プロローグ
地響きのような地鳴りが響く。数十万対の鉄靴が地を蹴る音は、まるで都市の土台すらも粉砕せんとする小規模な地震のようだった。城塞の外に漂うのは、もやは夜風の清涼さではない。新鮮な血の生臭さ、焼ける肉の匂い、そして民家を焼き尽くす黒油の焦げ臭さが満ちていた。刃と刃がぶつかり合う金属音、重厚なプレートアーマーの軋み、そして死に瀕した軍馬のいななきが混ざり合い、死の交響曲を奏でている。
街角のあちこちから上がっていた悲鳴は、一つ、また一つと消え去り、やがて冷たく重苦しい静寂へと変わっていく。この土地を侵食する狂気を一言で表すならば、ふさわしい言葉はたった一つしかない。
戦争。そしてその戦争は、夜明けを迎える前に決着がついていた。
「報告! 第三分隊のバリケードが突破されました! 反乱軍は……奴らはすでに本庭を突破し、城へと進軍中!」
「第四部隊、整列! 命に代えても国王陛下をお守りしろ!」
「終わりだ……この王国はもう終わりだ……!」
「誰か治療魔法か応急手当のできる者はいないか!? 包帯と消毒液を持ってこい! 南地区の瓦礫の下に市民が埋もれている!」
悲痛な叫びが、荘厳なる玉座の間に空しくこだまする。かつてミストラリス大陸の栄華の象徴であった金装飾の白亜の柱は、割れた高窓から流れ込む濃煙に霞んでいた。空間全体が狂気に侵されている。高級な絹を纏っていたはずの宮廷貴族たちは、見る影もなく身なりを乱していた。互いの胸倉を掴み合い、顔を真っ赤にして不毛な議論を交わす者もいれば、震える手で懐に貴金属を詰め込む者に汲々としている者もいる。
国を守ろうとする闘志は、冷酷な現実によって強制的に吹き消されていた。彼らの真の敵はもはや国境界線ではなく、目の前の扉のすぐ外に立っているのだ。
――ガンッ!
御影石の床を激しく叩く王杖の重厚な音が、一切の喧騒を断ち切った。途端に、玉座の間に骨の髄まで冷えるような静寂が訪れる。何千もの貴族、官僚、側近たちの視線がゆっくりと集まる。そこに立っていたのは、玉座の壇上に毅然と佇む最高権力者。
ミストラリス第四世大王。
過去二十年にわたり、この大陸に未曾有の繁栄をもたらした英雄。その英知は民の心に深く刻まれ、恐怖ではなく純粋な敬愛によって戴かれた名君。だが今夜、その頭上に輝く金冠はあまりにも重く、無力感によって曲がり始めた背中に重くのしかかっていた。
「……もはや退路はない」
国王の声が低く重く響き、聞く者の胸を揺さぶる。
「兵士に残された唯一の道は、最期の一滴の血が流れるまで戦うことのみだ」
貴族たちは一斉に頭を垂れた。反論できる者など一人もいない。ただ大王の威厳に呑まれていた。
「だが……」
国王は深く息を吐き出した。視線を大窓に向ければ、眼下に広がる業火の海が見える。老いたその顔には、深い絶望の皺が刻まれていた。
「この冠のプライドを守るためだけに戦いを長引かせれば……より多くの無辜の民が刃の犠牲となる。ミストラリスの路上を流れる子どもや女たちの血が増えるだけだ」
官僚たちは拳を強く握りしめた。無念と屈辱に歯を食いしばる。
「ならば……その代償が民の犠牲であるというのなら……」
民の命を何よりも優先してきたミストラリス四世は、震える声を抑え込みながら、断固とした口調で告げた。
「我が国が巨大な墓場と化すのを見るくらいならば、私は自ら――」
「お待ちください、陛下!」
静寂を切り裂くような叫びが、王の言葉を遮った。
「なっ……! 誰だ、無礼者! 陛下の御言葉を遮るなど――」
老貴族たちが青筋を立てて振り返る。
「お考え直しください、陛下!」
