第四話:ルクス渓谷の脅威
木製の馬車が静かに揺れ、険しい石畳の路面を叩く車輪が甲高い音を立てていた。老牧夫から借り受けた牡馬コロは、極めて確かな足取りで前方の荷を引いている。時折、短く鼻を鳴らすのは、新たな手綱と背負わされた重荷に体を馴染ませようとしているからだろう。
俺は手を伸ばし、コロの首筋を優しく撫でた。
「俺の馬ではないというのに、ここまで一緒に戦ってくれて感謝する」
コロは首を小さく振り、言葉の意味を理解したかのように短い鼻鳴らしを返すと、再び前を見据えて道を突き進んだ。その様子を見ていたミラが、ちらりと視線を向けて薄い笑みを浮かべる。
「馬と会話するのが癖なの?」
「まともに耳を傾けてくれる相手と話すほうがいい」俺は淡々と答えた。「身勝手に人を評価し、裏切る人間よりはな」
ミラはくすりと笑い、呆れたように首を振った。
「ふん、数時間前に死にかけていた男にしては、随分と味わい深い観点を持っているのね」
見上げれば、頭上の空は完全に色を変えていた。茜色の夕闇は去り、夜の濃い紫紺が世界を飲み込んでいく。街道を下り、渓谷の最深部へと向かう俺たちに付き従うのは、コロの規則正しい蹄の音と馬車の軋み声だけだった。
この地域特有のものか、周囲の空気の変化が肌に伝わってくる。より湿っぽく、重く、胸を圧迫するような空気。吹き抜ける夜風には濡れた土の匂いと、微かに鼻を突く異様な気配が混ざり合っていた。
「ここ一帯はね」ミラは前方に視線を向けたまま、声を潜めて言った。「ルクス渓谷と呼ばれているわ。古い伝承によれば、かつては多くの商人で行き交う賑やかな交易路だったそうよ。けれど、十年前の大戦が勃発して以来、この渓谷の道は呪われたと噂されるようになったの」
「呪われた、だと?」
俺は前方に視線を固定したまま、低く問い返した。
ミラは小さく頷き、手綱を握る手に力を込める。
「噂ではね、ルクス渓谷の夜は永遠に明けないと言われているわ」
暗闇に覆われ始めた前方の長い道を見据える。
「呪いだろうがなんだろうが関係ない。ルナがこの忌々しい道を通ったというのなら、俺はその道を打ち砕いてでも通り抜けるまでだ」
ミラは横目でちらりと俺を見ると、薄く微笑んだ。
「あの幼い少女が、今この瞬間も生きているとそこまで確信できるの?」
俺はしばらく沈黙し、深く目を閉じた。這い上がり始めた霧のなか、コロが踏みしめる足音に耳を澄ませる。
「ああ」俺は揺るぎない確信を込めて答えた。「俺の胸のなかで、あの子の魂の震えを感じられる限りはな」
ミラはその答えを嘲笑うことも、否定することもしなかった。
「なら、あんたを信じることにするわ……少なくとも、この先の道がそれを否定するまではね」
馬車はさらに傾斜の増した渓谷を下っていく。周囲の気温が急速に低下し、刺すような冷気が肌を撫でた。周囲の丘陵からは濃い霧が立ち込め、目まぐるしい速さで広がりながら視界を奪っていく。虫たちの羽音は一つ、また一つと消え去り、代わりに胸を押し潰すような静寂が支配し始めた。
コロが不安気な素振りを見せ始める。低く唸り声を上げ、その歩調が著しく鈍った。俺は首筋を撫で、落ち着かせるように声をかける。
「落ち着け。この場所の気が気に喰わないのは分かっている」
だが、隣に座るミラの瞳が突如として警戒に細められた。
「アブディ……あの音が聞こえる?」
俺は即座に五感を研ぎ澄ませた。冷たい風のなかに混ざり、重く粗い息遣いが届いてくる。深く、規則的な呼気。それは前方の濃厚な霧の奥から響いていた。
フシュー……フシュー……。
人間の呼吸音ではない。通常の野獣の息遣いでもない。
コロが前脚で激しく地面を叩き、頭を高く持ち上げた。荒い呼吸を繰り返し、パニックを起こしそうになっている。
ミラが震える蚊の鳴くような声で囁いた。
「アブディ……あれ……風の音なんかじゃないわよね?」
俺は迫り来る霧の奥を鋭く見据えた。霧の帳の向こうに、巨大なシルエットが佇んでいる。天を突くような巨躯が、ゆっくりとこちらへ向かって移動を始めていた。
「どのようなバケモノであろうと」俺は全身の筋肉に力を込めながら静かに言った。「引くには近すぎる」
