第5話 昇進したらカエサルの天幕に飛ばされました その1
休暇明けのオフィスと“見てはいけない写真”
◆ 休暇明けの朝
フェンはオフィスの椅子に深く腰を下ろし、タブレットに映る新しい案件のスケジュールを確認していた。
空調の低い唸りが、吸血鬼城の湿った石壁とはまるで別世界だと告げている。
「さて、ケンジ、エミ。今日から通常運転よ」
フェンは軽く伸びをしながら、二人に視線を向けた。
ケンジはまだ休暇ボケが抜けないのか、書類を抱えたまま所在なげに立っている。
エミはデスクに座り、ペンをくるくる回しながら、どこか落ち着かない表情だ。
フェンは苦笑した。
「大丈夫。今回は吸血鬼も人狼も出ない。ただの物流会社の棚卸し。紙と埃だけよ」
そう言いながら、タブレットを二人に向ける。
「ケンジは物品の実地棚卸し。エミは私と帳簿の照合作業。……ね? 普通の仕事でしょ?」
ケンジは小さく頷いたが、どこか言いたげに口を開きかけ──
そして、ふと「あっ」と声を漏らした。
フェンが眉をひそめる。
「何? 忘れ物?」
「い、いえ……その……」
ケンジはポケットを探り、何かを取り出した。
それは──出張中に撮られた一枚の写真。
巨大な黒い狼が“お座り”し、その前でリードを持つゴンタ(ゴンタ)。
まるで調教師のような姿。
フェンの表情が固まった。
「……ちょっと待って。なんでそれ持ってんのよ」
ケンジはしゅんと肩を落とす。
「す、すみません……エミさんが……記録係として……」
フェンはゆっくりとエミへ視線を向けた。
エミは天井を見上げ、口笛を吹いて誤魔化している。
「……エミ」
「は、はい……?」
「あなたの“記録魂”は尊敬するけどね。これは黒歴史を量産するだけの危険物よ」
エミは小さく肩をすくめた。
「だって……珍しい光景だったので……」
「珍しいからって撮るな!!」
フェンは写真をひったくるように取り上げ、頭を抱えた。
「お願いだから、今週こそ普通の仕事をさせて……」
その瞬間、社内電話が鳴り響いた。
エミが受話器を取り、少し青ざめた声で言う。
「フェンさん……監査役がお呼びです」
フェンは天井を仰いだ。
「……平和って、どうしてこんなに儚いのかしら」
監査役からの召集──昇進とエヴァの登場
◆ 昇進と新しい秘書そして.......新しいお仕事
フェン(フェン)は深呼吸をひとつしてから、監査役室の扉をノックした。
秘書がにこやかに扉を開ける。その笑顔の奥に、以前よりも明らかに強い敬意が混じっている気がした。
「どうぞ、フェン監査官。監査役がお待ちです」
部屋に入ると、監査役は柔らかな笑みを浮かべていた。
だが、その目は笑っていない。
フェンはその冷たい光を見逃さなかった。
「フェン・ワイルド監査官。座ってくれ」
フェンは姿勢を正し、椅子に腰を下ろす。
「呼び出しの理由は……棚卸しの件ではありませんよね?」
監査役はゆっくりと首を振った。
「いや、君の仕事に問題はない。むしろ優秀だ。だからこそ──今日の話がある」
嫌な予感が背筋を走る。
「次の株主総会で、私は専務取締役に選任される。事実上、会社のNo.2だ」
フェンは瞬きを忘れた。
「……おめでとうございます」
「ありがとう。だが、兼務は難しい。そこで──君を監査役代理に任命する」
空気が止まった。
「……代理、ですか?」
「そうだ。私の代行として、監査部門を統括してもらう」
フェンは喉が乾くのを感じた。
権限は増える。責任も増える。
そして──失敗したときの落下距離も増える。
監査役はインターフォンに手を伸ばした。
「それと、君には優秀な秘書を付ける。入ってくれ」
扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは──
黒髪の美女。白い肌。深い森のような緑の瞳。
まるで映画のスクリーンから抜け出したような、エヴァ・グリーンそっくりの女性。
その存在感は、部屋の空気を一瞬で変えるほどだった。
彼女はゆっくりと歩み寄り、微笑んだ。
その笑みは美しいが、どこか底が見えない。
「今日からあなたの秘書を務めます。エヴァです」
フェンは立ち上がり、握手を交わした。
──冷たい。
