第18話 契約したらニューヨークに派遣されました その6
暫定監査報告書の提出
専務室の扉の前。
フェンは暫定監査報告書と、もう一つの重要書類を手にしていた。
「……行くわよ。エヴァ」
エヴァは無言で頷いた。
扉をノックすると、すぐに返事が返ってきた。
「入れ」
フェンは扉を押し開け、
来客用テーブルに書類を静かに置いた。
「北米総本部監査報告書(暫定版)です。
裏帳簿、不正会計、消失事件、復元データの照合結果をまとめています」
専務は書類を手に取り、
ページをめくるごとに表情を変えていく。
「復元……本当に……?」
「事実だけを書きました。
“影喰い”については必要最低限に留めています」
専務は深く息を吐いた。
「……よくまとめてある。
君の報告書は、いつも無駄がない」
褒めているようで、
その実、何も感情を見せない“企業人の声”だ。
フェンは次の書類を差し出した。
「では、次に。
北米総本部の責任者に対する仮処分命令です。
アレクサンダー・クロウリー総本部長、マーカス・ケイン秘書課長、関与幹部数名を職務停止としました」
専務は黙って聞いている。
怒りではない。
計算が狂った時の“静かな反応”だ。
「……なるほど。
君の権限なら、確かに可能だ」
「規定に基づいて行いました」
専務は頷き、
しかしその目は笑っていない。
「だが フェン・ワイルド監査役。
北米総本部長席が空白になると、
“誰が”その空白を埋めるかが問題だ」
フェンは次の書類を静かに置いた。
「ジョナサン・レイエス副本部長を総本部長代理に指名しました。
本日より、彼が北米総本部の責任者です」
専務の指が、書類の端で止まった。
その動きはわずかだが、
彼の計画が崩れたことを示す“唯一のサイン”だ。
「……ジョナサン・レイエス副本部長を、か」
「ええ。
彼は監査に協力し、復元作業でも中心的役割を果たしました」
専務は書類を閉じ、
ゆっくりと組んだ指を顎に当てた。
「……君は、実に手際がいい。
だが フェン・ワイルド。
北米総本部は“私の管轄”でもある。
私の意向を無視して人事を動かすのは、
得策ではないと思うが」
フェンは微笑んだ。
その笑みは、毒と可愛さが同居したもの。
「専務。
“監査妨害の疑い”がある場合、
監査役は現地責任者の人事を即時決定できます。
これは本社規定です」
専務の目が細くなる。
怒りではない。
専務の心の声:
(この女は本当に厄介だ)
専務は書類を静かに閉じ、
しばらく沈黙した後、低く言った。
「私の後を継いだ者が、ここまで動くとは。
正直、計算外だよ」
フェンは微笑む。
「監査役は、必要な時に必要な判断をするだけです」
専務は目を細める。
怒りではない。
“この女は本当に危険だ”と理解した目だ。
「……なるほど。
君は私の想定よりもずっと速く、深く動く」
「光栄です」
ここで専務は初めて、
北米総本部長席を自分の影響下に置く計画が崩れた
と悟る。
しかし彼は決して声を荒げない。
むしろ、静かに次の一手を探る。
フェンが、ジョナサン・レイエス副本部長を総本部長代理に指名した書類を机に置いた。
専務は書類を静かに閉じ、
しばらく考えるように指を組んだ。
「……正式な北米総本部の体制は、
社長が出席する経営委員会で決めることになる。
それまでは、君の下した決定を尊重しよう」
フェンは微笑む。
「ありがとうございます。
業務継続のための暫定措置です」
専務は頷きながらも、
その目はまったく笑っていない。
◆エヴァと専務の契約
フェンは一枚の書類を取り出し、
専務の前に静かに置いた。
「専務。お時間をとり申し訳ないのですが、あと一件、お聞きください。
専務が監査役を務めておられた時代の“不正な契約”を発見いたしました。
ご確認と、対策のご承認をお願いします」
専務は余裕の笑みを浮かべたまま書類を手に取る。
「不正な契約?
私の契約に不備などあるはずがない。
何が問題だ」
フェンは淡々と告げた。
「エヴァの契約書です。
契約期間が記載されていません」
専務の指が止まる。
その瞬間、余裕の表情に 微細なひび が入った。
「契約期間?