馬車から飛び降りると、コロの傍へ歩み寄り、その肩を軽く叩いた。
「ミラ、俺が前で奴を食い止め損ねたら、すぐにコロを走らせて逃げろ」
コロの黒い瞳がじっと俺を見つめ、低く短い唸り声を上げた。それは恐怖の嘶きではなく、まるで「ミラは必ず守る」という誓いを立てているかのように聴こえた。
俺は口元をわずかに緩めた。
「よし。交渉成立だな」
湿った泥地を踏みしめる。深い霧が周囲の音を完全に遮断していた。前方の気配が再び動き出す――極めて巨大で、黒く、低く身をかがめて獲物を狙う姿勢。濡れた黒毛が全身から垂れ下がり、霧の暗闇の奥から、二つの淡い青色の光が点灯した。餓えに満ちた眼光が俺たちを射貫く。
御者席のミラが息を呑んだ。
「あの姿……自然の生き物じゃないわ」
痛む肩の関節を回し、俺は半身の構えを取った。
「人間でもなければ、自然の野獣でもない」俺は低く呟いた。「だが、血が通っているのなら、殺せない道理はない」
周囲の霧が尋常ではない速度で濃くなっていく。空気は幾重にも冷たさを増し、氷の針のように皮膚を刺した。一歩踏み出すたび、ぬかるんだ泥地から湿った摩擦音が響く。俺はコロの数歩手前で足を止め、馬車と蠢く霧との間に立ちふさがる人間盾となった。
闇の奥から、あの重く規則的な呼気が再び木霊する。距離が縮まっている。
フシュー……フシュー……。
巨体が霧の帳を破って姿を現した。ミラは悲鳴を必死に噛み殺し、指先が白くなるほど手綱を固く握りしめている。
「アブディ……本当にそこに留まる気なの!?」抑えたパニックの混ざる声で、彼女が囁く。
俺は答えなかった。ただ重心を低く落とし、突然の襲撃に備えて両脚に全神経を集中させる。前方の霧がゆっくりと晴れ、そのバケモノの全貌が白日のもとに晒された。
途方もなく巨大な獣。体躯は古代の狼に似ているが、体高は成人の背丈を遥かに超えている。漆黒の毛並みは渓谷の夜露に濡れて固まり、双眸は不気味な淡青色の光を放って、夜空に浮かぶ半月の光を反射していた。胸元には、巨大な傷痕が一直線に刻まれている――野生動物同士の縄張り争いによるものではなく、人工の金属兵器によって引き裂かれた痕跡だ。
ミラが再び息を止めた。その瞳が大きく見開かれる。
「あれは……軍の実験獣よ!」
俺は前方から視線を外さずに尋ねた。
「実験獣だと?」
ミラは顔を蒼白にしながら、激しく頷いた。
「昔、王国が国境の夜間巡回用として人為的に造りだし、飼育していた群れよ。けれど大戦が終わり、城が陥落したことで、残党が逃げ出してこの渓谷に巣を作ったの。奴らは太陽の光を極度に嫌う……だから、濃霧が降りた時しか姿を現さないわ!」
巨獣は姿勢をさらに低くし、腹の底から響く重低音の威嚇音を上げた。その振動で、俺が立つ地面すらも揺れている。コロは前脚の蹄を強く打ちつけ、防御姿勢を取って相手を牽制した。
「落ち着け」自分自身に言い聞かせるように呟く。冷静さだけでこの肉厚な皮膚を打ち破れるわけではないことは、百も承知だ。
バケモノがじわりと足を踏み出し、こちらへ向かって歩みを進めてくる。黒い毛並みの隙間から溢れ出る濃霧が、まるで奴の動きを飾る漆黒の帳のように漂っていた。踏み出す一歩一歩が重く、濃密な殺気と飢餓感を撒き散らす。
俺は身をかがめ、大人の拳ほどの大きさがある尖った石を地面から拾い上げた。
「ミラ、三つ数えて俺が奴を止められなかったら、全速力でコロを走らせろ。絶対に振り返るな」
「そんな無茶言わないで! あんたみたいな狂人をバケモノの餌にして逃げられるわけないでしょ!」ミラが素早く、鋭い声で言い返す。「私は何年も国境の猟師たちと取引してきたのよ! 実験獣の弱点くらい知ってるわ!」
ミラは素早い動きで荷箱から小ぶりの弓を取り出した。戦争で使われるような大弓ではなく、野生の鹿を仕留めるための狩猟弓だ。長年の使用で弦は少し汚れ、弛んでいたが、矢を番えて引き絞るミラの指先は驚くほど微動だにせず、真っ直ぐに標的を狙っていた。
俺は目の前の実験狼に意識を集中させた。お互いの距離は既に目と鼻の先、十数歩の距離まで詰まっている。
「三……」俺は低く呟いた。「二……」
ガアアアアッ!