氷のように冷たい手。
そして、指先から伝わる妙な緊張感。
(……ただの秘書じゃないわね)
監査役は続ける。
「エヴァは秘書であり、秘書課長も兼ねている。管理職だ。つまり──君の仕事を全面的にサポートできる」
フェンは悟った。エヴァが言うなら、それは“可能”なのだ。
そして、彼の次の言葉が、すべてを決定づけた。
「詳細はエヴァから説明する。
じゃ、準備でき次第行ってもらおう。次の監査地へ」
フェンは天井を仰ぎ、静かに呟いた。
「……平和な棚卸しの週は、どこへ行ったのかしら」
◆古文書の真実──科学が敗北した日
フェンは自分の個室のドアを閉めると、深く息を吐いた。
監査役代理──その肩書きが、急に重くのしかかってくる。
机の上には、エヴァが映し出した古文書の写真。
カエサルがゼラの戦いの勝利を報告したとされる、歴史的価値の高い文書。
だが──その価値は、今まさに崩れ落ちようとしていた。
フェンは椅子に腰を下ろし、額に手を当てる。
「……署名が読めないだけで、ここまで価値が落ちるなんて」
エヴァが静かに頷く。
「オークションハウスは“真筆の証明”を最重要視します。署名が確認できなければ、価値は半減します」
ケンジが恐る恐る手を挙げた。
「あ、あの……科学的な復元は……?」
フェンは苦笑した。
「世界有数の専門家が総出でやって、全部失敗したのよ。
インクが紙の繊維に沈み込んで、背景ノイズと区別できないんだって」
エミが震える声で言う。
「じゃあ……どうしようもないってことですか……?」
エヴァが淡々と補足する。
「マルチスペクトル解析、蛍光分析、赤外線照射──すべて試されました。
しかし、署名部分の劣化が激しく、科学的手法では復元不可能と判断されています」
フェンは椅子にもたれ、天井を見上げた。
「……科学がダメなら、もう打つ手がないじゃない」
沈黙が落ちた。
ケンジは不安げに指をもじもじさせ、
エミは書類を抱えたまま固まっている。
エヴァは冷静だが、その瞳の奥に“監視役”としての鋭さが光っていた。
フェンは机を軽く叩いた。
「とにかく、できる限りの対策を洗い出すわ。
偽物の可能性は? 過去の所有者の調査は? 鑑定書の再発行は?」
エミが小さく手を挙げる。
「前のオーナー……怪しいルートで買ったって噂が……」
フェンは眉をひそめた。
「やっぱりね。あの人、吸血鬼城も買ってたし……」
ケンジが震えながら言う。
「じゃ、じゃあ……偽物の可能性も……?」
エヴァが即答する。
「ありません。素材、筆跡、年代──すべて本物と判定されています。
ただ、署名だけが……読めないのです」
フェンは机に突っ伏した。
「……なんで肝心なところだけ劣化するのよ……」
そのときだった。
部屋の空気が、ふっと揺れた。
フェンは顔を上げる。
「……え?」
次の瞬間、何の前触れもなく、
ゴンタがフェンのデスクの横に立っていた。
ゴンタの提案
ケンジが悲鳴を上げ、エミは椅子ごと後ろに倒れた。
フェンは叫ぶ。
「だから勝手に現れないでって言ってるでしょ!!」
ゴンタは悪びれもせず、文書の写真を覗き込む。
「ふーん……これが問題のやつ?」
フェンは呆れたように言う。
「ええ、そうよ。署名が読めないの。科学でも無理。
だから今、どうするか考えて──」
「じゃあ、本人に書いてもらえば?」
フェンは固まった。
ケンジは口をパクパクさせ、
エミは「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、
エヴァはほんのわずかに眉を上げた。
フェンはゆっくりとゴンタに向き直る。
「……あなた、今なんて言った?」
「本人に書いてもらえばいいじゃん。
カエサルに“もう一回サインして”って頼めば済む話でしょ?」
フェンは机を叩いた。
「済むわけないでしょ!!」
ゴンタは首をかしげる。
「なんで? 行けばいいじゃん。ゼラの戦場に」
フェンは頭を抱えた。
「あなたの“行けばいいじゃん”は、普通の人間には通用しないのよ!!」
だが──
フェンは知っていた。
ゴンタが言うなら、それは“可能”なのだ。
エヴァが静かに口を開く。
「……時間移動、ですか?」
ゴンタはにっこり笑った。
