第五話:窓越しの囁き
世界の反対側では、深遠な夜の闇が原生林の片隅に佇む小さな村を完全に飲み込んでいた。倒れかけの木造家屋が肩を寄せ合うように建ち並び、その壁面は煤と分厚い苔によって黒く変色している。
村の最奥に位置する一軒の廃屋では、数本の松明の光が不安気に揺らめいていた。油汚れのひどい木製テーブルを囲み、三人の男が腰を下ろしている。テーブルの上には、使い古された一枚の大地図と食い散らかされた飯の残骸が散らばっていた。
「へっ、あのルクス渓谷の地獄絵図を掠り傷一つなく抜け出せるたぁな」ドレッドヘアの男がパイプに火をつけながら吐き捨てた。
「ハッ! お前のその小さな脳みそじゃ、ろくな考えも浮かばんであろうよ!」隣に座る痩せ型の男が嘲笑う。「俺があらかじめ準備しておいた腐肉の餌がなけりゃ、今頃あの黒狼の群れにお前ごと細切れに食い散らかされてたんだよ!」
痩せた男は汚れた人差し指で、部屋の隅に転がされた麻袋を指さした。麻の網目からは未だに赤い血が滴り落ち、床板を濡らしている。
「あの実験獣どもは腐敗臭に目がない。純血馬の血に漬け込んだ腐肉だ。二切れ投げれば動きが止まり、三切れ投げれば大人しく去っていくのさ」
三人目の男――仲間二人よりも遥かに冷静で冷酷な佇まいを見せる、引き締まった体躯と鋭い眼光を持つ男は、二人の会話には加わらず、ただじっとテーブルの地図を見つめていた。彼こそが、この誘拐作戦の首謀者であった。
「その忌々しい狼どもの無駄話はそこまでにしろ」首領が低い声で割り込んだ。声調は淡々としていたが、抗い難い威圧感が込められている。「俺たちの仕事はまだ終わっていない。朝が来る前に、手ぬかりを起こす奴は容赦せん」
彼は屋敷の奥へと続く廊下の突き当りにある小さな木製ドアへ、鋭い視線を向けた。
「……ガキの様子は?」
「部屋の中に閉じ込めてありますよ。安心してください、ボス」痩せた男が素焼きの壺から水を飲み干しながら答えた。「ただのガキです。パニックになって喚き散らしてましたが、疲れて勝手に静かになりましたよ。両手も縄で厳重に縛ってあります」
報告を聞いても、首領の表情が和らぐことはなかった。「宰相の使いが到着するまで、その状態を維持しろ」
首領が外の警戒に向かうため部屋を出ると、残された二人は再び声を潜めて会話を始めた。
「笑える話だよな」ドレッドヘアの男がパイプの煙を吹き出しながら呟く。「あんなちっぽけで今にも折れそうなガキ一人のために、ミストラリス城の重鎮どもが大騒ぎしてんだからな。『高貴な純血の血筋』だとよ」
隣の痩せた男が鼻で笑い、首を振る。「どこの高貴な血統だっつの。見たろ? 泥と埃まみれで薄汚れてやがった。俺に言わせりゃ、どうせ城の偉い奴が隠し通そうとした愛好の落とし胤だろ」
「口を慎め」
突き刺すような冷たい声が、入口の方角から響いた。いつの間にか戻っていた首領がそこに立ち、今にも二人を八裂きにせんばかりの殺気を放っていた。
「次その口でターゲットを侮辱してみろ。腐肉の餌なしでルクス渓谷に叩き落としてやる」
死の威圧感を前に、二人の下衆は即座に口をつぐみ、深く頭を下げた。
首領は背を向けると、長い足取りで木造の廊下を進み、突き当りの小部屋へと向かった。重い扉をゆっくり押し開けると、外の湿った冷気が滑り込む。
狭い室内は、床に置かれた一本の蝋燭の灯火だけが微かに照らしていた。古びたベッドの上で、一人の少女が膝を抱えて小さく丸まっていた。かつて美しかったであろう長い髪は乱れ、両頬には乾いた涙の跡が残っている。
「もう夜が更ける」首領は無感情な声で言った。「寝ろ。お前がおとなしくしている限り、危害を加えるつもりはない」
少女はゆっくりと顔を上げた。泣き腫らした大きな瞳が、まっすぐに首領を見つめる。
「わたし……家に帰りたい……アブディが、すごく心配してる……」
その名を聞いた瞬間、首領の動きが止まった。固く結ばれた彼の顔筋に、解読不能な感情がかすかに浮かぶ。
「……アブディだと?」
「わたしのお父さん……」少女の掠れた声が震える。「絶対わたしを探してる。絶対助けに来てくれる……」
首領は静かに息を吐くと、背を向けた。
「なら」扉を閉める間際、彼は冷ややかに言い捨てた。「そのアブディという男が、夜が明ける前にここへ辿り着けるよう、精々祈るんだな」
扉が重く閉じられ、部屋は再び暗闇と静寂に包まれた。
純血の姫君――ルナは、冷え切った体に温もりを集めるように、固く縛られた両手で膝を抱きしめた。全身の震えは止まらず、胸が苦しいほどに押し潰されそうだった。
彼女はベッドの上にある小さな小窓へと視線を向けた。暗闇の室内に、半月の光がかすかに差し込む唯一の隙間。外の空は恐ろしいほど深く沈んでいたが、なぜかルナの胸の奥で、再びかすかな動悸が打ちはじめようとしていた。理屈では説明のつかない、暖かく、優しく、神秘的な囁きのような感覚。
ルナは縛られた両手を自分の胸の上に重ね、窓の向こうの暗闇をじっと見つめた。
「……アブディ?」
返事はない。風が夜の冷気と煤の匂いを運んで吹き抜けるだけだ。だが、胸のぬくもりは消えるどころか、より強く、確かな主張を始めていた。
魂の本能が囁いている。自分にとって最も大切な存在が、全速力でここへ向かっていると。
連れ去られて以来、この地獄のような夜のなかで、ルナ姫は初めて泣くのをやめた。




