第三話:煙塵に煙る行商人
『人生は儚い。だからこそ、命には意味があるのだ』
いつかどこかで耳にした言葉を思い出しながら、俺はただひたすらに走り続けていた。
夜風が容赦なく顔を打ちつけ、踏み出す一歩ごとに街道の砂塵を巻き上げる。東の地平線からは、かすかな朝光が差し込み始めていた。木々を漏れる光が、俺の心を覆っていた黒い影をゆっくりと押し払っていく。
息を吸い込むたび、肺を焼き切るような激痛が走る。だが、この血の味がするほどの痛みこそが、俺がまだ呼吸している確かな証拠だった。俺は生きている。そして、この心臓が動いている限り、あの子を探し出すのをやめはしない。
「姫様……もう少しだけ、待っていてください」
急勾配の石畳の坂を下り、低地へと向かう。先ほどまで俺を介抱してくれた小さな村は、今や遥か後方で小さな黒点と化していた。いくら全力で走ろうと、徒歩では遅すぎる。一刻も早く、風のように疾走できる脚を手に入れなければならない。
街道の脇、広大な草原が視界に飛び込んできた。かすかな嘶きが聞こえる――馬だ。近くでは、老いた牧夫が一人、黙々と草を刈っていた。俺は迷わず方向を転換し、荒い息を吐きながら老人のもとへ駆け寄った。
「頼む、老爺! その馬を譲ってくれ! 今、俺が持っているものなら何でも差し出す!」
老人はの手を止め、俺の頭から足元までをじっくりと観察した。その鋭い眼光が、俺の腰に下がった一振りの古い剣で一瞬止まる。
「只者ではないな、若者よ……それほどまでに切迫した表情で、一体何を追っておるのだ?」
俺は深く頭を下げ、拳を強く握りしめた。
「自分の命よりも、遥かに尊いお方です」
俺の言葉を聞いた老爺は、深くため息をついた。背を向け、愛馬の首筋を優しく撫でる。
「……持ってゆけ。だが、大事にしてやってくれ。こいつの名はコロだ」
「感謝します、老爺。この恩、一生忘れませぬ!」
俺は深く敬礼を捧げると、素早くその牡馬の背へと飛び乗った。
「ハッ!!」
コロの蹄の音が、俺の鼓動とシンクロするように猛烈なリズムを刻み始める。乾いた大地を蹴り上げるたび、高い土煙が舞い上がった。俺はコロを走らせながら、胸の奥で微かに震える感覚に意識を集中させた――俺を姫様のもとへと導く、不可視の羅針盤。
だが、鋭いカーブに差し掛かったその時、前方から怒号が響いた。
「この野郎ッ!!」
俺は反射的に手綱を強く引き絞り、コロを緊急停止させた。夕風に乗って、金属が激しくぶつかり合う音と、悲壮な悲鳴が運ばれてくる。耳を澄ませ、音の発生源を探る。
「……争いか?」
曲がりくねった街道の先を見据える。遥か前方で、濃密な土煙が上がっていた。荒々しく、重く、かすかに生臭い血の匂いが漂ってくる。
深く息を吸い込み、ピンと耳を立てるコロの頭を撫でた。
「聞こえたか、コロ。どうやら、この地獄の街道を進んでいるのは俺たちだけではないらしい」
一蹴りを与えると、コロは再び爆発的な加速で土煙の霧の中へと突っ込んだ。
カーブを曲がり切ると、凄惨な光景が広がっていた。ボロボロの木製荷馬車が、街道の中央で横転しかけている。引き馬の二頭は血の海に倒れ伏し、砕けた商品箱からは荷物が地面に散乱していた。瓦礫の山の中には、息絶えた人間の体が幾つも横たわっている。護衛か、商人か。だが、その惨劇のただ中で、たった一人だけ踏みとどまっている者がいた。
埃と血にまみれた服を着た女性だ。疲労で膝が激しく震えているというのに、彼女は残された最後の木箱の前に立ち、まるで己の心臓を守るかのように必死で庇っていた。
「このアマがッ!」
汚れた服を着た野盗の一人が、怒りに震える手で大型のナタを突きつけた。
「死体になりたくなけりゃ、持ってるお宝を全部吐き出しやがれ!」
女性は肩で息をしながらも、その瞳には鋭い光を宿して言い放った。
「何度も言わせないで! これはただの売り物よ! 金目のものなんて入ってないわ!」
「ウソつけッ!」
後方の野盗が唾を吐き捨てる。
「ただの商人が、こんなに護衛を雇うわけねえだろ! 北の領地から貴重な『ブツ』を運んでるって、さっき自分から言ってたじゃねえか!」
「私は通りすがりの商人よ! あなたたち、何も知らないくせに――」
バキッ!