群がる貴族たちの後方から、一人の引き締まった体躯の青年が一歩前に出た。周囲の鋭い視線や恐怖を含んだ囁きを完全に無視して。
「この不法な反乱を指揮しているのは宰相ゼフィールです! 奴は権力欲に憑りつかれた血も涙もない男! 今、陛下が投降し王冠を渡せば、民に慈悲など与えられません! ゼフィールの支配下に待っているのは、終わりのない暴政と塗炭の苦しみだけです!」
「だ、だが! 兵力が完全に瓦解したこの状況で、一体何ができるというのだ、アブディ!」
軍事顧問の一人が掠れた声で絶望的に叫んだ。
俺はその顧問をまっすぐ見つめ返し、再び国王へと視線を戻した。
「……逃亡です」
そのたった一言が放たれた瞬間、玉座の間は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。貴族たちの顔から血の気が引き、驚愕と侮蔑の表情へと変わる。
「アブディ……今はくだらない戯言を言っている場合ではないことくらい、分かっているはずだ」
ミストラリス王の声は氷のように冷たく、俺の胸を鋭く刺し貫いた。
当然だ。戦場で名誉ある死を遂げることを至高とする貴族や騎士にとって、「逃げる」という選択肢は最大の恥辱。先祖に対する裏切りと同義だ。だが俺に言わせれば、死体になってしまえば名誉など何の価値もない。
「重々承知しております、陛下」
俺は片 をつき、左胸に拳を当てた。
「ですが陛下ご自身が仰った通り、今正面からぶつかることは集団自殺に過ぎません。夜明けまで時間を稼ぐ戦力すら残されていないのです。ならば、残された最も rational(合理的)な解決策は一時撤退です。最重要資産を確保し、ゼフィールの手が届かない場所で戦力を整え、将来、万全の状態でこの祖国を奪還することです!」
「余に……卑怯者のように逃げろと言うのか?」
国王の眼光が俺を射抜く。
「外で殺戮されている民を見捨てろと? 城門で命を懸けている忠実な兵たちを見捨てて去れと言うのか!?」
「それこそが、最善の決断だと信じております! いかなる事態になろうとも、陛下の御命こそがミストラリス王国の存続の鍵なのですから――」
「黙れッ!」
――ガンッ!!
王杖が再び打たれ、先ほど以上の衝撃音が響き渡る。死のような静寂が再び場を支配した。
数々の窮地を脱し、この大陸を統一した大英雄・ミストラリス四世。その肩は力なく落ち、かつて鋭い光を放っていた瞳は光を失い、深い諦観の陰りを宿していた。
「余は……少し休みたい」
掠れた声でそう呟くと、国王は誰とも目を合わせることなく背を向け、玉座を後にした。俺の脇を通り過ぎる際、その絢爛なマントから冷たい湿り気が伝わってくる。残された玉座の間は、まるで濃霧のような絶望に包まれていた。
◇
――トントン。
「入れ」
龍の彫刻が施された重厚な扉の奥から、低く威厳のある声が響いた。
現在、俺は国王の執務室へと続く暗い回廊に立っていた。数時間前、玉座の間で俺の脇を通り過ぎる際、耳元で囁かれた密命――月が天頂に達した刻、私室へ来い、と。「天頂」とはすなわち、闇が最も深くなる深夜ゼロ時のことだった。
奇妙なことに、今夜は国王の私室へ続く回廊に近衛兵の姿が一人もなかった。敵の猛攻を防ぐために最前線へ送られたのか、あるいは国王自らが遠ざけたのか。
俺は重い扉をゆっくりと押し開けた。
目の前に広がっていたのは、温かみがありつつもどこか物憂げな薄暗い空間だった。部屋の奥では、あの威風堂々たる国王が革製ソファに深く腰掛けていた。その隣には、上質な絹に包まれた赤ん坊を抱くエリシア王妃の姿がある。二人は並んで、闇を照らす暖炉の揺らめく炎を静かに見つめていた。
