第6話 昇進したらカエサルの天幕に飛ばされました その2
出発準備──監査チーム、歴史へ向かう
ゴンタが「ゼラの戦場へ行こう」と言い残して姿を消したあと、
フェンの個室には、しばらく誰も言葉を発せない沈黙が漂っていた。
ケンジは椅子にしがみつき、エミは書類を抱えたまま震えている。
エヴァは腕を組み、深い緑の瞳でフェンを観察していた。
フェンは机に両肘をつき、額を押さえた。
「……本当に、行くしかないのね」
ケンジが震える声で言う。
「Fe、フェンさん……あの……本気ですか……? 古代ローマですよ……?
ぼ、僕ら、言葉も通じないし、剣とか矢とか飛んできたら……」
エミも続く。
「そ、そうですよ……! 私たち、監査部ですよ……!?
“歴史の現場に行ってサインをもらう”なんて、そんな……!」
フェンは二人を見て、苦笑した。
「私だって行きたくないわよ。でも、他に方法がないの。
署名が読めなければ、文書の価値は落ちる。オークションは来月。
科学はダメ。残された道は……これだけ」
エヴァが静かに口を開く。
「合理的判断です。
“現代の科学で復元できない署名を、本人から再取得する”──
最短で、確実な方法です」
ケンジは叫んだ。
「合理的じゃないですよ!!」
エミも涙目で頷く。
「そうです! 合理的って言葉の意味、変わってませんか……!?」
フェンはため息をついた。
「……まあ、エヴァの合理性は、私たちのとはちょっと違うのよ」
エヴァは微笑んだ。
その笑みは美しいが、どこか底が見えない。
「では、出発準備に取りかかりましょう。
必要物資をリストと確認します」
フェンは腕を組んだ。
「そうね。まずは……水、応急処置キット、翻訳器……は使えないわね」
その瞬間、空気がふっと揺れた。
フェンは反射的に振り返る。
「……また勝手に現れたわね」
ゴンタが、いつの間にかフェンのデスクの横に立っていた。
エヴァが淡々と補足する。
「帰還後の報告書作成は私が担当します。
“時間移動による署名再取得”という前例のない案件ですから」
フェンは思わず笑った。
「頼もしいわね、エヴァ」
ゴンタが手を叩いた。
「じゃ、そろそろ行こうか。
ケンジ、エミ、フェン──手をつないで」
ケンジは震えながら手を差し出す。
「ひ、ひぃ……」
エミは泣きそうな顔でフェンの手を握る。
フェンは深呼吸をした。
(……監査役代理としての最初の仕事が、
“カエサルにサインをもらいに行く”なんて……
誰が予想できたのよ)
ゴンタが軽く指を鳴らした。
「じゃ、行くよ。ゼラの戦場へ」
世界が、光に包まれた。
◆ ゼラの天幕──カエサルとの対面と三語の奇跡
世界が光に包まれ、次の瞬間、
フェンの足元には乾いた土が広がっていた。
熱い風。
遠くで響く軍馬のいななき。
革と鉄の匂いが混ざった戦場の空気。
ケンジはその場にへたり込み、エミは悲鳴を飲み込んだまま固まっている。
フェンは深呼吸し、周囲を見渡した。
「……ここが、ゼラ……?」
ゴンタは軽く頷いた。
「うん。カエサルが勝利報告を書いてる頃だよ」
◆ ローマ兵たちの視線──異物を見る目
近くの天幕から、鋭い視線が突き刺さった。
ローマ兵たちだ。
筋骨隆々の兵士たちが、見慣れぬフェンたちを見てざわつき始める。
「Quis sunt isti?(こいつらは誰だ?)」
「Barbari?(蛮族か?)」
「Mulieres? Sed… vestis…(女? だが服装が……)」
「Fe、フェンさん……なんか、すごい見られてます……!」
エミは泣きそうな声で言う。
「こ、殺されませんよね……? ね……?」
フェンは二人の肩を押し、天幕の方へ歩き出した。
「大丈夫よ。ゴンタがいる限り、刺される前に止めてくれるわ」
「“前に”って言わないで!!」
◆ カエサルの天幕──歴史の中心へ
天幕の中は、外の喧騒とは別世界だった。
地図が広げられた大きな机。
戦利品らしき金属器。
そして──その中央に座る男。
ガイウス・ユリウス・カエサル。
白いトガの上に軍装を纏い、
鋭い鷲のような眼光で文書を見つめている。
その存在感は、歴史書の中の人物ではなく、
“今ここに生きている指揮官”そのものだった。
フェンは思わず背筋を伸ばした。
(……本物だ)
カエサルはゆっくりと顔を上げ、フェンを一瞥した。
その視線は、
“敵か味方か”を瞬時に見抜く将軍のそれ。
フェンは喉が乾くのを感じながらも、
