第16話 契約したらニューヨークに派遣されました その4
◆ ジョナサン・レイエス副本部長、最後の諫言
北米総本部長室の前。
重厚な扉の前に立つレイエス副本部長(以下副本部長と記します)は、深く息を吸い込んだ。
胸の奥に、嫌な予感がこびりついて離れない。
――今ならまだ、引き返せる。
そんな甘い声を、彼は自ら振り払った。
ノックの音が静寂を裂く。
「……入れ」
低く、乾いた声。
アレクサンダー・クロウリー総本部長(以下総本部長と記します)の機嫌が最悪であることは、扉越しでも分かった。
副本部長は覚悟を決め、扉を押し開けた。
総本部長は椅子に深く腰掛け、書類を指先で叩いていた。
その横には、腹心のマーカス・ケイン秘書課長。
二人とも、まるで“来るべき客”を待ち構える獣のような目をしている。
「クロウリー総本部長。
明日の面談について、再度ご再考をお願いしたく――」
「却下だ」
一拍の間もなく切り捨てられた。
「しかし、今回の監査は――」
「私は、あの監査役どもに“好き勝手”をさせるつもりはない。
君も、いい加減こちら側に立つべきだろう」
マーカス・ケイン秘書課長(以下秘書課長と記します)が薄く笑う。
その笑みは、勝利を確信した者のそれだった。
「……クロウリー総本部長。
このままでは、事態は取り返しのつかない方向へ――」
「取り返しがつかなくなるのは“あちら”だよ」
その声は、氷のように冷たかった。
総本部長は立ち上がり、窓の外を見下ろした。
夜の街を眺めながら、独り言のように呟く。
「明日、彼らには“相応の処遇”を受けてもらう。
証拠も記憶も、すべて消えてもらう」
秘書課長が副本部長に近づく。
「準備は整っております。
“影”も……なんとか、制御できるはずです」
副本部長の背筋に、冷たいものが走った。
――影喰い。
総本部長が密かに使っている“危険な力”。
その存在を知る者は、ごくわずかだ。
「明日の面談。
私は“勝つ”つもりで臨む。
君も、邪魔をしないことだ」
副本部長は唇を噛みしめた。
この男は、もう止まらない。
部屋を出た瞬間、副本部長は壁に手をついた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
――このままでは、フェン監査役たちは“消される”。
彼は震える手で眼鏡を押し上げ、
ただ一つの決断に至った。
フェンたちに、すべてを伝えなければならない。
彼らを守るために。
そして、会社そのものを守るために。
副本部長は踵を返し、
監査チームの待つ会議室へと歩き出した。
その足取りは、迷いのないものだった。
◆ フェン、ゴンタ、エマ 北米総本部へ
まだ始業時間には少し早い北米総本部。
広いロビーは、朝の冷たい空気に満たされていた。
自動ドアが開く。
フェン、ゴンタ、そしてエマ。
三人は迷いのない足取りで総本部へと入っていく。
その姿は、まるで“戦場に向かう将”。
周囲の社員たちは、思わず道を開けた。
昨日、あれほど敵意をむき出しにしていた秘書課長が、
今日は別人のように深々と頭を下げた。
「フェン・ワイルド監査役、皆さま。
本日はお越しいただき誠にありがとうございます。
クロウリー総本部長がお待ちしております」
その声は丁寧すぎるほど丁寧。
しかし、目だけが笑っていない。
ゴンタは小声で囁く。
「……気持ち悪いくらい丁寧だね。
昨日の態度はどこ行ったんだろ」
フェンが囁く。
「“準備が整った”ということです」
エマが緊張で喉を鳴らす。
秘書課長は、まるで“獲物を案内する執事”のように、
ゆっくりと三人をエレベーターへ誘導した。
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やがて、エレベーターが静かに停止する。
扉が開くと、そこは昨日とは違う空気が漂っていた。
廊下には誰もいない。
まるで“この階だけ隔離されている”かのような静寂。
「こちらへどうぞ。
クロウリー総本部長は、皆さまを心よりお待ちしております」
秘書課長の“心より”が、
これほど不気味に聞こえたことはなかった。
総本部長室の扉の前に立つと、
秘書課長は一歩下がり、恭しく手を広げた。
「どうぞ、お入りください。
総本部長は、すでに“準備万端”でございます」
フェンは一瞬だけ目を閉じ、
深く息を吸った。
「行きましょう」
三人は扉に手をかけた。
――この扉の向こうに、
総本部長の“絶対的な自信”と“仕掛けられた罠”が待っている。
◆ クロウリー総本部長との対面
――静かすぎる部屋、動かない空気
秘書課長が恭しく扉を開けた。
総本部長室は、異様なほど静かだった。
空調の音すら聞こえない。
まるで“音が吸い込まれている”ような空間。
フェン、ゴンタ、エマの三人は一歩踏み入れた。
総本部長は、背もたれに深く座り、
まるで“王座”にいるかのような姿勢で彼らを見下ろしていた。
その横には、腹心の秘書課長が立つ。
昨日とは違い、完璧な笑みを貼り付けている。
総本部長が鷹揚に声をかける。
「ようこそ。
遠路はるばる、本社監査部の皆さん」
声は穏やか。
しかし、その穏やかさが逆に不気味だった。
「お時間をいただき、ありがとうございます。
本日は、北米総本部の監査に関するご説明と、