俺はすぐさま室内へ進み、額が床につくほど深く頭を下げた。
「拝謁いたします、陛下」
「面を上げよ……近くへ来い、アブディ」
お言葉に従い近づくと、ミストラリスの繁栄と経済を陰で支えてきた高貴なる女性、エリシア王妃が立ち上がった。その美貌は蒼白だったが、その瞳には母親特有の強い決意が宿っていた。王妃は静かに数歩下がり、俺と国王の間に空間を作った。
「今夜は……月が随分と高いな」
大窓から夜空を見上げ、国王が呟く。
「陛下……」
「正直に答えよ、アブディ。外の戦況はどうなっている?」
暖炉の灯火の中、真実を確かめるように茶色の瞳で俺を射抜く。俺は深く息を吸い込んでから答えた。
「ゼフィール宰相率いる反乱軍は、すでに外堀を完全掌握し、本城を四方から包囲しています。残存する近衛兵が持ちこたえられるのは、保って夜明けまででしょう。明朝には、敵による徹底的な粛清が始まります」
「そうか……もはや時間はないか」
国王は静かに頷くと、ソファから立ち上がり、窓辺へと歩み寄って燃える街を見下ろした。その瞳に、新たな決意の火が灯り始める。何者にも覆せない、揺るぎない決断の火が。
俺はその背後に直立し、拳を握りしめた。どのような命令であろうと受ける覚悟を固めて。
「アブディ、お前がこの城に来てからどれほど経つ?」
「……およそ、五年になります」
「六年だ」
国王は口元に微かな笑みを浮かべて訂正した。
「貴族の 血統を持たぬ一介の青年が、この六年間で血のにじむような努力を重ね、その才を示し、玉座の間で老貴族たちと肩を並べるまでになった……」
「すべては陛下の大いなる御慈悲と、賜りましたご信義の賜物にございます」
俺は誠心誠意、頭を下げた。
長い沈黙が流れた。やがて国王が振り返ったとき、その瞳は猛烈に燃え上がっていた。十年前の大戦を指揮していた時ですら見せたことのない、圧倒的な覚悟の光。
その表情を見た瞬間、俺の全身の関節が凍りついた。心臓が異常な高鳴りを打つ。強烈な胸騒ぎが胸を刺す。
――嘘だ……やめてくれ……頼むから、それを言わないでくれ……!
「アブディ」
国王の声が、魂を揺さぶるほど重く響く。言葉を挟もうとした俺を制するように、大きな手をかざした。その口元が微かに震えているのが見えた。
「この六年間、王国に捧げてくれた不変の忠誠に対し……今夜、お前に最後の命令を下す」
忍び足で近づいてきたエリシア王妃が、夫の隣に立った。普段は気高さの象徴として凛と佇む女性が、今や目元に涙を溜めている。王妃という仮面の奥で、一人の母親の心が引き裂かれようとしていた。
「昼間お前が言った『逃亡』の進言……今夜、実行に移す」
「陛下! でしたらすぐに地下の隠し通路から――」
「だが!」
国王の鋭い一声が、俺の言葉を遮った。最悪の予感が現実となる。
「老い晒した余たち夫婦ではなく……お前には、このミストラリス大陸の『未来』を連れて逃げてほしいのだ」
国王の顔がふっと和らいだ。その温かい慈愛の表情が、かえって俺の心を深くえぐる。
空気が途絶えたかのような静寂の中、エリシア王妃が俺に歩み寄った。震えるその両手が、上質な絹に包まれてすやすやと眠る幼子を、俺の胸元へと差し出す。
「この子の名は……ルナ」
王妃は涙を堪え、掠れた声で囁いた。
「私たちの娘……ルナです」
その優しい声が、俺の最後の理性を打ち砕いた。膝から力が抜け、御影石の床に激しい音を立てて崩れ落ちた。
……どうしてだ。どうしていつも、善い者が犠牲にならなければならない!?