ビジネススマイルを作った。
「失礼します。未来から来ました。
あなたの……その報告書について、少しご相談が」
カエサルは眉をひそめ、机の上の文書を示した。
「Hoc… non placet.(これが気に入らん)
Verba nimis longa sunt.(言葉が長すぎる)」
フェンは文書を覗き込み、思わず苦笑した。
「……ああ、わかります。
報告書って、つい長くなっちゃうんですよね」
ゴンタがフェンの腰をつついた。
「今だよ」
「つつかないで!」
カエサルは興味深そうにフェンを見た。
「Tu… consilium habes?(お前、何か案があるのか?)」
フェンは深呼吸し、
“監査役代理”としての覚悟を決めた。
「Imperator。
報告書は、短く、力強く、覚えやすい言葉が最適です」
カエサルは目を細めた。
「Exemplum?(例は?)」
フェンは微笑んだ。
「──『Veni. Vidi. Vici.』
来た、見た、勝った。
あなたの勝利を、最も端的に表す三語です」
天幕の空気が変わった。
カエサルの目が輝く。
「Veni… Vidi… Vici……
Pulchra sunt.(美しい)
Optime!(最高だ!)」
彼は勢いよくペンを取り、
新しい文書に三語を書き記した。
そして──
鮮明な署名を添えた。
フェンは胸を撫で下ろした。
(……やった)
ゴンタがすかさず言う。
「Imperator、すみません。
予備にもう一枚お願いします」
フェンは叫んだ。
「ちょっと! 図々しいわよ!!」
だがカエサルは笑い、
もう一枚書いてくれた。
「Duplicatio semper bona est.(複製は常に良い)」
フェンは二枚の文書を抱え、震えた。
(……これで、会社は救われる)
◆ 幕僚たちの反応──未来人への畏怖
天幕の外では、ローマ兵たちがざわついていた。
「Imperator ipse risit!(カエサル様が笑ったぞ!)」
「Illi… mulier… consilium dedit?(あの女が助言したのか?)」
「Miraculum est!(奇跡だ!)」
ケンジは震えながら言う。
「フェンさん……なんか、僕ら……崇められてません……?」
エミは真っ赤になっている。
「こ、こんなの……無理……!」
フェンは頭を抱えた。
「やめて……帰りづらくなるから……!」
ゴンタが手を叩いた。
「じゃ、帰ろっか。刺される前に」
「だから“前に”って言わないで!!」
◆ 帰還──そしてエヴァの“観測”
光が弾け、世界が反転する。
次の瞬間、フェンたちはオフィスに戻っていた。
エヴァが時計を確認し、静かに言う。
「予定通りですね」
フェンは文書を抱えたまま、椅子に崩れ落ちた。
「……その言葉、最近信用できないのよね」
エヴァは淡々と続けた。
「カエサルの筆跡、興味深いですね。
特に二枚目の署名は、彼が“気分が乗っていた”時の特徴が出ています」
フェンは固まった。
「……ちょっと待って。あなた、見てたの?」
エヴァは微笑んだ。
その笑みは美しいが、どこか底が見えない。
「監査役代理の行動は、監視対象ですので」
ケンジとエミが同時に叫んだ。
「こわっ!!」
フェンは頭を抱えた。
(……やっぱりこの人、ただの秘書じゃない)
エヴァは静かに言った。
「では、報告書の作成に取りかかります。
“時間移動による署名再取得”──前例のない案件ですから」
フェンは深くため息をついた。
「……次の仕事は、普通の棚卸しでありますように」
だが、エヴァの微笑みは──
その願いが叶わないことを、静かに告げていた。
◆エピローグ:予定通りの帰還と、前オーナーの影
光が弾け、世界が反転する。
次の瞬間、フェン、ケンジ、エミ、そしてゴンタは、
見慣れたオフィスの床に立っていた。
蛍光灯の白い光。
空調の低い唸り。
コーヒーの香り。
つい数秒前まで古代ローマの戦場にいたとは思えないほど、
日常が静かにそこにあった。
エヴァは微笑んだ。
その笑みは美しいが、どこか底が見えない。
「フェン・ワイルド監査役代理。
あなたがカエサルに助言した三語──
『Veni. Vidi. Vici.』
あれは非常に効果的でした」
エヴァは続けた。
「ところで監査役代理。
この文書──“前オーナー”の収集品だったことはご存じですか?」
フェンは目を瞬いた。
「前オーナー……?
