
止まっていた私の世界が、動き出す音がした。
こうして、音楽家「 」は二度目の転生を果たしたのだ。