言い終わる前に、先頭の野盗による容赦ない蹴りが女性のみぞおちにめり込んだ。彼女はくの字に折れ曲がって倒れ込み、背後の木箱が重い音を立てて転がった。
俺は深く息を吐き、コロの背の上で身を起こした。視線を極限まで研ぎ澄まし、四人の野盗の動きを捉える。
「……野盗どもか」
呟きは小さかったが、殺気を孕んだその声に、野盗の一人が反射的にこちらを振り向いた。
「あぁん? なんだお前は!?」
野盗の頭目が、ナタで俺を指さしながら怒鳴り散らす。
俺はコロの背から静かに降り、砂地にしっかりと両足をつけた。
「ただの通りすがりだ。だが……少々、騒がしすぎるな」
「騒がしいだと!?」
頭目は鼻で笑い、俺を頭から足元まで舐めるように見下ろした。
「素手で俺たちに挑もうってのか? ここがガキの遊び場だとでも思ってんのか、あぁ!?」
地面に倒れていた女性が、残された力を振り絞って起き上がり、恐怖と微かな希望が混ざり合った瞳で俺を見つめた。
俺は奴らの挑発を無視した。視線は、眼前の四人にのみ注がれている。粗い呼吸、殺意に震える手足。
「命が惜しけりゃ、失せな!」
別の野盗が叫ぶ。俺は動かない。その静寂が、野盗の頭目の堪忍袋の緒を切った。
「ぶち殺せッ!!」
ヒュッ!
一本目のナタが空を切り、俺の左肩を狙って振り下ろされる。十年間の眠りから覚めた戦闘本能が、瞬時に体を突き動かした。素早く身をかがめ、右膝を敵のみぞおちへと叩き込む。海老反りになった敵の体をそのまま抱え込み、側頭部へ膝蹴りを叩きつける――骨の砕ける鈍い音が響き、男は悲鳴を上げて崩れ落ちた。
仲間が一瞬で倒されたのを見て、残る二人が同時に襲いかかってきた。左からの横薙ぎ、右からの突き。俺は左前腕でナタの背を受け止めた。激痛が皮膚を焼き、骨まで響く。だが、その痛みの勢いを利用して右の野盗へ体当たりを見舞った。激しく地面へ倒れ込む。間髪入れず、近くにあった尖った石を掴み、野盗の顔面へ叩きつけた。鮮血が吹き出し、俺の指先を濡らす。
三体目が狂ったようにナタを振り回しながら跳びかかってきた。間一髪でかわし、刃が耳元を掠めて空を斬る。瞬時に腕を掴み、逆関節を決めて武器を弾き飛ばした。体重を乗せた肘打ちを、男の喉仏へと叩き込む。野盗は喉を押さえ、咳き込みながら膝から崩れ落ちた。
残るは、一人。
手下が全滅したのを見て、頭目が狂乱した。
「この野郎おおおッ!!」
大型のナタが、陰り始めた夕空の下で銀色に閃く。俺の体は限界を迎えていた。新傷の痛みに耐え、意識を保つだけで限界だった。だが、ナタが俺の首を跳ね飛ばす直前――パカンッ!という高い音と共に、一粒の小石が頭目の頬を撃ち抜いた。
視界の端で捉える。あの女商人だ。額から血を流しながらも、燃えるような眼差しで二投目の石を構えていた。
その一瞬の隙。それだけで、俺には十分すぎた。
残された全ての力を脚に込め、俺は頭目の胸元へ飛び込んだ。肩全体で体当たりをかまし、共に埃っぽい地面を転がる。奴が這い上がろうとするより早く、俺の拳がその顔面を打ち抜いた。一度、二度。ついに男は動かなくなり、周囲は再び不気味な静寂に包まれた。
舞い上がった土煙がゆっくりと収まり、血と死臭が混ざり合う重苦しい空気だけが残る。俺は膝をガクガクさせながら立ち上がった。全身が切り傷と打撲で痛む。
