第一話:月は落ち、闇に消ゆ
――ガンッ!
斧を振り下ろす鋭い音が村中に響き渡る。太い丸太が、刃の鋭利さによって見事に真っ二つへと割れた。俺は柄を強く握り直し、深く息を吐き出しながら、来るべき冬に備えて積み上げた薪の山を見つめた。
「フゥ……今日のところはこんなものか」
額の汗を拭い、俺は背後に佇む小さな木造の我が家へと歩みを進めた。
宰相ゼフィールが引き起こした反乱から、約十年という歳月が流れていた。行商人が時折運んでくる噂によれば、王都の混乱は今なお収まっていないらしい。ミストラリス四世大王とエリシア王妃は戦火の中で崩御され、王に忠誠を誓っていた宮廷の重鎮たちはことごとく捕らわれ、投獄され、財産を没収された。暴政を敷く宰相への民衆の反発は凄まじいものだったが、ここ最近になってようやく表面上の動乱は鎮まりつつあるようだった。
あの日々の凄惨な出来事を思い返すたび、今でも激しい憤怒で血が煮えくり返る。封印したはずの暗い記憶を必死に押し殺しながら。
――陛下……。
井戸の冷たい水で身を清めると、その冷気が這い上がりつつあった雑念を吹き飛ばしてくれた。着替えを済ませ、自作の木製椅子に腰を下ろすと、暖炉の中で揺らめく炎をぼんやりと見つめる。
「……そろそろ時間か」
呟いた直後、玄関の扉が威勢よく押し開けられた。
戸口に立っていたのは、弾けるような笑顔を浮かべた十歳の少女。秋物の服が、彼女の美しい艶やかな髪によく映えている。濃密な夜闇の中に輝く月のように、周囲をパッと明るく照らす存在。
「ただいま、アブディ!」
活気あふれる声。
彼女こそが、亡き国王陛下から託された最後の『遺言』。ミストラリス王国の陰りゆく光――ルナ・ヴェンタリア姫殿下。そして俺は、身分を捨てて平民に身をやつし、彼女の幸せを全身全霊で守り抜くと誓った忠臣。一生涯をかけて果たさねばならない神聖なる誓約。
「おかえりなさい、姫様」
「もーっ! だから『ルナ』って呼んでって言ってるでしょ! 隣の農夫のおじさんたちみたいに!」
ルナは頬をふくらませてぷんぷんと怒ってみせた。なんとも愛くるしい仕草だ。
十年前、俺とルナ姫は心優しい農夫の夫婦に救われ、匿われた。すべての事情を明かした俺たちを、彼らは迷うことなく受け入れてくれたのだ。五年間を共に過ごした後、俺は山あいの丘に家を建て、ルナ姫と二人で暮らし始めた。だが、あの夫婦と姫との絆は、今も家族のように固く結ばれている。
「だって、アブディは私のお父さん(父上)なんだから」
ルナはトコトコと歩み寄ると、俺の腰にむぎゅっと抱きついてきた。
「あなたが私の可愛い娘だからこそ、私はあなたを『お姫様(姫様)』とお呼びするのですよ」
俺は苦笑しながら、その柔らかい髪をやさしく撫で下ろした。
「ふふっ……」
「夕飯の準備はできているよ。ご飯にしよう」
「うん!」
質素だが温かい夕食を共にする。ルナは村での出来事を身振り手振りを交えて楽しそうに話し、俺はただ温かい眼差しでそれに耳を傾けた。あまりに夢中で話すものだから、頬の脇に食べかすがくっついている。俺は苦笑しながら指でぬぐってやった。
このように、何の憂いもなく無邪気に笑い合える日々。それこそが亡き大王陛下が何よりも望まれたものだった。そして、この笑顔を守り抜くことこそが、従者たる俺の使命なのだ。
食後、俺たちは再び暖炉の前の椅子に並んで腰掛け、秋の冷気を払う炎の温もりを楽しんでいた。
「アブディ……」
「どうしました、姫様?」
