第六話:影からの伝言
その村は、まるで笑い方を忘れてしまったかのような大地の上に佇んでいた。
立ち並ぶ木造家屋の屋根は分厚い緑の苔に覆われ、狭い路面は濃密な黒泥で満たされている。朝の濃霧は、太陽が地平線高く昇り始めてもなお、留まり続けていた。俺たちの乗った馬車は、風に煽られて傾いた古い木製看板の掲がる小料理屋の前に静かに停車した。暖簾の奥からは、アサの葉のスープと安物の塩漬け肉の匂いが、湿った薪や炭の燻る臭いと混ざり合って漂ってくる。
御者席から先に飛び降りたミラは、スカートについた埃を払い、灰色のローブを整えた。
「小さな子供の行方を聞き回る前に、まずは情報収集よ」彼女は声を低く潜めて言った。
俺は頷き、コロの首筋を優しく叩いてから、店の脇の木柱に手綱を結びつけた。
「いい? 聞くだけよ、自分から尋ねちゃダメ。こういう国境沿いに住み着く連中は、余所者に対する警戒心が異常に強いんだから」ミラが最後に念を押す。
店内へと足を踏み入れる。薄暗い店内は、西側の小窓から差し込む一筋の陽光が、宙を舞う埃を照らし出しているだけだった。汚れたカウンターの奥では、一人の老人が数秒間こちらを凝視したあと、使い古された布切れで素焼きの壺を拭く作業に戻った。
「食っていくかい? それとも噂話かい?」老人は俺の目を見ようともせず、淡々とした声で尋ねた。
「両方よ」ミラは即座に答え、木製 counters 上に二枚の銅貨を置いた。「温かいスープと温かいお茶を。残っていればでいいわ」
「あるよ」老人はかすれ声で呟くと、一歩踏み出すたびに軋む板張りの床を重い足取りで奥へ向かった。
俺たちは部屋の最も暗い隅の席を選んだ――光が届かず、それでいて低い声で会話を交わす地元の男たちの席から絶妙な距離を保てる場所だ。俺たちの来店は彼らを刺激しなかった。誰も振り返りもしない。室内には木さじの当たる音と、空気をつぶすような微かな呟きだけが満ちていた。
「昨日の夜、三人の騎手が通り過ぎたぞ」荒々しいクマの皮ジャンパーを着た男の一人が言った。「二輪の大きな馬車を引いていた。一頭の足が挫けていたな、無理に走らせたせいだ」
「何か値打ちもんでも積んでたのか?」連れが身を乗り出して尋ねる。
「値打ちもんだと? ありゃ政治犯の類だな。馬車の後部の部屋にガキが隠されていた。木の隙間から、啜り泣く声が聞こえたんだ」
ミラが横目でちらりと俺を見たが、俺は平静を装い、店主が運んできた温かいお茶に口をつけた。
「南の領地から動いてきたって噂を聞いたぜ」皮ジャンパーの男が続け、その声は急激に囁き声へと落ちた。「話によれば……王都からの正式な命を受けた密使らしい。ゼフィール宰相の直属の配下だとか」
カチッ。
俺の手の中で、木さじがピタリと止まった。
ミラは深く頭を下げ、ローブのフードの影に表情を隠しながら、普通の人間には聴き取れないほどの小声で囁いた。「その情報が正しければ……ルナ姫様はミストラリス城の意向で直接誘拐されたということね」
「そして、姫様の立場が安全だということは決して意味しない」俺は冷たく返した。「ゼフィールが王家の血筋を生かしておくはずがない」
その時、俺は部屋の隅からの尋常ではない視線を感じ取った――誰かが、俺たち二人の動向を長時間観察している。
濃い灰色のフード付きローブを纏った一人の女性が、曇ったガラス窓の近くに一人で座っていた。目の前の茶杯には一切手を触れていない。顔はフードの影に深く隠されていたが、鋭い光を放つその双眸は、見覚えのある監視の視線を放っていた。
俺はその視線の主を、理性が否定するよりも早く識別していた。
ローズ。
俺は短く息を止め、心拍数を強制的に一定に保った。このような場所で軽率な行動は許されない。ローズのような暗部騎士がこんな辺境にいるということは、俺たちが直面している状況が、最悪の想定よりも遥かに深刻であることを意味していた。
俺の気配の変化に気づいたミラが、視線の先を追う。「あのアッシュグレーのフードの女性……知り合いなの、アブディ?」
「……昔な」俺は掠れた声で短く答えた。
灰色のフードの女性は、俺に向かって僅かに頭を下げた――城の人間だけに伝わる暗号の所作――そして静かに席を立った。俺たちのテーブルの脇を通り抜ける際、他の客には決して見えない洗練された動作で、木製テーブルの端に何かを置いた。
小さく折りたたまれた、一枚の紙切れ。
彼女の唇から言葉は漏れなかった。別れの視線すらない。ただ、どんな冗談よりも重く押し潰すような絶対の静寂だけが残された。