それがなんだ?」
フェンは一歩前に出て、
まるで“法の刃”を突きつけるように言った。
「専務。
期間のない個人拘束契約は、米国契約法で“無効”です。
さらに、
FLSA(連邦労働基準法)
強制労働禁止条項
企業倫理規定
魔術契約の自由意思原則
すべてに抵触します」
専務の目が揺れた。
“自分の確信が崩れ始めた時の静かな動揺”。
「……私が……見落としたとでも?」
「はい。
ですので、専務にご確認いただくのが最適だと判断しました」
専務は書類を閉じ、
深く息を吐いた。
「……なるほど。
私の時代の契約か。
興味深い指摘だな」
声は静かだが、
その奥には 抑え込んだ怒りが確かにある。
専務は、心の中で呟いた。
(契約期間が漏れているのではない。期間に終わりはないのだから)
「だが、エヴァの能力は特別だ。
会社のためにも拘束は必要だ」
フェンは即座に切り捨てる。
「“会社のため”を理由にした拘束は、
米国法では最も重い違反 として扱われます。
専務。
この契約は、法的にも倫理的にも成立していません」
専務の表情が固まる。
ここで初めて、彼の余裕が完全に揺らいだ。
◆ゴンタの登場(“フェンの切り札”として)
その瞬間、
扉が静かに開いた。
ゴンタが姿を現す。
その後ろには、無言でついてくる影のような男――IRS主任税務調査官ミスター・ジョーンズ。
専務の目が細くなる。
「……ゴンタ。ジョーンズさん?
なぜ君達がここにいる?」
声は静かだが、
“予想外の戦力が現れた”ときの警戒 が滲む。
ゴンタは穏やかに微笑む。
「フェンが困ってたから。
それだけだよ」
専務の喉がひくつく。
“ゴンタが動いた”という事実そのものが脅威 だからだ。
◆ ジョーンズの“法的トドメ”(IRS の恐怖を最大化)
ジョーンズ は専務の前に書類を置き、
冷徹な声で宣告した。
「専務。
この契約は無効だ。
理由と、罰則を言うぞ」
専務の表情が強張る。
ジョーンズ:
「第一に、
永続拘束契約は“強制労働”として扱われ、
FLSA 違反により“刑事罰”の対象となる。
罰金は最大 1 万ドル、
悪質と判断されれば“禁錮刑”もあり得る」
専務の呼吸が止まる。
「第二に、
契約期間の欠落は“契約の不存在”と見なされ、
監査役としてのあなたの監督責任が問われる。
これは IRS の監査対象だ」
専務の顔から血の気が引く。
「第三に、
魔術契約の自由意思原則違反は、
“意思なき拘束”として即時無効だ。
これは議論の余地がない」
そして、
冷酷な宣告 が落ちる。
「以上より、
この契約は法的にも魔術的にも“完全に無効”だ。
専務、
あなたがこれを維持することは、
“犯罪行為の継続”と見なされる。
理解できるな」
専務は完全に折れた。
◆契約破棄 → エヴァの解放
専務は震える手で契約書を掴み、
しばらく沈黙した後、絞り出すように言った。
「……契約を……破棄する」
その瞬間、
契約書が消滅し、エヴァを縛っていた魔術的拘束がふっと消えた。
エヴァは目を見開き、
ゆっくりと フェンの前に跪く。
「フェン様……私は……自由に……?」
フェンは静かに微笑んだ。
「ええ。あなたは自由よ」
ゴンタはその横で、
「よかったね」と小さく呟いた。
◆専務、フェンたち退室後の“本性”
フェン、エヴァ、ゴンタ、ジョーンズ が退室し、
扉が静かに閉まった。
専務はしばらく沈黙し、
机の上の契約書を見つめたまま動かなかった。
そして――
ふっと、口元に苦笑を浮かべた。
「……やられたな。
まさか私の時代の契約を突かれるとは」
その声には怒りも焦りもない。
むしろ、
“興味”と“愉悦”が混ざったような静かな響き。
「だが……あれほどの切れ者が後任とは。
悪くない。
使いようによっては、実に面白い駒になる」