いくつかの確認事項を――」
「ええ、ええ。
“確認したいこと”があるのは、こちらも同じです」
その言葉に、エマが小さく肩を震わせた。
ゴンタはフェンの横で、無言のまま周囲を観察している。
ゴンタ(心の声)
(……逃げ道を塞ぐための配置だ)
総本部長は指を組み、ゆっくりと笑った。
「まずは、あなた方の“熱心な活動”に敬意を表したい。
裏帳簿の件……実に興味深い」
「ご存じでしたか」
「もちろん。
あなた方がレイエス副本部長と接触したことも、
昨夜、どこで何を話したかも」
エマの顔色が変わった。
フェンは微動だにしない。
「監査官の安全を守るためですよ。
“あなた方のため”です」
その言い方は、明らかに嘘だった。
だが、あまりに堂々としているため、
嘘にすら聞こえない。
秘書課長がいやらしく言う。
「本日は、総本部長が“特別な準備”を整えております。
どうぞ、肩の力を抜いてお話しください」
ゴンタが皮肉る。
「……特別な準備、ね。
昨日は追い返そうとしてたのに、今日は歓迎ムード?」
「ええ。
“すべてが整った”ので」
その言葉に、エマの手が震えた。
フェンはそっとエマの前に立ち、視線を遮る。
「本題に入りましょう。
裏帳簿の件について、クロウリー総本部長のご説明を伺います」
総本部長は、ゆっくりと立ち上がった。
「説明なら、すぐに終わる。
あなた方が持っている“証拠”も、
あなた方の“記憶”も――」
総本部長が一拍置いて、笑う。
「今日、ここで“処理”される」
エマが絶句する。
「っ……!」
ゴンタが退屈そうに、
「やっぱり、そう来るか」
フェンは一歩も引かず、静かに総本部長を見据えた。
「……その“処理”とやら。
私たちが黙って受け入れると思いますか」
「受け入れなくて結構。
“受け入れたようにする”だけですから」
その瞬間、
部屋の空気が――揺れた。
まるで“影”が、床の下で蠢いたように。
エマが叫んだ。
「監査役……!」
「落ち着いて」
総本部長は、勝ち誇ったように微笑んだ。
「さあ、始めましょうか。
本社監査部の皆さん。
あなた方の“最後の面談”を」
◆ フェン、静かに反撃の口火を切る
――総本部長の宣告を受けて
「今日、ここで“処理”される」
総本部長のその言葉が落ちた瞬間、
エマの呼吸が止まり、ゴンタの眉がわずかに動いた。
だが――フェンだけは、まるで予想していたかのように微動だにしなかった。
「……なるほど。
つまり総本部長は、
“監査官を危険に晒す”と明言されたわけですね」
総本部長の笑みが、わずかに揺れた。
「私たち本社監査部は、
“監査官の安全が脅かされた場合”
即時に本社危機管理局へ報告する義務があります」
「……義務?」
「ええ。
そして本社危機管理局は、
“監査妨害の疑い”が発生した時点で
監査対象の全データを凍結し、
関係者の行動を制限します」
ゴンタが小さく口角を上げた。
「つまり総本部長。
あなたが今ここで私たちに危害を加えれば――
北米総本部そのものが“監査妨害”として即時ロックされる」
総本部長の指が、机の上で止まった。
「それに……“記憶を消す”とは興味深い表現です」
秘書課長と総本部長は絶句する。
「……!」
「監査官の記憶を操作しようとした、
という事実そのものが“重大な監査妨害”です。
本社は、そうした行為を最も重く扱います」
「……脅しのつもりかね?」
「脅しではありません。
規定です」
淡々と、静かに。
だが、フェンのその言葉は鋭い刃のように部屋の空気を切り裂いた。
「……君は、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「もちろんです。
私は“監査役”ですから」
エマがその背中を見つめ、
恐怖よりも“安心”の色を浮かべた。
ゴンタが口を出す。
「フェンはね、こう見えて“本社の切り札”なんだよ」
フェンは一歩前に出る。
「クロウリー総本部長。
あなたがどれほど自信をお持ちでも構いません。
ですが――」
一拍置いて、静かに告げる。
「私たちは、あなたの“処理”を受けに来たのではありません。
“監査”をしに来たのです」
その瞬間、
総本部長の目が、初めて“怒り”ではなく“警戒”に染まった。
◆ フェン、証拠書類を突きつける
――監査役の本領発揮
フェンは静かに鞄を開き、
厚みのある封筒を取り出した。
机の上に置く音が、
部屋の空気を震わせる。
「クロウリー総本部長。
こちらが“裏帳簿の一次証拠”です。
あなたが保管しているはずの原本を、
今ここで提出してください」
総本部長の眉がわずかに動いた。
秘書課長がフェンの言葉を遮る。
「フェン監査役、それは――」
「黙りなさい。
あなたに発言権はありません」
秘書課長の顔が引きつる。
――しかし、その瞬間
秘書課長は、
机の下に隠した“何か”へ手を伸ばした。
エマがそれに気付き、
「監査役、危ない――!」
だが、
秘書課長の腕が――
空中で止まった。
まるで時間が凍りついたように、
指一本動かせない。
「……っ!? な、なぜ……身体が……!」
ゴンタが、フェンの横で指を鳴らし終えていた。
「動かないで。
“待て”」
その声は穏やかだが、
絶対に逆らえない“命令”のように響いた。
――人狼調教の極意を見た!