バケモノが爆発的な速度で跳びかかってきた。その巨躯の踏み込みは、突風が激突してきたかのような衝撃音を鳴らす。俺は腕の力を限界まで込め、握りしめた尖った石を奴の顔面目掛けて投擲した。だが、驚異的な反応速度で、奴は頭部を捻って石を弾き返した。
青白い双眸の閃光と、鋭い牙が並ぶ顎がミリ単位の精度で俺の喉元へと迫る――食いちぎられる、まさにその刹那、空気を引き裂く鋭い風切り音が夜の静寂を破った。
ヒュッ!
一羽の矢が寸分の狂いもなく射ち込まれ、獣の前のめりになった肩関節の深くまで突き刺さった。実験狼は鼓膜を裂くような苦悶の咆哮を上げ、その巨躯はバランスを崩して俺のすぐ目の前の硬い地面へと激突した。泥と湿った土が高く舞い上がる。
その勢いを利用し、俺は身を翻して側方へと跳んだ。極限の反射神経で地面に転がっていた太く頑丈なオークの折れ枝を拾い上げると、毛皮に覆われていない顎下の皮膚を目掛け、全身の体重を乗せて突き立てた。
ドスッ!
肉が裂ける鈍い音と衝撃が手に伝わり、樹木を揺らすほどの最後の咆哮が渓谷に響き渡った。
巨獣はしばらく泥地で狂ったように暴れ、爪で地面を掻きむしっていたが、やがてその巨躯から徐々に力が抜けていった。重い呼吸が最後に一度だけ途切れ途切れに漏れ出ると、完全に動かなくなった。
俺は激しい疲労に全身を震わせ、荒い息を吐きながらその場に立ち尽くした。泥と血が混ざり合った赤黒い液体が、頬と腕を伝って滴り落ちる。背後から、弓を構えたままのミラが警戒を怠らず駆け寄ってきた。
「アブディ! 無事なの!?」
俺は足元に横たわる巨獣の死骸を呆然と見つめた。
「その言葉は、俺からお前にかけるべきだったな」
ミラは片眉を上げ、安堵の息を吐くと、汚れた顔に薄い笑みを浮かべた。
「私を疑ってたの? 濃霧の暗闇で狙いを外すほど落ちぶれてないわよ」
俺は深く息を吐き出し、強張っていた全身の筋肉を緩めた。再び倒れた狼に視線を落とす。
「軍の実験獣か……道理で、街の連中がこの渓谷を呪われていると恐れるわけだ」
ミラの表情が途端に曇り、死骸を見つめた。
「昔はね、外敵から人間を守るために人の手によって創られた存在だったのよ。けれど今や、皮肉にも人間が奴らの存在に怯えて暮らしている」
俺たちはしばらくの間、無言で立ち尽くした。ルクス渓谷の夜風だけが、湿った地面を撫でるように吹き抜けていく。
コロがゆっくりと歩み寄り、俺の隣で足を止めると、まるで危険が去ったことを確認するように実験狼の死骸に鼻先を近づけた。俺は手を伸ばし、コロの首筋を優しく撫でた。
「よく踏みとどまってくれた。逃げ出さずにいてくれて感謝する」
コロは静かに鼻を鳴らすと、再び視線を前方――深い濃霧に閉ざされた一筋の道へと向けた。
俺は深く息を吸い込み、体内に残された最後の力をかき集めた。
「霧が完全に視界を奪う前に、先へ進むぞ」
ミラが眉をひそめて俺を見た。
「前方に奴らの群れが残っていたらどうするの?」
俺は迷わず御者席へと上がり、前方に伸びる狭い街道を見据えた。
「群れが待ち構えていようと関係ない。俺たちが止まることはないと、奴らに分からせてやるだけだ」
ミラは頷き、その瞳に再び強い光を宿した。俺の隣に跳び乗ると、手綱を強く握りしめる。一合図送ると、コロは再び歩みを進め、ゆっくりと、だが確実にルクス渓谷の濃霧の奥へと消えていった。
背後には、静寂のなかに取り残された実験獣の死骸だけが横たわっていた。