椅子にもたれ、天井を見上げる。
「フェン、エヴァ、そして……ゴンタ。
あれほどの戦力を丸ごと手に入れられれば……
北米総本部など端緒だ。それに私の目的遂行にも貴重な駒だ」
その目は冷たく光り、
“支配者の視線” に戻っていた。
「さて……次は社長だ。
北米総本部長の椅子は、まだ空いている」
立ち上がり、
スーツの襟を整える。
「経営委員会で、私に協力してもらう必要がある。
社長なら分かってくれるはずだ」
そう呟き、
専務は部屋を後にした。
◆ 退室後の三人
専務室を出た瞬間、
三人は同時に大きく息を吐いた。
「……終わったわね。
あの人、相変わらず圧が強いわ」
ゴンタは伸びをしながら笑った。
「フェン、すごかったよ。
専務の顔、途中から“石像”みたいになってた」
フェンは少しだけ得意げに顎を上げる。
「当然よ。
監査役を舐めてもらっては困るわ」
エヴァは胸の前で手を組み、
目を潤ませながら言った。
「フェン様……本当に、ありがとうございました。
私……自由に……」
フェンは エヴァの肩に手を当てた。
「あなたは今日から“自由な社員”よ。
好きに働きなさい。
好きに休みなさい。
好きに……ゴンタを叱りなさい」
「えっ、なんで僕が……?」
エヴァはほんの少しだけ微笑んだ。
しかし、エヴァの不安がふと漏れる
エレベーター前で、
エヴァが少しだけ声を落とした。
「……あのフェン様、
私はこれからどうなるのでしょう……
秘書課長の職務、役員の監視……
専務が、人事に介入されるのでは」
フェンは一瞬だけ表情を引き締めた。
「その可能性はあるわね」
「えっ、あるの?」
ゴンタが、驚いた。
「あるわよ。
専務は“人事”を武器にするタイプだもの。
エヴァを別部署に飛ばすくらい、平気でやるわ」
エヴァは小さく震えた。
「私はフェン様にお仕えしたいのです」
「大丈夫よ。
あなたを手放す気はないわ。
専務が何を企んでも、私が止める」
ゴンタも頷く。
「僕もいるよ。
フェンとエヴァはセットだから」
エヴァは少しだけ笑った。
「ありがとうございます。
お二人がいてくださるなら、頑張れます」
◆ 応接室:ゴンタの“お礼”と ジョーンズ の模範対応
ゴンタは深呼吸して扉をノックした。
ジョーンズは静かに缶コーヒーを飲んでいた。
「入れ」
ゴンタは紙袋を抱えたまま入室した。
「ジョーンズさん!
さっきは フェンを助けてくれてありがとうございました。
これ、召し上がって下さい」
ジョーンズ は紙袋を見て、
一瞬だけ眉を上げた。
「……コーヒーとドーナツか」
「はい、
きな粉ドーナツとブラックのモカです」
ジョーンズ は静かに言った。
「ゴンタ。
IRS の調査官は“利益供与”を受け取れない。
規定だ」
「そうですか。……失礼しました」
しかし ジョーンズ は続けた。
「だが――
“感謝の気持ち”は規定の対象外だ。
それは、受け取る側の姿勢で決まる」
ゴンタが顔を上げる。
ジョーンズ は紙袋を丁寧に受け取った。
「これは“賄賂”ではない。
“礼節”だ。
私はそれを正しく扱う」
「よかった……!」
フェンと エヴァが後ろから覗き込む。
フェンがジョーンズを揶揄う。
「……あなた、本当に受け取ったのね」
「規律に反しない範囲で、だ。
それに――」
ジョーンズ は ゴンタを見て、
ほんのわずかに口元を緩めた。
「彼のような人間の善意を拒むのは、
むしろ非礼だ」
エヴァは静かに頭を下げた。
声は落ち着いていて、感情を抑えている。
「ジョーンズ主任税務調査官、
ご配慮、感謝いたします」
ジョーンズ は軽く頷いた。
「あなたも、よく頑張ったな。
フェンの側で」
エヴァの表情は変わらない。
しかし、ほんの一瞬だけまつげが震えた。