店の木製扉が彼女の背後で静かに閉まるや否や、俺はその小さな紙切れをむしり取り、素早く開いた。紙面には、流麗な手書きの文字で、たった一行の警告だけが記されていた。
『この地で狩りをしている勢力は、奴らだけではない』
俺はその紙を再び折りたたんで衣服の内に忍ばせると、ミラの瞳をまっすぐに見据えた。「すぐに動くぞ、ミラ。日が完全に落ちる前に、この村は血生臭い狩場と化す」
店の外から、コロの短く低い嘶きが聞こえてきた。馬もまた、俺が口にした嫌な予感を察知したかのようだった。境の村の上空は未だ淡い蒼色に包まれていたが、俺の嗅覚は既に空気中に漂う濃厚な鉄の匂いを捉えていた――大風の訪れか、流血か、あるいはその双方か。
ミラは席から立ち上がり、手際よくローブのフードの位置を整えた。「目的地はどこ?」
「北の果てだ」俺は村の街道を覆い始めた霧を突き抜けるように大股で歩み出しながら、きっぱりと答えた。「逃走ルートとローズの伝言からして……あの忌々しい馬車が最後に目撃されたのはそこだ」
俺たちは素早く店を後にした。しかし、先ほど灰色のフードの女性が座っていた窓の隅には、小さな灰色の布切れがゆるんだ木釘にわざと引っ掛けられて残されていた――ローズが確かに俺を監視するためにそこに存在していたという、物言わぬ証拠。
俺たちは村を横切り、北の果てに佇む古い森の小道へと向かった。濃い霧が急速に降りてきて、かつて淡い茜色だった夕空を残酷な灰黒色へと塗り替えていく。森の奥へと続く小道は不気味なほどに静まり返り、聞こえるのは俺たちの足音と、靴底の下で折れる枝の音だけだった。
「アブディ、ここで二手に分かれるわ」植生の境目で、ミラが唐突に足を止めた。
俺は反射的に足を止め、彼女を振り返った。「なぜ突然だ? 標的は目と鼻の先だぞ」
「あなたと一緒にあの中へ忍び込むわけにはいかないからよ」ミラは真剣な面持ちで、ローブの影から顔を覗かせた。「この村の周囲にはあまりにも多くの裏の密偵が蠢いている。見知らぬ二人が同時にあの木造小屋へ向かえば、あなたの襲撃計画は破綻するわ。私は外に残り、遠くから状況を監視する。万が一のことが起きれば、すぐに察知できるわ」
俺は少し沈黙したあと、彼女の戦術的な判断に納得して頷いた。「北側に潜伏しているという情報の確信は?」
「最後の情報屋が、今日の夕方、誘拐犯の馬車がそこに止まるのをこの目で確かめているわ。街道の行き止まり、森の境界線にある捨てられた古い木造小屋よ」
ミラはローブの内側から、年月の経った古い革布で厳重に包まれた何かを取り出した。
「これを持っていきなさい」彼女はそれを俺の両手へと差し出した。「昔、国境で私の命を救ってくれた亡き男の短剣よ。城の騎士が使う剣としては短いかもしれないけれど、重量のバランスは完璧よ。素早い素押しや立ち回りの邪魔にはならないはずわ」
俺はその短剣を両手で受け取った。革の包みをわずかに捲ると、鋼の刃が夕闇の僅かな光を反射し、冷たい銀色の輝きを放った。
「こんな貴重な獲物を、俺に預けていいのか?」
「こういう殺傷能力の高い獲物はね、使うべき時を熟知している男の手にある方が遥かに役に立つのよ」ミラは淡々としていながらも、深い意味を込めた声で言った。「そして何より……無駄な血を流さずに鞘に収める時を知っている男の手にね」
俺たちはしばしば沈黙し、渓谷から吹き下ろす冷たい夜風にローブをなびかせた。
「もし俺が、あの小屋から戻らなければ――」
「その縁起でもない言葉を最後まで口にしたら許さないわよ、アブディ」ミラの瞳が突如として鋭く輝き、俺の魂を射抜いた。
俺は短く息を吐き、口元に僅かな微笑を浮かべた。「分かった。……もし俺が戻るのが遅れたら?」
「あんたの戻りが遅れたらね」ミラは背を向けながら言った。「中にいるロクデナシどもが、この世から逃げ出す時間すら与えずに、私の手で引導を渡してやるわ」
彼女は俺の肩を強く叩いて気合いを入れると、素早い足取りで森の木々が作る濃霧の奥へと消えていった。
俺はミラの背中が完全に霧に飲み込まれるまで見送った。それから、彼女から受け取った短剣の柄を固く握りしめ、指先でその重量バランスを確かめた。完璧だ。冷たい。まるでこの鋼の刃もまた、これから迎える夜が並の夜ではないことを察知しているかのようだった。
――待っていてください、姫様。
俺は声もなく、北の森の暗闇の中へと疾走した。




