第二話:闇を繋ぐ赤い糸
夜の静寂を切り裂き、深緑の森の中を一台の馬車が猛スピードで駆け抜けていた。
御者席には二人の男。一人は緊張にこわばる手で手綱を強く握り締め、隣の男は警戒した様子で周囲の暗闇に目を光らせている。しばらくして追手の気配がないことを確認すると、二人の強張っていた表情がわずかにほぐれた。
「どうやら、追いかけてくる奴らはいないようだな」
周囲を見張っていた男が低く呟いた。
「ボス……本当にガキ一人を拐う必要なんてあったんですかい?」
手綱を握る男が、迷いを含んだ声で尋ねる。
「チッ、黙ってろ! お前も直接説明を聞いたろ? 今度の客は『お偉方』だ。ここまで毒を食らわば皿までだろ。つべこべ言わずに前を見て運転に集中しろ。情報通りなら、もうすぐ到着するはずだ」
作業のリーダーと思われる男が吐き捨てる。
軋んだ音を立てながら、馬車は暗い樹海の中を疾走していく。だが誘拐犯の二人組は気づいていなかった。自分たちの会話が荷台の狭い隙間を抜け、閉じ込められている小さな少女の耳に届いていることを。
荷台の中の少女は、痛々しい姿を晒していた。
手足は荒い麻縄で固く縛られ、口には布が強く押し込まれている。乾きかけた瞼は、彼女が泣き疲れたことを物語っていた。
漆黒の闇の中、五感は閉ざされ、かすかに聞こえる外の音と、恐怖に震える心音だけが響く。
その絶望の闇の中で、彼女は胸の中でただ一つの名前を呼び続けていた。
――アブディ……。
布に遮られ、その声が外に漏れることはない。
馬車の揺れに身を任せながら、少女の脳裏には彼と過ごした記憶が駆け巡る。
喜怒哀楽、笑い声、共に乗り越えた苦難。
この世界で記憶が芽生えた時から、いつだってその名前の主が傍にいて、温かく抱きしめてくれた。
誰にも代わりのつかない、実の親のように慕う存在。
乾きかけていたまつ毛から、新たな一滴の涙がこぼれ落ち、馬車の冷たい床に滴り落ちた。
この世界に奇跡など存在しない。全ての出来事には理にかなった因果がある。
だが――。
かつて、人の理では説明のつかない禁忌が存在したように。
もし、そんなあり得ない出来事を奇跡と呼ぶのなら。
もし、奇跡というものが本当に存在するのなら。
少女はすがりつくように瞼を閉じ、魂の底から祈りを捧げた。
――その瞬間。
馬車の外で、突如として暴風が吹き荒れた。
大木が悲鳴を上げて揺れ、御者席の男たちは仰天した。
馬が狂乱し、恐ろしい存在の降臨を察知したかのように嘶いた。
そして、暗い荷台の中。
床に落ちたルナの一滴の涙が――仄かな光を放ち始めた。
◇
全身の感覚がない。
目を開けているはずなのに、濃密な闇以外何も見えない。
耳も開いているはずなのに、音一つ聞こえない。
手足は胴体に繋がっている感覚はあるが、ピクリとも動かない。
俺は……本当に死んだのか?
俺、アブディは、亡きミストラリス四世大王陛下から賜った最後の命を果たせなかった。
その汚点を思い出すだけで、激しい悔恨が胸を張り裂けさせそうになる。
自分の指で首を締め上げ、息を絶った瞬間の感覚。
信頼を裏切った俺が、黄泉の国で陛下に合わせる顔などあるはずもない。
これが、全ての終わりなのか?
虚無の中で、意識は再び姫様へと漂う。
ゼフィールの手によって、あの儚い身体が痛めつけられる光景。
不正な玉座を固め、反乱の芽を摘むため、躊躇なく処刑される姫様の姿。
その想像が、俺の魂を煮えくり返させた。
ルナ姫様と過ごした十年。
俺の心の底には、彼女を実の娘だと思いたがる傲慢さがあった。
それなのに、こんなクズの俺は、娘を守れなかった。
――実の娘……?