女商人が足元をふらつかせながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。間近で見ると、顔は土汚れにまみれているが、その瞳は驚くほど鋭く、強い意志を宿していた。彼女は壊れた荷馬車へ戻ると、隠し引き出しから清潔な布と小瓶を取り出した。
「座りなさい」
淡々とした、だが拒絶を許さない声。
「私は医者じゃないけれど、あんたがくだらない出血多量で死なないように処置することはできるわ」
先を急ぎたかったが、悲鳴を上げる体が反論を許さなかった。小瓶の液体が肩の傷口に触れた瞬間、灼熱の激痛が骨の髄まで突き刺さった。
「グッ……!」
「動かないで。やり直しになるわよ」
彼女は俺の顔も見ずに手を動かした。手慣れた、無駄のない動き。過酷な街道で、己の傷は自分で治してきた者の手つきだ。
「名は……何という?」
気を紛らわせるため、掠れた声で尋ねた。
「ミラ」
手を休めずに短く答える。
「運の悪い行商人よ。あんたは?」
「アブディだ」
ミラの手が一瞬止まった。俺を軽く見上げると、意味深な笑みを浮かべた。
「大層な名前ね……丸腰で死地に飛び込むような狂人にはお似合いだわ」
俺は答えなかった。処置を終えたミラは、ため息をつくと俺の隣の地面に腰を下ろした。
「あんたが来る前、あの奴らが叫んでいたわ」
ミラが低い声で切り出した。
「私を痛めつけながら『北の領地からの秘密の荷物』について詰問してきた……『小さな月』という暗号名でね」
ドクンッ!
心臓が跳ね上がった。世界が静止したかのような衝撃。
「……ルナ」
ミラは俺の蒼白になった顔を見つめ、目の前の男が追っているものの正体を悟ったようだった。
「そう……あんたは、その『月』を奪った連中を追っているのね?」
俺は深く、力強く頷いた。
「そうだ。それを取り戻すまで、俺は止まらない」
ミラはしばらく無言で街道を見つめていたが、やがてフッと微笑んだ。
「なら、この土地の地理に詳しい道案内が必要ね」
俺はゆっくりと立ち上がり、胸の羅針盤が示す東の空を見つめた。
「奴らは……ルクス渓谷へ向かっている」
ミラも立ち上がり、同じ方角を見据えた。
「あそこを通る気なら覚えておきなさい。道は狭く、険しく、非常に危険よ。だが南へ迂回すれば、奴らを見失うことになるわ」
俺は彼女を見た。
「同行する気か? 渓谷は商人が行くような場所ではない」
「行商人はね、毎日これ以上に危険な目と隣り合わせなのよ」
ミラは残された荷箱の鍵を閉めると、深呼吸をした。
「あんたは満身創痍よ、アブディ。だが幸運なことに、あそこの藪の中に予備の小型馬車を隠してあるわ。今すぐ出れば、夜が渓谷を飲む前に追いつけるかもしれない」
俺は彼女の目を見つめ、無言で頷いた。
「分かった。後悔するなよ、ミラ」
藪の中から小さな馬車を引き出し、ミラが先に御者席へ跳び乗った。横のスペースを叩く。
「乗りなさい、アブディ。後悔しかできない奴のために止まってやるほど、この世界は優しくないのよ」
俺は隣に腰かけた。空では夕陽が沈みかけ、世界を濃い茜色に染めていた。車輪が回転を始め、再び土煙が舞い上がる。
そして胸の中で、あの不可視の赤い糸が確かに震えた。
姫様が待つ場所へと、俺を導くように。