「す、すごい……!
これが噂に聞いた……
人狼調教の“待て”の極意……!」
「いや、違うよエマちゃん。
これはただの“固定”で――」
「ゴンタさん、尊敬します……!
あの秘書課長さん、完全に“服従状態”ですよ……!」
「ふ、服従……!? 私はそんな……!」
秘書課長が動こうとする。
しかし身体は一ミリも動かない。
ゴンタは困ったように笑う。
「……まあ、結果的には似たようなものかな」
「ゴンタ、固定はそのまま。
彼は証拠隠滅の可能性がある」
「了解」
――逃げ道を塞ぐ
フェンは証拠書類を指で叩きながら、
総本部長に一歩近づいた。
「クロウリー総本部長。
原本を提出してください。
提出できない理由は――
“あなたが裏帳簿の作成に関与しているから”
でよろしいですね?」
「……言いがかりだ」
「では、原本を出せばいいだけです」
総本部長の喉が、わずかに動いた。
「出せないのですか?」
沈黙。
「出せないのですね」
総本部長は無言のままだ。
「……!」
「監査役として、正式に記録します。
“北米総本部長、裏帳簿原本の提出を拒否”」
その瞬間、
総本部長の余裕が――
初めて完全に崩れた。
――その瞬間、空気が“沈んだ”
フェンが原本提出を迫り、
秘書課長がゴンタの“待て”で固定されたまま動けずにいる。
総本部長の顔から余裕が消え、
焦りが滲み始めた――その時だった。
部屋の空気が、突然“沈む”。
エマの体が震えた。
「……え? 今、部屋が……暗く……?」
ゴンタが訂正する。
「違う。
“光が吸われてる”んだ」
フェンは即座に周囲を見渡した。
床の影が――
揺れた。
まるで液体のように、
黒が黒を飲み込みながら広がっていく。
秘書課長が恐怖で怯えた。
「ひ、ひぃっ……! な、なんだこれは……!」
固定されているため逃げられない。
その恐怖が、彼の顔を蒼白に染めた。
フェンが裏帳簿原本の提出を求めた瞬間、
部屋の空気が沈んだ。
床の影が揺れ、
黒い霧が立ち上がる。
ゴンタが少し前に出た。
総本部長は困惑したままだ。
「なぜだ……! まだ呼んでいない!」
ゴンタが総本部長に教えてやる。
「呼んだのはあんたじゃない。
あんたの“不正”だよ」
影は金庫の方へ向き、
黒い霧が金属を舐めるように広がった。
――“影”が形を持ち始める
「来たか」
「なぜだ!
制御は……制御はしているはずだ……!」
「違うよ総本部長さん。
あれは“呼ばれる”んじゃない。
勝手に“来る”んだ。あんたの制御は効かない」
床の影が盛り上がり、
人の形とも獣の形ともつかない“黒い塊”が立ち上がる。
輪郭は曖昧で、
見ているだけで“情報が削られる”ような感覚が走る。
エマはフェンの側で震えていた。
「……っ……!
目が……焦点が合わない……!」
「見ないで。
“存在の輪郭”が人間の認識を壊す」
ゴンタは、フェンとエマを庇うように影の前に出る。
影喰いは、音もなく立ち上がった。
その動きは、まるで“影が影のまま歩く”ようだった。
――クロウリー総本部長の制御は完全に崩壊
影喰いの足元から、
黒い波紋が広がる。
秘書課長の足元に影が伸びる。
「や、やめろ!
来るな……来るなぁぁぁ!」
だが身体は動かない。
ゴンタの“固定”が効いているのではない。
影喰いの存在が、動くという概念を奪っている。
「クロウリー総本部長。
あなたの“切り札”は、
あなたを守る気はないようですね」
「……っ!」
影喰いが、
総本部長の足元の影と“繋がった”。
その瞬間――
部屋の温度が一気に下がる。
「フェン、エマちゃん。
ここからが本番だよ」