俺は目線を合わせるように、声音をやさしく落とした。
「今日ね……みんなと遊んでるとき、うっかりお友達を怒らせちゃったの。そしたら……いじわる言われちゃった。『お母さんがいない』って……」
ルナはうつむき、小さな顔に陰りを落とした。
俺は両腕を広げ、膝の上に乗るよう促した。彼女がちょこんと腰を下ろすと、小さな体を温もりで包み込むように強く抱きしめた。
「姫様。人間にとって、一番大切なものは何だと思いますか?」
「一番……大切なもの?」
ルナが不思議そうに見上げてくる。俺は静かに頷いた。
「ええ。人にとって最も、最も大切なもの……それは『幸せ(幸福)』です」
俺は自分の人差し指でルナの胸元にそっと触れた。ルナも自分の手を重ねる。
「ここに『幸せ』さえあれば、どんなに険しい道であっても前に進むことができます。どんな嵐が吹き荒れようとも、乗り越えることができる。幸せが私たちの人生を形作り、より良い未来へと導いてくれるのです。……さて、姫様は今、幸せですか?」
「うん、幸せだよ!」
ルナは迷いなく答えた。
「アブディと一緒に暮らせて、おじさんやおばさんにも会えて、村のお友達もいて……私、すごく楽しいよ!」
「私もです。あなたに会い、おじさんやおばさん、村のみんなと出会えたことで、私の人生は幸せで満たされました」
「アブディと一緒にいられるなら、私、ずっと幸せだよ!」
「なら、お友達にいじわるを言われても、姫様は幸せでい続けなければいけませんね?」
「うん!」
少女は再び俺の胸に顔をうずめ、ぎゅっと抱きついてきた。
それからもしばらく言葉を交わすうちに、彼女の規則正しい寝息が聞こえ始めた。何度も瞼が重そうに落ちるのを見て、俺は彼女をそっと抱き上げ、ベッドへと運んだ。頭を愛おしく撫でながら、完全に夢の中へ落ちるのを見届ける。
「アブディ……大好き……」
幼い睦言を残し、ルナは深い眠りについた。俺はその穏やかな寝顔を見つめ、静かに微笑んだ。
ルナが寝入ったのを確認すると、俺は暖炉の前へと戻り、消えゆく灰の残光を見つめた。
「……あなたの幸せが、永遠に続きますように。我が姫君」
◇
東の空から太陽が顔を出し、いつもと変わらぬ清々しい朝をもたらした。鳥たちのさえずりが響き渡り、澄んだ秋風がそよぐ。このような辺境でしか味わえない、至高の平穏。
遠くの畑では、農夫たちがすでに農作業を始めていた。手に持った鍬や鎌が朝日に照らされ、銀色に煌めいている。村の端を流れる小川はせせらぎの音を奏で、素足の子供たちが楽しそうに素手で小魚を追いかけていた。
家の中では、小さな少女がお出かけの準備に追われていた。可愛らしいニット帽をかぶり、美しい髪をなびかせている。質素なワンピース姿は彼女の可憐さを引き立て、高貴な気品を漂わせていた。
「アブディ!」
ルナが嬉しそうに胸に飛び込んできた。俺はしっかりと受け止め、その頭をぐしゃっと撫で回した。
「準備はできましたか?」
「バッチリだよ!」
今朝の満面の笑みは、まるで春に咲き誇る花園のようだった。
「今日もみんなと仲良く遊ぶのですよ。お勉強も楽しくね」
「うん! 行ってきます、アブディ!」
手を振り、眩しい笑顔を残して、ルナ姫は駆け出していった。今日もいつものように、村の中心で子供たちと遊び、村の先生から基礎的な知識を学ぶのだ。
その小さな背中が見えなくなるまで手を見送り、俺は丘の上にぽつんと佇む我が家へと向き直った。かつて村長にお願いしてこの場所を譲ってもらったのは、あまり目立ちたくなかったからだ。だが今や、村人の親しみやすい人柄のおかげで、顔を知らない者などいないほど馴染んでいた。