「そう。簡単でしょ?」
フェンは天井を仰ぎ、深く深くため息をついた。
「……平和な棚卸しの週は、どこへ行ったのかしら」
ゴンタ式ソリューション──最短距離は時間を超える
フェンは、ゴンタの言葉を理解するまでに数秒かかった。
「……ゼラの戦場へ?」
「うん。カエサルが勝利報告を書いた直後なら、サインも頼みやすいでしょ?」
ゴンタは、まるで近所のスーパーに行くような軽さで言う。
ケンジは椅子から転げ落ち、エミは書類を抱えたまま震えている。
「ちょ、ちょっと待ってくださいゴンタさん! 古代ローマですよ!? ぼ、僕ら、言葉も通じないし、剣とか飛んできたらどうするんですか!」
「エミ、エミ! 落ち着いて! 深呼吸して!」
ケンジは自分がパニックなのに、エミを落ち着かせようとして逆に混乱していた。
エヴァは腕を組み、静かにゴンタを見つめていた。
その瞳は深い森のような緑色で、まるで相手の本質を見透かすようだ。
「……時間移動が可能であるという前提で話しているのですね、ゴンタさん」
「うん。できるよ。フェンたちなら安全に送れる」
エヴァはわずかに眉を上げた。
「“フェンたちなら”……ですか。興味深い判断基準ですね」
フェンは頭を抱えた。
「ちょっと待って。あなた、簡単に言うけど……私たち、普通の監査チームなのよ?
古代ローマに行って、カエサルに“サインください”って言うの? 正気?」
ゴンタは首をかしげる。
「だって、それが一番早いし確実でしょ?」
フェンは机を叩いた。
「確実じゃないわよ!!」
だが──
フェンは知っていた。
ゴンタが“できる”と言うなら、それは本当に可能なのだ。
そして、監査役代理としての責任が、背中を押してくる。
(……署名が読めなければ、文書の価値は落ちる。
オークションは来月。科学はダメ。
残された道は……これしかないの?)
フェンは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「……わかったわ。行くしかないのね」
ケンジとエミが同時に叫ぶ。」
「えええええええええええええっ!!?」
フェンは二人を見て、肩をすくめた。
「私だって行きたくないわよ。でも、他に方法がないの」
エミは震える声で言う。
「で、でも……古代ローマって……服装とか……どうするんですか……?」
ゴンタは軽く手を叩いた。
「あ、それね。向こうに着いたらローマ兵の格好に変わるから大丈夫。
ケンジは油塗る準備しておいてね」
「なんで僕だけ!?」
フェンはため息をついた。
「……ローマ兵って、油塗るの?」
「うん。光沢が大事なんだよ」
「知らなかったわ……」
エヴァが静かに口を開く。
「出発はいつにしますか?」
フェンは腕時計を見た。
「……昼食の後にして。せめて最後のまともな食事くらいさせて」
ゴンタは満足げに頷いた。
「了解。じゃあ、準備できたら呼んでね」
そう言うと、ゴンタはふっと空気に溶けるように姿を消した。
ケンジは震えながら言う。
「……あの人、いつもああやって出入りしてるんですか……?」
フェンは椅子に崩れ落ちた。
「ええ。慣れたわ。慣れたくなかったけど」
エミは涙目で言う。
「フェンさん……本当に行くんですか……?」
フェンは苦笑した。
「行くしかないのよ。監査役代理として、ね」
エヴァは静かに頷いた。
「では、必要な物資のリストを作成します。
オリーブオイル、飲料水、応急処置キット……」
ケンジが叫ぶ。
「なんでオリーブオイルが一番なんですか!!」
フェンは笑いながら言った。
「ケンジ、覚悟しなさい。あなた、ローマ兵の“光沢担当”なんだから」
ケンジは絶望した。
エミは震えながらも、フェンの袖をつまんだ。
「……フェンさん。帰ってこれますよね……?」
フェンはエミの頭を軽く撫でた。
「大丈夫よ。ゴンタがいる限り、帰れないことはないわ」
そして、フェンは静かに呟いた。
「……問題は、帰ってきた後の監査報告書よね」
エヴァは淡々と答える。
「その点はご安心を。私がまとめます」
フェンは思わず笑った。
「頼もしいわね、エヴァ」
こうして──
監査チームは、歴史の渦へ飛び込む準備を始めた。