吸血鬼城を買ってた、あの……?」
エヴァは静かに頷いた。
「ええ。
彼は“歴史的価値のある品”を多数所有していました。
今回のカエサル文書も、その一つです」
フェンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(……吸血鬼城に、カエサルの文書……?
前オーナー、いったい何者だったの……?)
エヴァは続ける。
「そして──前オーナーのコレクションには、
まだ“未確認の品”が多数あります」
フェンは嫌な予感を覚えた。
「……未確認って、どういう意味?」
エヴァは微笑んだ。
その笑みは、まるで“次の地獄”を予告するかのようだった。
「監査役代理として、
いずれ調査していただくことになるでしょう」
フェンは天井を仰いだ。
「……普通の棚卸しの週は、どこへ行ったのかしら」
ゴンタは楽しそうに笑った。
「大丈夫だよ、フェン。
次もきっと楽しいよ」
「楽しくないわよ!!」
ケンジとエミは同時に叫んだ。
「絶対楽しくない!!」
だがフェンは知っていた。
──次の地獄は、もうすぐそこにある。
そして、
“前オーナーの収集品”という言葉が、
静かに、確実に、次の物語への扉を開いていた。
時空監査調書 第R-02号
【内部機密:閲覧制限 A】
案件名
カエサル自署古文書の真正性確認および再取得業務
担当者
監査役代理:フェン・ワイルド/ 補助:ケンジ・ナカムラ、 エミ・ジョーダン
立会人
特任秘書:エヴァ・ グリーン
実施場所
現トルコ共和国ゼラ近郊(紀元前47年・ゼラの戦い直後)
目的
科学的分析不能な署名の「実在性」および「真正性」の確保
1. 監査手続の概要(実施内容)
本案件における署名の復元は、現代のマルチスペクトル解析(光の波長を変えて隠れた文字を見る技術)では限界があったため、**「現地現物主義」**に基づき、発行本人による再署名手続きを実施した。
証拠収集: 発行者(G.J.Caesar氏)に対し、文書の重要性を説明。
再発行: 冗長な表現を排した「Veni, Vidi, Vici」の三語による再作成を提案。
バックアップ: リスク管理(紛失・劣化対策)として、正副2通の署名を取得。
2. 監査役代理:フェン・ワイルドの結論
対象古文書は、発行者本人の目の前で記載・署名されたことを確認した。よって、本資産の**真正性(本物であること)は100%担保される。 なお、取得過程における「時間移動」および「歴史への介入」については、業務効率化のための最短ルート選択(最適化)**であり、コンプライアンス上の逸脱には当たらないと判断する。
3. 特任秘書:エヴァの追記
「フェン・ワイルド監査役代理の判断は極めて合理的であった。ただし、二枚目の署名取得時に見られた『図々しさ』については、今後の査定において『積極性』として評価するか『独断』として処理するか、慎重に検討を要する。
また、前オーナーの未確認コレクションについては、次週より順次調査を開始する」
【承認検印】 [ 済:特任秘書 エヴァ・グリーン] ※本調書は承認されました。修正は認められません。
(あーあ……。勝手に「済」にされてる。ていうか「図々しい」って何よ。会社を救うために必死で二枚目を頼み込んだっていうのに。……まあいいわ。とりあえず、今夜はオリーブオイルの匂いがしない、普通のパスタが食べたい)
あとがき
最後までお読み頂きありがとうございます。
次のお話は「フェンは恐竜の卵を監査できるか?」です。
お時間が有ればお読みいただければ嬉しいです。
よろしくお願いします。