「……」
敷居を跨ごうとした瞬間、俺の足がピタリと止まった。
異質な気配。直感的に身を翻し、茂みに向けて鋭い声を張り上げた。
「そこに隠れている者は誰だ。用があるなら姿を現せ」
静寂。何の応答もない。
「……はぁ、気のせいか」
野生 gaki(野良動物)か何かだろうと吐き捨て、扉を開けて中に入った。
だが、室内に入ってほんの数瞬。
玄関のドアから、規則正しいノックの音が響いた。
――トントン、トン。
扉を開けると、そこにはメイド服に身を包んだ一人の女性が立っていた。
見紛うはずもない、あまりにも懐かしい顔。
「……ローズ」
十年もの間、胸の奥底に封印していた記憶が、一気に脳裏へとなだれ込んできた。
「久しぶりね、アブディ。本当にこんな辺境に隠れていたなんて」
気まずさを打ち消すように、彼女は淡々と言った。
冷め切った暖炉の前、俺たちは木製椅子に向かい合って座っていた。目の前にいるローズは、かつてミストラリス四世大王に仕えていた忠実な侍女の一人。昔から任務で顔を合わせることが多く、互いに信頼を寄せる間柄だった。
「あなたが暖炉の前で深く考え込んでいる姿を見るなんて、いつ以来かしら。その不愛想で硬い顔も、ちっとも変わっていないわね」
ローズが俺をじっと見つめながら口を開く。
「俺だって変わったさ、ローズ。十年という月日が流れたんだ……」
俺は椅子に背を預け、落ち着いた、しかし毅然とした口調で返した。
「昔話はいい。本題に入ってくれ。一体何の風が吹いて、こんな辺境まで俺を探しに来た?」
ローズは一瞬言葉を詰まらせた。視線を泳がせ、小さく呟いた後、深く息を吸って俺を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、異様なまでの真剣みが宿っていた。
「単刀直入に言うわ。現在玉座に君臨しているゼフィール宰相が……ミストラリス四世大王の『落胤(姫君)』の存在を嗅ぎつけ、探索を始めたの」
「なんだと……?」
俺は眉をひそめた。心臓が一瞬跳ね上がったが、努めて冷静さを装う。
「地方での反乱や動乱は、すでに彼の軍勢によって完全に鎮圧されたわ。戦火が収まったことで、あの男は直ちにルナ姫様を捜索・捕縛せよという『密命』を下したのよ」
「……」
『あの男』という響きだけで、吐き気がした。
「……お前が、その密命を受けたのか?」
状況を冷徹に分析しながら尋ねる。ローズは申し訳なさそうに小さく頷いた。
「ええ、今のところはね。私はこれまで、姫様は見つかっていないと偽りの報告を送り続けていたわ」
「そうか……感謝する、ローズ」
脅威は今始まったばかりなのだと高をくくり、俺は胸を撫で下ろした。体勢を整え、軽い調子で尋ねる。
「それで、その密命がお前に下されたのは具体的にいつだ?」
その問いを聞いた瞬間、ローズの顔が劇的に強張った。その瞳に、底知れぬ恐怖の色が広がる。
震える唇から漏れ出たのは、蚊の鳴くような掠れ声だった。
「……三週間前よ」
――三週間前!?
その言葉が、雷鳴となって俺の脳天をぶち抜いた。
先ほどまでの余裕など、一瞬で微塵も残さず吹き飛んだ。
あの苛烈で執念深いゼフィールという怪物にとって、三週間という時間はあまりにも長すぎる!
ローズが三週間も報告を握り潰していたのだとすれば……あの男がローズを疑い、別ルートの追手を放っていないはずがない!
