3. 解決:文脈依存性の致死性
ロジちゃんは、僕の部屋の本棚から一冊の辞書を引っこ抜いた。
「先輩、日本語における指示代名詞『これ』の定義をご存知で?」
「馬鹿にするな。近称の指示代名詞だ。話し手に近い場所にあるものを指す」
「正解です。では、あの状況で、叔父さんにとっての『これ』とは何だったのか」
彼女は、まるで講義をするように歩き回る。
「少々回りくどいかもしれませんが、こういう場面に説明は不可欠です。
まず叔父さんは、カプセルを手に持っていました。つまり『これ』は、彼が選んだカプセルを指します。
では、『だから』は?
接続詞『だから』は、理由や根拠を示します。
『Aである。だから、Bである』。
Bが『このカプセルを選ぶ』という行為だとすれば、Aにあたる『根拠』は何だったのでしょう?」
僕は黙って彼女を見つめる。嫌な予感がしていた。僕が想定していた「完全犯罪」のシナリオに、致命的なバグがあるような気がしてならない。
「先輩、あなたはさっき言いましたね。『僕は嘘つきです』と宣言してから、ゲームを始めたと」
「……ああ、言ったよ」
「それが全ての敗因であり、叔父さんの死因です」
ロジちゃんは、憐れむような目で僕を見た。
「『私は嘘つきである』。これは有名なクレタ人のパラドックス、自己言及の矛盾です。
もしその言葉が本当なら、あなたは『嘘つき』なのだから、その言葉も嘘でなければならない。
もしその言葉が嘘なら、あなたは『正直者』ということになり、やはり矛盾する」
「そんな古典的なパラドックス、教授なら鼻で笑って無視するはずだ」
「ええ、論理学的には無意味な命題です。でも、現実の対話では意味を持つ。
叔父さんは、あなたのその『自己言及』を聞いて、ある一つの結論に達したんです。
『こいつは、論理パズルに見せかけて、単なる言葉遊びを仕掛けてきている』と」
彼女は一歩、僕に近づく。
「先輩は『右が解毒剤』と言った。
でも、叔父さんは気づいたんです。先輩の言葉、その『発話の構造』そのものにヒントがあることに」
どういうことだ?
僕は必死にあの時の会話を反芻する。
『右が解毒剤ですよ』。
『僕は嘘つきです』。
「いいですか、先輩。
叔父さんは、あなたが『どちらが解毒剤か』について嘘をついているか、本当のことを言っているか、それを推論しようとしたのではありません。
そんなものは水掛け論だと知っていたから。
叔父さんが注目したのは、あなたの『目的』です。
あなたは、叔父さんを殺したかった。それは間違いない。
でも、ただ毒殺するだけなら、黙って毒を盛ればいい。わざわざ二択のゲームを持ちかけたのはなぜか?
それは、あなたが『自分の知能を誇示したかった』から。
そして、『叔父さんに自分の敗北を悟らせてから死んでほしかった』からです」
図星だった。喉が渇く。
「プライドの高い先輩のことです。絶対に、論理的に解ける仕掛けを用意していたはずだと、叔父さんは信じた。運任せのゲームなんて持ちかけるはずがないと、あなたを信頼していたんです」
信頼。
殺人者に対する信頼。なんという皮肉。
「だから叔父さんは考えた。
『あいつは、私が正解を選べるようにヒントを出しているはずだ』と。
そこで重要になるのが、最初の宣言。『僕は嘘つきです』。
これを論理パズルではなく、単なる『指示』として受け取ったらどうなります?
『私の発言はすべて逆の意味である』というルール説明だとしたら?」
……あっ。
僕は息を呑んだ。
ま、待て。まさか。
「そう。先輩が『右が解毒剤』と言った。
そして『私は嘘つきだ(=私の言うことは逆だ)』と宣言した。
ならば、単純な論理演算として、
『右が解毒剤』の逆、つまり『左が解毒剤』が正解になる……と、叔父さんは導き出したんです」
そんな。
そんな馬鹿な。あまりにも単純すぎる。子供のなぞなぞじゃないか。
天下の論理学者が、そんな安直な裏読みに引っかかるわけが……。
「いいえ、引っかかります」
ロジちゃんは俺の心の内を読み切るように断言した。
「なぜなら、そう解釈しなければ、正解を導き出す論理的な道筋が存在しないからです。叔父さんは『正解があるはずだ』という前提を信じたがゆえに、その唯一の解である『単純な反転』を選ばざるを得なかった」
僕は呆然とした。
実際には、両方のカプセルに毒が入っていた。
右も左も、致死量の毒だ。
僕は最初から、ゲームをする気なんてなかった。ただ、悩んで死んでくれればそれでよかった。
だが、教授は……。
「叔父さんは、左のカプセルを手に取った。
そして、自分の推論に満足した。
『あいつは嘘つきだと宣言した。右だと言った。
――(右ではない、という推論が成立する。)
――だから、これ(左)でいい』」
ロジちゃんの声が、あの時の録音と重なる。
「あの最期の言葉は、人生への満足なんかじゃなかった。
単なる、論理パズルの『解答提出』だったんです。
『Q.E.D.』の代わりだったんですよ」