激しく震える手で、押し潰されそうな胸を抱えながら、俺は両手を伸ばした。そして、幼いルナ 姫殿下の体をしっかりと受け止めた。暗黒に沈みゆくミストラリス大陸に残された、最後の希望の光を。
「この地獄から、この子を連れ出してくれ、アブディ」
国王は俺の前に膝をつき、大きくて温かい手を俺の肩に置いた。
「ゼフィールの手の届かない場所で育ててほしい。お前自身の血肉であるかのように守ってやってくれ……そして、この大陸の誰よりも幸せな人生を、この子に与えてやってくれ」
目頭が熱く焼け付く。耐えかねた涙が頬を伝い、姫を包む布へと零れ落ちた。頭上から、この国の最高権力者たる夫妻の、深い慈愛と誇り、そして永遠の別れの視線を感じる。
「陛下……王妃様……感謝申し上げます。これまで、本当に……」
俺は袖で涙を拭い、立ち上がった。打ち砕かれた心の中から湧き上がる烈火のごとき決意を胸に、主君夫妻の目をまっすぐに見つめた。
「賜りました最後の御命令……この命、この魂に代えても必ずや果たしてみせます!」
――ドカアアアンッ!!
城の裏手に広がる森林地帯の門が、すさまじい爆音とともに吹き飛んだ。夜空へ黒煙が立ち上り、血に飢えた反乱軍の歓声と、数千の足音が入り混じる。
「謀反人を追え! 城外へ逃がすな!」
「茂みを捜せ! 宰相閣下のお達しだ、逃亡者は一人残らず抹殺しろ!」
夜の闇を切り裂き、一人の男が全力で疾走していた。かつては気品あった宮廷服は破れ ボロボロになり、敵の返り血と己の傷から流れる血で濡れている。息は荒く、壊れかけた発動機のように絶え絶えだった。すすと乾いた涙の跡の奥で、その瞳は複雑な感情の光を放っていた――深い悲しみ、怒り、そして揺るぎない鋼の意志。
その胸の中、厚いマントの内に固く抱えられた赤ん坊が、爆音に驚いて泣き声を上げ始めた。
「よしよし……大丈夫ですよ、姫様……俺がついています」
男は掠れた声で囁き、抱擁をさらに強めると、闇に茂る鋭い枝から幼子を庇った。
男の足取りは、さらに深さを増す禁忌の森の奥へと突き進む。鬱蒼と茂る木々が天然の盾となり、遠くで揺らめく兵士たちの松明から足跡を隠してくれた。しかし、姫の小さな泣き声は、常に自分たちの位置を露呈させる危険を孕んでいる。
――サッ!
男は突然足を止め、巨大なクスノキの幹の背後に身を潜めた。息を殺し、温かい掌で赤ん坊の口元を慎重に覆う。
隠れている場所からわずか五メートル先を、黒い鎧を纏った反乱軍の兵士二人が松明を掲げて通り過ぎた。
「おい、今何か聞こえなかったか?」
「ただの野良イタチだろ。急ぐぞ! 本隊がすでに国王の寝所に突入したらしい!」
二人の足音が遠ざかるのを待ち、男は静かに息を吐き出した。心臓の鼓動がうるさいほど胸を打ち、頭がクラクラする。脚の筋肉は悲鳴を上げ、一瞬だけ疲労に屈しそうになる。
だが、意識が闇に呑まれそうになるたび、国王の力強く温かい笑顔と、王妃の希望に満ちた差し迫った瞳が脳裏に蘇る。主君の最後の言葉、王国全体の命運を賭けた最後の託託が、男の生命力を再び燃え立たせる薪となった。
男は体を起こし、果てしなく続く森の 暗闇をまっすぐに見つめた。
男の名はアブディ。
そして今夜、彼の人生で最も偉大なる 冒険と 忠義の物語が、幕を開けたのだった。