思考より先に体が動いていた。
部屋の空気が一瞬で氷点下へと凍りつく。俺は弾かれたように立ち上がった。勢い余って木製椅子が後方へ吹き飛び、激しい音を立てて床を転がる。
大股で外へ飛び出そうとした瞬間、腕に強烈な摩擦が走った。ローズが俺の手首を必死に掴んでいたのだ。その顔は蒼白で、極限の terror(恐怖)に歪んでいた。
「三週間だと、ローズ!? なぜもっと早く知らせなかった! あの狂人どものことだ、すでにこの村は包囲されているかもしれないんだぞ! ルナ姫様が危険だ、今すぐ連れ戻しに行かなければ!」
俺はローズの手を荒々しく振り払い、嵐のような勢いでドアを蹴破って外へ飛び出した。
ゼフィール宰相は、思い通りにならないものを即座に焦土へと変える悪魔だ。十年前、王国を滅ぼしたあの冷酷無比な残忍さ。もし姫様に何かあれば――!
――クソッ! 姫様、無事でいてくれ……!
両脚の限界を超えた速度で、俺は丘を駆け下りた。ルナが遊び、学んでいる村の中心部を目指して。すれ違う村人たちが親しげに声をかけてきたが、パニックで破裂しそうな頭では応じる余裕などなかった。無視してただひたすら風を切る。
後でいくらでも謝る! 今は……ルナ姫様だ!
呼吸が野草を焼くように肺を刺す。今の俺の顔は、死神に追われる狂人のように惨らしく歪んでいるに違いない。そう、俺は追われているのだ。借金でも敵でもない、『時間』という冷酷な影に! 間に合ってくれ、頼む!
「……で……!」
遠くから、かすかな声が俺の名を呼んだ気がした。
反射的に足を止めようとしたが、殺人的な勢いのついた体は制御を失い、俺は派手に地面へ突っ込んだ。岩混じりの土に強く打ち付けられる。
全身を突き抜ける激痛を無視し、両手を突いて跳ね起きると、血走った目で周囲を見回した。
転倒した場所から目と鼻の先。干からびた土の上に、ぽつんと落ちていたもの。
小さくて可愛らしい、ニット帽。……ルナの帽子だ。
そして視線を遥か遠く、村の境界線へと向けると――黒い甲冑を纏った人影が、胸に何かを抱え、恐ろしい速度で森の中へ消えていくのが見えた。
奴らだ。連れ去られたのだ!
「姫様ーーーーーーッ!!!!」
体内に残された最後の血液を絞り出すように、俺は再び脚を動かした。木々の間に消えゆく影を追いかけて、なりふり構わず疾走する。
一歩足を踏み出すたびに鉛のように重くなり、焼きつくような呼吸が喉を切り裂く。胸の中で狂ったように脈打つ心臓の音すら無視した。ただ、彼女に届きたい。彼女を救い出したい!
だが――ある瞬間、脚の感覚が完全に消えた。
――ドスンッ!
俺は再び地面に叩きつけられた。土煙を上げながら、無ざまに地面を転がる。
震える手を必死に前方へ伸ばし、虚空を掴もうとした。しかし、その指先が捉えたのは冷たい空気だけ。影はすでに、向かいの深い森の闇へと完全に呑み込まれていた。
全身が凍りついていく。冷たい。
俺は『アブディ』。
ミストラリス四世大王に五年間仕えた従者。
王の最後の遺言――実の娘を託され、世界で一番の幸せを与えるという最も神聖なる命を受けた男……。
俺は土の上に力なく座り込み、月が消え去った森の闇を呆然と見つめた。
「……陛下……この不忠者めをお許しください……あなた様の最後の御命令すら……守り抜くことができませんでした……」
泥に汚れた頬を、温かい涙が溢れ落ちていく。取り返しのつかない絶望と後悔が、その瞬間、魂の奥深くに深く刻み込まれた。
正気を失った狂気の中で、俺の指先は己の 喉元を強く締め上げた。視界がかすみ、闇に染まっていく。
王の遺言……俺がこの世で息をする唯一の理由。それが奪われた今、俺が存在する意味などどこにあるというのか。
朝は、相変わらず眩しいほどに輝いていた。
枝の上では鳥たちが陽気にさえずり、秋風は偽りの平穏を運んでくる。遠くの畑では農夫たちが鍬を振るい、小川では子供たちが無邪気に魚を追って笑い合っている。
しかし――その光に満ちた平穏の真ん中で。
俺という男は、確かに死んだのだ。




