幕間:農夫のあばら家に落ちた星
――ガン、ガン、ガンッ!
古びた木戸を激しく叩く音が、粗末な高床式の家に響き渡った。熟睡していた中年の男は、その音で無理やり眠りを破られる。赤く重い目をこすりながら開け、夢の余韻が残る頭で藁ぶき屋根の天井を見上げた。しかし、ノックの音は止まるどころか、ますます激しさを増して静寂を荒らしていく。
「ふあぁあ……用なら明日にしてくれ……」
農夫は欠伸をしながら薄い布の掛け布団を引き上げ、再び眠りにつこうと横を向いて耳を塞いだ。だが、完全に目を閉じる暇もなく、ドスンと大きな衝撃が扉を揺らす。まるで重い何かが力尽きて木戸に倒れ込んできたかのような音だった。農夫は飛び起きた。忌々しそうに鼻を鳴らし、寝床から起き上がると、大股で玄関へ向かってドアを勢いよく開け放った。
「おい! 真夜中にうるせえぞ! 一体何の――え?」
喉まで出かかった文句が、そのまま凍りついた。
冷たい地面の上、敷居に弱々しく寄りかかるようにして、一人の体格の良い青年が膝をついていた。破れ果てた服は汚れ、傷口から流れる濃い赤色の血で濡れそぼっている。しかし、その痛ましい姿とは裏腹に、青年の両腕は厚い絹の布に包まれた小さな赤ん坊を強く抱きしめていた。夜風の冷たさから必死に守るように。
一目見ただけで、農夫には分かった。この青年が凄惨な地獄絵図から命からがら逃げ延びてきたのだと。
「おい、あんた……一体どうしたんだ!?」
苛立ちは一瞬で吹き飛び、代わりに胸を突くような同情が押し寄せた。
返事はない。青年の呼吸は途切れ途切れで、浅く荒い。
「……娘を……頼む……」
それは掠れきった、消え入りそうな声だった。青年は残された最後の意識を振り絞ってその言葉を呟くと、視界を闇に染め、土間へと崩れ落ちた。
「おい!? しっかりしろ!」
農夫の声に焦りが走る。考えるより先に膝をつき、ずっしりと重い青年の体を抱え上げて家の中へと運び込もうとした。眠気も苛立ちも完全に吹き飛び、突き動かされるような人道本能だけが体を動かしていた。
「んん……どうしたの、あなた? 外が騒がしいけれど……」
奥の部屋から寝ぼけ眼をこすりながら出てきたのは、農夫の妻だった。しかし、夫が血まみれでぐったりとした見知らぬ男を抱えているのを見て、一気に目が冴え渡った。
「家の前に倒れてたんだ! 早く手伝ってくれ!」
農夫は焦りながら叫んだ。
「ほら、先にあの子を抱いてくれ!」
農夫は青年の腕から静かに赤ん坊を引き抜こうとした。だが、意識を失っているにもかかわらず、青年の指先は赤ん坊を包む布を力強く掴んで離さない。体に染みついた本能的な防衛本能だった。固く結ばれた指を一本ずつ慎重に解き、ようやく赤ん坊を妻の腕へと移すことができた。
妻は赤ん坊をやさしく抱きかかえ、木のベッドに横たえられた青年の姿を不安そうに見つめた。
「あなた……すごい血よ。一体何があったの?」
「分からん」
農夫は額の冷や汗を拭いながら首を振った。
「外で大きな騒動があったみたいだ。山賊か、あるいは何か別の災難か……」
◇
数時間が経過した。東の地平線から黄金色の朝空がゆっくりと明け始め、ヴェンタリア大陸の辺境にある粗末な小屋の隙間から差し込んでくる。
青年はゆっくりと目を開けた。かすむ視界を、部屋に差し込む朝の光に馴染ませていく。眉をひそめると、全身に走る激痛が意識を刺激した。首を少し傾けると、昨夜自分を助けてくれた中年の男が、ベッドのすぐ近くの木製椅子でぐっすりと眠っていた。部屋の隅に掛けられた泥汚れの作業着から、この男が地元の農夫であることが見て取れた。
「うっ……ここは……どこだ……?」
青年の口から掠れた呟きが漏れる。昨夜の記憶が、一つ、また一つと手繰り寄せられていく。
そして、決定的な記憶が冷や水を浴びせられたように脳裏を叩いた。
――国王陛下……王妃様……業火……追手……ルナ!
青年は弾かれたように跳ね起きた。胸を刺す激痛など頭になかった。その突発的な動きで木の椅子がギシッと大きな音を立て、うとうとしていた農夫が目を丸くして跳び起きた。
「んん……おお、目が覚めたか?」
農夫は顔を擦りながら、眠気の残る重い声で尋ねた。
「おいおい、何してるんだ? 傷がまだ――」
「娘は!? 赤ん坊はどこだ!? 俺の娘を見なかったか!?」
青年は目を見開き、息を荒らげながら言葉を遮った。恐怖で呼吸が荒くなる。
「落ち着け! 落ち着くんだ!」
農夫は手を振って青年の興奮を鎮めようとした。
「あの子なら無事だ。俺の奴さんが隣の部屋で面倒を見てる。すやすや寝てるよ」
青年が安堵の息を漏らす暇もなく、部屋を仕切るカーテンの奥から元気な赤ん坊の泣き声が響き渡った。青年はふらつく足元も気にせず、カーテンを固く握りしめて押し開き、声のする方へと駆け寄った。
そこには、柔らかい藁の寝床の上で、涙で顔を濡らしながら元気に手足をバタつかせる小さな赤ん坊の姿があった。
「姫様……」
赤ん坊に近づくにつれ、青年の足取りが緩やかになる。胸を締め付けていた恐怖が一瞬で吹き飛び、溢れんばかりの安堵が押し寄せた。目頭が熱くなり、堪えきれない涙が零れ落ちる。青年はベッドの脇に膝をつき、震える指先で赤ん坊の頬をやさしく撫でた。
見覚えのある温もりに気づいたのか、赤ん坊の泣き声が次第に小さくなっていく。小さな指が自然と動き、微かな力で青年の人差し指をぎゅっと握りしめた。青年の涙が赤ん坊の額にぽたりと落ちる。質素な部屋の中で行われた、静かな祝福のように。
「本当に……ありがとうございました、おじさん……何とお礼を申し上げたらいいか……」
青年は涙を拭いながら、声を詰まらせて深く感謝を口にした。
「いいってことよ。二人とも無事だったんだからな」
いつの間にか部屋の入口に立っていた農夫が、目の前の温かい光景に目を細め、小さく微笑んでいた。
「だが……差し支えなければ教えてくれないか? 一体どうして、そんな手負いの体でうちのボロ小屋までたどり着いたんだ?」
己の姿に今さら気づいたように、青年は俯いた。血に染まっていた服は脱がされ、全身には清潔な白い包帯が綺麗に巻かれていた。
青年は赤ん坊を抱き上げ、胸元で折れてしまいそうなほど大切に抱きしめると、農夫に向き直った。その瞳には、深くて揺るぎない決意の光が宿っていた。
二人は居間の木造床の上に静かに座り直した。青年は深く息を吸い込み、窓の外の空を見つめながら、自らが潜り抜けてきたあまりにも暗い惨劇の記憶を紡ぎ始めた――。