その時、あの惨劇の夜、大王陛下が残した最後の言葉が脳裏に蘇った。
『彼女を連れて行け。お前の実の娘のように育て、守るのだ』
忠臣としての責務を果たせなかっただけでなく、父親としても娘を守れなかった。
俺は……従者としても、人間としても失格ではないか。
圧倒的な悔恨が喉を詰まらせ、再び息が詰まる感覚に襲われる。
「……ルナ……申し訳……ない……」
涙が止めどなく頬を伝う。
一滴、また一滴と、底なしの闇へ落ちていく。
人知を超えた奇跡というものが、もし存在するのなら。
「……頼む……もう一度だけ、あの子に会わせてくれ……直接謝りたいんだ……愛していると、幸せになってくれと……伝えたいんだ……」
虚しい願いを、誰に訴えているのかすら分からない。
死人も同然の魂に、祈る資格などないはずだ。
それでも――闇の中で、俺は必死に願った。
すべての感覚が没した闇の中。
聞き覚えのない声が、黒い霧を切り裂いて響いた。
「……おい……」
遠くから聞こえる、掠れた声。
「おい……お兄さん……起きろ……こんなところで寝てると死んじまうぞ……」
その声が次第にはっきりと届く。
ルナの愛くるしい声でも、ゼフィールの憎悪に満ちた声でもない。
粗野だが、温かみのある声だ。
瞼が鉛のように重い。
だが、振り絞った意識で目を開けた。
朝日の光が、視界を刺した。
皺の刻まれた中年男性が、心配そうに俺を見下ろしていた。
背後には、きれいな布を抱えた女性が立っている。
「ああ、よかった……息はあるな」
男が深く息を吐いた。
俺は激しく咳き込んだ。
冷気が肺を満たし、胃が捻れた。
だが、この痛みが、生きている証拠だった。
俺は……生きている。
震える手で土を確かめ、身体に巻かれた包帯に触れた。
俺は小道の脇に横たえられていたようだ。
この農夫の夫婦が、倒れていた俺を救ってくれたらしい。
感謝を伝えようとしたが、乾いた喉からは掠れた声しか出ない。
「……ルナ……姫様……」
その名前を唇に乗せた瞬間。
痛みの悔恨が吹き飛び、奇妙な感覚が魂を貫いた。
魂の奥底から、儚くも強烈な牽引力を感じる。
視界の裏側に、明確な羅針盤が刻まれた。
まるで、不可視の赤い糸が、俺の魂と姫様を結びつけたかのように。
彼女の存在、心拍、恐怖、距離――その全てが、脳内に鮮やかに浮かび上がる。
俺は隣の男の腕を強く掴み、蘇った決意で見開いた。
「……陛下……どうやら俺は、まだそちらへ行くことを許されていないようです」
誓いと共に、身体が軽くなった。
酸素が肺を満たしていく。
痛む筋肉の悲鳴を無視し、俺は立ち上がった。
視界は、深い森を射貫いている。
脳裏に、疾走する馬車の光景がよぎった。
彼女はそこにいる。あの忌々しい馬車の中に!
「待っていてください、姫様……このアブディが、今すぐお迎えに上がります」
◇
一方、穏やかな村から遥か遠く。
王都の薄暗い部屋では、蝋燭の光が揺らめいていた。
濃いインクと羊皮紙の匂い、そして兵器の鉄の匂いが空気を満たしている。
龍の彫刻が施された高座に、一人の男が遜大に腰掛けていた。
冷酷な双眸は、刃のように光を放っている。
ゼフィール。
ミストラリスを支配する暴虐の宰相。
彼の机には、ベンタリア大陸の地図が広げられ、鉄の針が都市を刺し穿っていた。
「……まだ、あのドブネズミの消息は掴めないのか?」
低く毒を含んだ声が、静寂を裂く。
ひざまずく部下が、激しく震えた。
「ひ、ヒィッ……申し訳ございません、ゼフィール様! 密偵を放っておりますが、痕跡すら……10年前の噂は、ただの作り話では……」
ゼフィールは冷笑した。
「作り話だと?」
男の目が細められる。
「火のない所に煙は立たん。ミストラリスの王血が息をしている限り、俺はこの玉座で枕を高くして寝ることはできんのだ。あのアホな王の娘は、反乱の火種になり得る」
彼は立ち上がり、窓へ歩み寄った。
「かつて俺は、玉座の影に過ぎなかった……愚かな王が称賛を受ける裏で、全ての政務をこなしていたのだ!」
拳を強く握り締め、爪が掌に食い込む。
「だが今や、この世界は俺の手の中にある! 血と裏切りで築いた傑作を、ガキ一人に壊されてたまるか! 探し出せ! 必要なら、妖しい村ごと焼き払え!」
室内の雰囲気が、氷点下まで落ちた。
ゼフィールは邪悪に歪んだ笑みを浮かべた。
「ルナ姫……遅かれ早かれ、お前は俺の手の中に落ちる。その時こそ、お前の存在をこの世界から消し去ってやる」
蝋燭の炎が、彼の呪詛に恐怖したかのように、激しく揺れた。




